喋る犬

 動物はどれほど人語を理解しているのだろうか。

 よくわからんが、しかしかなり理解していると思われる。お座りだのお手だのと言ったレベルではなく、長い間ヒトと暮らした動物は、実は人語ペラペラなのではないだろうかと、時々思うことがある。口の構造が違うから喋れないだけでさ。だから、あまりペラペラとおかしな事をペットの前で口走らない方がいいかもしれない。口は災いの元。自分を見つめるつぶらな瞳に向かって思わずこぼした言葉が、いつの間にやら御近所の犬猫共の間で噂になり、密かに笑い者にされている。ゾッとしないシチュエーションですな。


 エンジュは生後三ヶ月にもならない仔犬の頃から相当な人語理解力をみせた。

 エンジュが仔犬の頃、私は五人の友人と一軒家を借りてハウスシェアしていた。ある日のこと、私はエンジュに「ローリー呼んできて」と頼んだ。エンジュは五人のハウスメイト達の名とその部屋を把握していた。即座に二階への階段を駆け上るエンジュ。しかし一分もしないうちに一階の私の部屋に戻ってきた。

「ローリーは?」と尋ねると、私の横に座った彼女は少し困った顔で私を見上げた。

「ローリーいたでしょ? 早く呼んできて」

 再び二階へ向かうエンジュ。先程に比べ、何やら足取りが重い。三分後、二階から戻って来た彼女はドアの陰から部屋を覗き込み、もじもじしている。

「エンちゃん、何やってんの? ローリーは?」

 ドアの陰からじっと私を見つめるエンジュ。

「ちょっと、早く呼んできてってば! 中間試験の範囲教えてもらわないと困るんだから!」

 不意にエンジュがやけに不貞腐れた人間臭い表情で私を見た。階段を駆け上がったエンジュがワンっと一言吠えるのが聞こえた。と、ドタドタと階段を誰かが降りてくる音がして、ステフが顔を覗かせた。ステフとローリーは部屋をシェアしている。

「あれ? 私、エンジュにローリー呼んできて、って言ったのに。エンちゃん、馬鹿なの? 人違いだよ」

 無表情に私を見上げるエンジュ。と、ステフが笑いながら、「ローリーいないよ」と言った。

「さっきからエンジュが何度も部屋を覗きに来るから何かと思ったら、やっぱりイズミのせいか」


 エンジュは最初、ステフとローリーの部屋を覗き込み、ローリーがいないことを確認すると、ステフが声をかけても知らん顔で慌てて階下に戻ったらしい。エンジュはステフと遊ぶのが好きだ。しかし寄り道せずに、ローリーがいないことを早く私に伝えようと思ったのだろう。

 数分後、再び二階へ上がってきたエンジュは、今度は部屋の中に入り、ローリーのベッドをじっと見つめた。そして隣のキャシーの部屋も覗きに行った。

「エンジュ、どうしたの?」とステフとキャシーが声をかけても振り向きもせず、最後に二階のバスルームを覗いてから下へ降りたそうだ。そして私に怒られたエンジュは、三たび階段を駆け上がり、今度は真直ぐステフの足元へ駆け寄り、彼女に向かってワンと一声吠えたらしい。

「ちょっと! うちのニブイ飼い主に、ローリーいないって教えてやって!」


「あらあ、エンちゃん、賢いでちゅねぇ。それはそれは大変失礼致しました。オホホホ」

 笑って誤魔化そうとしたが、私にバカ呼ばわれされた彼女は尻尾も振らず、作ったような無表情で窓の外を眺めていた。


  ❀


 エンジュが一歳になった時、保健所からホワイトシェパードを引き取ってきた。一歳半の雄犬はガリガリに痩せていたが、それでも体重が五十キロ以上あった。私が今まで見た中で最も巨大なシェパードだった。子犬の頃はシロクマのようで可愛かったが、あっという間に大きくなり過ぎて飼主に捨てられた典型だ。

 私は彼を吹雪と名付けた。ハイ、実はこの子が我が家の吹雪一号。過去に度々このエッセイに登場している方は、吹雪二号なのだ。まぁ、このエピソードはまた後ほど。

 夕方六時頃にシェパードを家に連れて帰り、エンジュと対面させた。エンジュは一目で彼を気に入った。シェパードもエンジュを気に入り、二匹は一瞬にして大親友。家中を駆けずり回って遊び始めた。シェパードくんには何やらセンスの無い名が付いていたが、そんな事は御構い無しに彼を吹雪と呼ぶ私。シェパードくんは無論新しい名には反応を示さない。成犬の呼び名を変えるのは、犬にもよるが、大体数日から一週間くらいかかる。


 翌朝、鳥のモモ肉をレンジで解凍していると、エンジュが台所の隅からじっと私を見つめていた。私は時々わざと乱暴に解凍し、煮えた部分を切り落としてエンジュにあげるので、それを期待しているのだろう。吹雪は二階のベッドルームで昼寝でもしているらしい。

