ハチドリ

 ブゥン、という低い羽音に顔を上げると、バルコニーに吊るした餌台フィーダーの砂糖水を飲みにハチドリが来た。


 ハチドリのフィーダーは円筒形で下の方に幾つかの小さな穴が空いている。それに砂糖水を入れて屋根の下などに吊るしておくと、ハチドリが穴に嘴を突っ込んで中の水を飲むという仕組み。

 毎秒五十〜八十回羽ばたき、ホバリング(空中停止)する小さな鳥達。ちなみに飛びながら後退出来るのは鳥類ではハチドリだけだ。彼等が飛んでいる時はあまりの速さに羽が見えず、本当に蜂のようにブゥンブゥンと羽音がする。針のように細長く尖った嘴、光沢のあるグリーンやブルーの羽に赤や紫の喉元など、色も鮮やかでとても可愛い彼等だが、実はかなり好戦的だ。


 ブゥンとホバリングしながらハッチー太郎が砂糖水を飲み始めて数秒もしないうちに、ハッチー次郎がやって来た。ブゥンブゥンとフィーダーの周りを旋回しつつ、お互いの隙を窺う太郎と次郎。不意に細長い嘴をフェンシングの剣のように閃かせ、空中戦を繰り広げる。あまりに素早くてよく分からないが、太郎の方が剣術の腕が上らしい。次郎が諦めて飛び去った。

 太郎がやれやれ、とフィーダーに嘴をつけようとした瞬間、ハッチーサブロー登場。サブローは非常に好戦的で、睨み合いもせずにいきなり太郎の首筋を狙う。慌ててサブローに向き合う太郎。太郎も腕が立つがサブローも素早い。二羽が空中で火花を散らしていると、ハッチー士郎くん登場。三つ巴となり益々激昂する戦い。


 ようやく全てのハッチー達を追い払い、烈しい戦闘を勝ち抜いたサブローがバルコニーの横の樹の先端にとまり、ジジジジ、ジジジジ、と勝鬨を上げる。ハチドリはその小さな体に似合わぬ意外に大きな声で鳴く。そしてその鳴き声というのが、愛らしい姿にそぐわぬ、死にかけの油蝉のような声なのだ。アメリカ大陸旅行中、もし季節外れの油蝉の鳴き声がしたら、近くの樹の枝を見てみると良い。突き出た枝の先端に縄張り宣言中の小さなハッチーの影を見つけることが出来るだろう。


「ハチドリの戦いを見ていると天国と地獄の説明図を思い出す」とかイキナリ言い出すジェイちゃん。

「天国と地獄にはご馳走の皿と長い箸があって、地獄では皆その長い箸を使って自分の口に食べ物を入れようとするんだけど、箸が長すぎて誰も食べることが出来なくて、皆飢えて阿鼻叫喚化する。天国では離れたところにいるヒト同士が、『どうぞ』『ありがとう、ではアナタもどうぞ』って長い箸を使ってお互い助け合うから、皆が楽しくお腹いっぱい食べることが出来るんだ」

 どこかで聞いたことのあるやけに抹香臭い話だが、それが一体どうハッチー達と関係するというのだ。

「だからね、ハッチー達だって仲良く一緒に飲めば、皆で満腹幸せになれるのにさ〜」

「そんな甘いこと言ってたら此の世は渡っていけないんだよ」

「そーゆー考えだからイズミは死んだら地獄行きなんだよ」

 まるでそれが決定事項のように言い放つジェイちゃん。失礼な奴だ。しかし私はそんなジェイちゃんをふふんと鼻先で笑う。

「別にいいもん。私はヒトの天国なんか全然行きたくないもん。馬と犬の天国に入れてもらうんだもん。ジェイちゃんなんかと一緒にしないで」


 ジェイちゃんは昔、ハチドリが好きだった。

「ハチドリって可愛いよね〜。でも、メタボリズムが高過ぎて、朝、時間通りに目覚めなかったハチドリは、飛ぶエネルギーすら残ってなくって、飢えて死んじゃうんだよね。なんてデリケートで儚い生き物なんだろう」

 確かに飛行中のハッチー達のメタボリズムは虫以外の動物の中では最も高い。ブゥンブゥンという羽ばたきの所為だ。ある研究によると、ハッチーの運動中の心拍数は一分間に千二百回を超え、起きている間は常に花の蜜を求めて動き回らなければ数時間で餓死してしまう。餌が少ない時や夜寝る時は、半冬眠状態になって呼吸数や心拍数を落とし、メタボリズムを抑える。


 ハチドリのフィーダーを初めてバルコニーに取り付けた時、ジェイちゃんは繊細で儚いハッチー達の姿を見るのをとても楽しみにしていた。フィーダーの砂糖水は早い時など三日で空になる。いそいそと砂糖水を作るジェイちゃん。しかしジェイちゃんの砂糖水を巡るハッチー達の戦いは日に日に激しくなってくる。

