ヤドカリ方程式

 私は有名な海水浴場のある町で育った。夏になると観光客や避暑客が大挙して押し寄せ、道路が混み、非常に迷惑だった。そしてこの町の海岸線の殆どは砂浜だった。

 浜辺と磯、どちらが好きかと言えば、私は断然磯派だ。何故か。磯の生態系はとても豊かだからだ。磯に比べて浜辺には生き物が少ない。夏になれば実家町の浜辺は海水浴客で溢れかえるが、私は人間には興味無い。真っ黒に日焼けしたサーファーの兄ちゃん達なんて観察しても面白くない。


 実家から車で三十分くらいのところに素敵な磯があった。


 大きな岩のそばを通ると、その表面がザワザワと揺れ動く。フナムシ君達だ。ヒトが側を通るたびにザザザッ、ザザザッと右へ左へ群れをなして動く様は灰色の波の如し。彼等は非常に素早く、捕まえようと思っても中々難しい。雑食性のフナムシ君達は海辺の掃除役を担う。しかしちょっと色の薄いゴキちゃん風なその容姿を嫌うヒトは多い。それともあの群れをなして走り回る様子が良くないのだろうか。エビやカニと同じ甲殻類なのに不当に差別されている。ただしフナムシ君達にとってはラッキーなことに、彼等は非常に不味いらしく、ヒトに捕食されることは滅多にない。釣り餌にされることはあるが。


 磯と言えばイソギンチャク。大小様々、色とりどりの彼等を順番に突ついて口が閉じたり開いたりする様を眺める。因みに『磯巾着』は英語では 『sea anemone』(海のアネモネ)だ。トコロ変わっても人間が想像するモノって何だか似ているなぁ、と感心する。

 時速数センチで移動できるイソギンチャク君。彼等の口に指を突っ込むと、ヒラヒラとした触手が慌てて閉じる。そして指をそっと抜く時に、何だかプチプチと少し引っ張られるような感じがする。触手には刺胞と呼ばれる特殊な細胞があり、刺激を受けると袋状の細胞の中から糸付き針が飛び出してくる。針の先には毒があり、これで獲物を捕らえたり敵を撃退したりする。多くのイソギンチャクの毒性は低く、人間に影響を及ぼすものではない。そもそもこのミクロサイズの毒針ではヒトの硬い指の皮膚などは貫通しないらしい。では粘膜ならば、どうなのか。

 大学の生物学の授業でイソギンチャクを観察していた時のこと。私と同じ疑問を持った男子学生がいた。非常に好奇心旺盛で、且つチャレンジャーだった彼は教授の許可を取り、イソギンチャクを舐めてみた。結果、彼の舌は見事パンパンに腫れ上がり、彼はその後二日程、カキ氷を主食として命を繋いだ。一応断っておくが、私は彼をそそのかしたりはしていない。ただそれとなく疑問を口にしてみただけだ。

 ところでクラゲもこの刺胞を持っているのだが、クラゲやイソギンチャクを捕食するミノウミウシ等は、獲物の持つ未使用の刺胞を無傷で体内に取り込み、そしてそれを自分の表皮に送り込んで武器として活用する。盗刺胞と呼ばれるビックリ技だが、それにしてもなぜ食ったモノのうち刺胞だけが消化されないのか。知っている人がいたら是非教えて下さい。


 岩場と言えばフジツボ。岩だけでなく、船底や鯨の皮膚にまでギッチリと群れをなしてくっついている彼等は実は貝ではなく、甲殻類、つまりカニやエビの仲間だ。フジツボの研究の基礎は、かの有名なチャールズ・ダーウィンが築いたそうな。

 ところでこのフジツボ君。カニの仲間と言っても動くわけでもなく、貝のように水管を出すわけでもなく、生きているか死んでいるかもよく分からん生き物だ。何やら化石化したような石灰質の煤けた色合いにも特に魅力無し。そんなこんなで、私は長年彼等の存在を軽んじていた。

 私のフジツボ君に対する見解は、とある生物学の授業で一転した。私は講義中に爆睡することが多いのだが、たまに起きていると良いこともある。

 雌雄同体のフジツボ君は己の力だけで繁殖出来るが、しかしそれでは遺伝子的に宜しくない。だから彼等は多くの場合、お隣さんと交尾する。どうやってやるかと言うと、まずあのフジツボの天辺の穴からひょろひょろと細くて長い雄性生殖器を出す。そしてそれで、近隣のフジツボ達の殻を順番にトントンとノックしてまわる。交尾に興味の無いお隣さんは、天辺の穴を閉じてしまう。交尾オッケーのお隣さんはドアを開けてくれる。そして全ては合意の元にスムーズに行われる。これを知って以来、フジツボの群れを見る度に、礼儀正しく平和主義の小人達のテント集落を想像してしまう。