「エンちゃん、お肉欲しいの?」

 うんうん、と期待に目を輝かせるエンジュ。

「欲しかったら、吹雪も呼んでおいで。二匹一緒にあげます」

 肉の端を切り落としながら何気無く言うと、エンジュは即座に踵を返し、階段を駆け上がった。そして二階でワンッと一声吠え、続いて二匹の犬がドドド、と階段を駆け下りて台所へやって来た。期待の眼差しで私を見つめるエンジュ。


 ……賢い。昨夜家に来たばかりの犬の名を、犬自身が覚える前に理解したエンジュ。更に上記の会話、全て日本語だったのだ。エンジュへの命令は英語を使っている。エンジュは勿論「取ってこい(Go get it)」を知っているが、私は吹雪を取ってこいとは言わなかった。そもそも英語じゃなかったし、何と無くダラダラ話しかけていただけなのだ。はっきり言って、彼女が私の言っている事を理解しているなんて、これっぽっちも思っていなかったのだ。

 うーむ、と思わず唸った。一歳足らずでこの人語理解力。こいつの前ではあまり変な事は口走らない方がイイかもしれぬ。気をつけよう。


  ❀


 一歳半を過ぎた頃から、エンジュは私の独り言やルームメイトとの会話のみならず、電話の会話にまで神経を張り巡らせるようになってきた。

 人嫌いのエンジュ。彼女は私が電話していると、密やかに背後に近付き、会話に耳を澄ませる。そして私が自分の住所や家への道を説明し始めると、何やら表情が暗く不機嫌になる。そして私が「じゃあ後で!」とか「うん、一時間後くらいに待ってるね〜」などと言おうものなら、即座に玄関へ行く。そしてドアの前に陣取り、ありとあらゆる物音に唸り声を上げる。普段なら決してそんな事はしないのに、誰か来ると思って臨戦態勢に入っているのだ。叱っても中々辞めず、ずっと玄関を見つめ続ける。

 ウザイ。ウザ過ぎる。ってか、一時間後ってとこは聞いてないのかお前は?! そもそも本当にヒトが来たら風呂桶のなかに逃げ込む癖に、何カッコつけてるんだよ!


 余りにウザイので、友人が家に遊びに来るといった会話は換気扇をガーガーと回しつつトイレの中でするようになった。何が悲しくて犬相手にこんな可笑しな気を遣わねばならんのだ。閉められたトイレのドアに張り付いて会話を聴き取ろうとするエンジュ。夫の浮気を疑う妻のような真似をするな!


  ❀


 エンジュは無駄吠えのない犬だが(しかしコヨーテ風の遠吠えはする)、ごく稀にヒトに向かって吠える時がある。他の犬の悪行を私に言いつける時と、そしてヒトに文句を言う時だ。


 日本から遊びに来た母が私のベッドに寝転がっていると、エンジュがその横に飛び乗った。エンジュは、神のベッドは神のモノ、神が寝ていなければ自分のモノだと思っている。私と一緒に寝る時、彼女は決して私を踏まず、私の邪魔にならないように常に気を遣い、私がゴソゴソと動けば慌てて床に降りる。イイ子なのだ……私に対しては。


 母の脚に半分身体を乗せるようにして眠るエンジュ。

「まぁ、エンちゃん、ちょっと重いじゃないの」と母が言っても知らんぷり。絶対に分かっていて無視している。二十分程して、足が痺れてきた母が、そうっと遠慮がちにエンジュの下で足を動かした。その途端。


 ガウガウガウッ。


 跳び起きたエンジュが母の鼻先十センチまで顔を近づけて吠えかかった。驚いて呆然とする母を横目でジロリと睨み、ふんっと鼻を鳴らし、ベッドから飛び降りてスタスタとリビングルームへ去るエンジュ。

「な、なに今の……?」ポカーンと口を開けている母。「なんか、すっごい文句を言われた気がしたんだけど……」

「あぁ、今、エンジュの下で体を動かしたでしょ? 翻訳するとね、『動いてんじゃねーよっ、寝にくいだろーがバカッ』ってとこだね」

「んま〜〜! 」 顔を真っ赤にして叫ぶ母。

「なんって生意気な犬なの?! 足元で寝てた癖に、わざわざ立って顔の真ん前まで来て文句言ったわよ! 信じられない! 何がガウガウよっ! 失礼しちゃうわねっ」


 元々母はエンジュの事を『自閉症気味の可哀相な犬』呼ばわりしていたが、この一件でエンジュは『ヒトの鼻先十センチで文句を言う超失礼な犬』認定された。

 喋る犬にプライドを傷つけられた母。彼女は今でもこの事をしつこく根に持っている。

「ほんっとうにあんたは一体どういう子なのかしらね! 人間に向かって如何にも文句言ってる、って顔で文句を言うなんて、生意気にも程があるわ。ダメダメ、今更そんな可愛い顔をしてみせたって、騙されないもんね! オヤツなんかあげないもんね!」

 チキンを解凍しつつ、彼女はしばしば十年以上昔の事件を蒸し返している。


 口は災いの元。

 当て嵌まるのは、ヒトだけではないようだ。

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