「なんでかなぁ、ちゃんと作ってあげてるのに、なんだか喧嘩ばっかりしているんだよねぇ。水が足りないなら分かるけど」

「そりゃジェイちゃんが砂糖水を切らさないからじゃん」

「は? どういう意味?」

「枯れることのない餌の供給源はハッチー達にとって非常に価値があるからね。ここが優良ドリンクバーだと思うから、縄張り争いが激化するんだよ」

「え、じゃあ少し水を切らした方がいいのかなぁ」

「水が切れてても、ハッチー達は縄張り内のフィーダーは日に何回かチェックしに来るんだよ。餌がなければ喧嘩にはならないけど、でも常に飢えと戦ってる彼等にそんな事してもいいの? ジェイちゃんの空のドリンクバーをチェックしている間にエネルギーが尽きちゃったらどうするの? 一度ハッチー達に供給源認定されちゃったら、もう後戻り出来ないんだよ」

「だけどあんなに喧嘩しなくてもいいのに……」

「知らないの? ハチドリってすごく好戦的なんだよ? 嘴でライバルの脳天や喉元に穴開けちゃったりするんだよ?」

「……嘘だ。あんなに可愛いハチドリ達がそんな事するわけない」

「信じないなら別にいいけど」

 イヒヒ、と思わせ振りに笑う私。好奇心に負けたジェイちゃんは YouTubeのビデオを見てしまい、物凄く後悔していた。ジェイちゃんの中のハチドリ好感度はかなり下がったが、「戦いで死ぬか、ジェイちゃんのせいで飢えて死ぬか…」と私に言われ、渋々砂糖水を作り続けている。


 ブゥン、と羽音がして、輝くブロンズ色のハッチー登場。

 木の枝で休んでいた緑と赤のサブローが素早く応戦する。

「いっぱいあるんだから仲良く飲みなさい!」と男の戦いに口を出すジェイちゃん。しかしハチドリ達は戦い続ける。一羽が諦めていなくなってもすぐに次が来る。彼等の戦いに終わりなどないのだ。

「ダメだ、戦いに専念しているせいで誰も飲めていない。バカだ、バカ過ぎる」

 一方、私はハチドリ達の仁義なき戦いを応援する。

「いけっ! そこだ! やれっ!」

「なんでイズミはいっつも戦いを応援してるのっ?!」

「そりゃ勿論、戦いに負けたハッチーが落ちてこないかな、って期待してるからに決まってるじゃん」


 十五〜六年前の話。

 その頃住んでいた家にもハッチーのフィーダーがあった。ある日、台所で洗い物をしていた母が、「ティンクがなんか言ってる」と言い出した。ティンクというのは私が子供の頃に飼っていた白いメス犬で、サモエドと紀州犬の雑種だ。

「なんかね、流しの前の窓に来て、二本足立ちして一生懸命私のことを見るの。それで私と目が合うと、なんかドアのマットレスの方に走って行くの。それをさっきからずーっと繰り返してるの」

「ふ〜ん」

 何かと思い庭に出るドアを開けると、慌てて駆けつけたティンクがマットレスの端にそっと鼻をつけた。そこにはなんとハチドリが……!

 ええええええっ?! とビックリしてハチドリを手に取った。ハチドリは気絶していたが、羽も折れていないし、特に目立った外傷もなかった。どうやらフィーダー争いで脳天に一撃を喰らったハッチーが、脳震盪を起こして落ちてきたらしい。しかしフィーダーはドアからかなり離れたところにある。ティンクは墜落したハッチーを拾い、傷付けないようにそっとドアまで運び、それを私達に伝えようとしていたらしい。


 ティンクは少し変わった犬で、鳥などの小動物に優しかった。私がペットのネズミのケージを掃除していた時も、一時的に入れられたバケツの中で飛び跳ねているネズ君をそうっと咥え出してバケツの外に出してやり、彼の脱走の手助けしたこともある。家の猫のミルクくんが喧嘩で負けそうになった時も一生懸命吠えて加勢していた。ミルクもよく知っていて、自分が負けそうになるとティンクのそばに逃げ込む。そして追いかけてきた野良猫をティンクがガゥガゥガゥッと吠えて追い散らす。ちなみにこのミルクくん、ティンクが仔犬の頃は彼女をメチャメチャ虐めてました。


 ティンクが唯一虐めた動物は、庭に大量に住んでいたヒキガエル達だ。いくら叱ってもティンクは彼等を前足で押さえつけるのを辞めず、殺すわけではないが、しかし我が家には足が潰れたり、目玉が傷ついたりしたヒッキーが沢山いた。ティンクはヒッキー達を押さえつけ、いつも興味深げに彼等に鼻をつけ、そして時々哀れな犠牲者達を舐めていた。ヒキガエルの毒は幻覚症状を引き起こす。今から思えば、彼女はヒッキー達の毒でトリップしていたのかもしれない。


 話は戻ってハチドリくん。

 おおおおお、とその小さな姿に興奮しつつ十分程手の中で温めていると、やがて目を覚まし、フラフラと起き上がった。そのまま更に数分私の指先にちょこんととまってボンヤリしていたが、「あ、起きた起きた〜」とでも言うようにティンクがふと鼻を近づけた瞬間に、ハッと我に返って飛び立った。なんの支障もなく飛び去っていったので、やはりただの脳震盪だったらしい。ちなみに私と母は興奮し過ぎて、写真を撮るのを完全に忘れていました。う〜ん、残念!


 私だってハッチー達の流血の惨事なんて見たくはない。でも心の何処かで、私の目の前でやってくれるなら、軽い脳震盪くらいはイイと思ってしまうのだ。もう一度、あの小さく愛らしい体をこの手に抱いてみたい……。


 甘くも仄暗い期待を胸に、私は今日もハッチー達の熱い戦いにエールを送る。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る