 そしてこのフジツボ君の雄性生殖器、先が小さな槍のような形をしていて、彼等はなんとコレを使って小さな獲物を捕えることが出来るらしい。

「世界広しといえども、生殖器を使って狩りをする生き物は他に例を見ないのではないか」 としみじみと呟いた教授の顔が忘れられない。


 他にも小エビやら小魚やら、磯には多くのオモシロ生物達がいる。

 しかし私的には、磯で見つけて一番嬉しいのは何と言ってもカニですな。ユーモラスな顔、怒ったように爪を振りかざす姿は何度見ても見飽きない。器用にハサミを使って海藻などを口に運び、モグモグと食べる仕草も可愛い。しかし彼等は多くの場合岩の細い隙間に隠れていて、チラリと半分ほど顔を出しても、危険を察知するとあっという間に岩の奥に逃げ込んでしまう。


 カニによく似ていて、そしてカニよりもずっと捕まえやすいモノといえば、ヤドカリ君だ。


 小学生の頃のこと。両親と磯に遊びに行った私は、直径五~六ミリにも満たないような小さな巻貝を背負った無数の稚ヤドカリを見つけた。此の世にこんな可愛いモノが存在するとは! 色合いの綺麗な巻貝を背負った十匹のチビヤドカリ達を厳選してバケツに集め、私は母に宣言した。

「コレ家に連れて帰って飼う」

「そんなの無理に決まってるでしょ! あんたのことだから、また水道水に食塩を混ぜるとか言うんでしょ? 海の水はタダの塩水じゃないんだからね!」

 バカにするな。それくらい知っている。ふふん、とせせら笑う小四の私。

「大丈夫。ペットショップに海の水の素みたいなのが売ってるから。pHの調整剤とかミネラルとかが入ってて、それを水に混ぜれば、家でも海水魚が飼えるんだって」

「……そんなのどこで見たの?」

「猫の餌を買いに行った時に見つけた」

「……」

 悔しそうな顔をする母。彼女はペットショップで私に首輪と綱をつけておかなかった事を密かに後悔しているに違いない。


 かくして私は十匹のチビヤドカリ達を手に入れた。海の水の素(かなり高額)はヤドカリ君達のお気に召し、広くて浅い硝子の水槽に入れられた彼等は、米粒や鰹節、海藻類をモグモグと食べて元気に暮らしていた。どの子も可愛かったが、私は特に濃いピンク色の巻貝を背負ったヤドカリ君がお気に入りだった。


 そんなある日のこと。

「タンスの奥からこんなの出てきたから、ヤドカリにあげる」と言って、母が十数個の小さな巻貝を持ってきた。巻貝はどれも、ヤドカリ君達が現在使っているモノより僅かに大きい。よしよし、と喜んで貝を水槽に入れてやった。


 ーーまさかこれが終わりの始まりになるなどと、誰が想像出来ただろう。


 宿主のいない家を見たヤドカリ君達は、皆狂喜して新しい物件に飛びついた。お目当ての貝の前ににじり寄り、サッと身体を抜いて新しい貝の中に入れる。彼等の腹は細長く、柔らかそうで、巻貝の形にくるりと曲がっていた。

 最初のうちは面白がって見ていた私と母。やがておかしな事に気付いた。

 新しい物件を手に入れたヤドカリ君達は、ウロウロと歩き回り、他の物件が目に付くと、そちらに慌てて乗り換える。そしてまた数歩動いて次の貝に乗り換える。それを繰り返し続ける。全然落ち着かない。

 やがてヤドカリ同士で家の直接交換を始めた。温厚な話し合いの末に家を交換している感じではない。何やらあちこちで内輪揉めが勃発し、巻貝を脱ぎ捨てたヤドカリ君が裸で走っていたりする。それを他のヤドカリ君が襲う。つい一時間程前までは平和な楽園だった水槽は、あっという間に阿鼻叫喚のヤドカリ地獄と化したのだ。

 慌てて余分な巻貝を取り除いたが、時すでに遅し。死傷者多数。私のお気に入りのヤドカリ君も憐れ、内乱の犠牲となった。生き残った子達は余分な巻貝が全て取り除かれたにもかかわらず戦いを続け、数日のうちに全滅してしまった。


 本当に何が何だかワケが分からなかった。ヤドカリ君の心理など、私程度の人間には計り知れない。しかしこの日を境に、『手頃な巻貝 +ヤドカリ君 = 死を伴う狂喜狂乱の渦』という方程式が私の中で確立された事だけは確かだ。

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