マイダス戦記(後編)

「マイマ〜イ」

 私が口笛を吹きながら現れると、囲いの中で朝食を食べていたマイダスが顔を上げた。私が近づくのをじっと見つめているが、スニッカーズやブルックリンのように私に駆け寄るような可愛げはない。まぁ明後日の方向へ逃げ出すよりマシだ。時々リーサーの顔を見た途端に一目散に逃げる馬がいる。二十エーカー以上ある放牧場でコレをやられたらお手上げだ。人参を振り回しながら馬を追いかけるヒト達を見る度に、気の毒なのと可笑しいので噴き出してしまう。まぁ所詮他人事ですから。

 それにしても、雨に備えて囲いの中に撒かれたふわふわの腐葉土みたいなモノが深くて、やけに歩きにくい。ずぼっずぼっと膝丈まで柔らかな土に埋まりつつマイダスに近付き、ヒョイッと首にリードロープをかけようとした瞬間、マイダスが動いた。


 マイダスの隣から首を伸ばして私を見ようとした馬を嫌って避けようとしたのだろうか。不意にデカイ尻でドシンと体を押され、柔らかな土に足を取られ、うつ伏せに倒れた私の背骨の上10センチくらいのところをマイダスの後脚が掠めた。


「いや〜、今日は久々に生命の危機を感じちゃったわ〜」

 同僚のSさんにこの話をすると、常識人ビビリの彼は青褪めて口許を引き攣らした。

「……やっぱ乗馬って危ないですね」

「でも落馬して死ぬならまだしも、乗ってもいない時の事故じゃあチョット死んでも死に切れないよね」

「やめて下さいよ、ホント。乗ってても乗ってなくても、死ぬのだけは勘弁して欲しいです」

「まぁコレは不幸な事故というか、滅多にあることじゃないし」

 あはは、と呑気に笑う私。

 しかし数週間後に思い知る。コレは事故などではなかったのだ。


 その後しばらく、マイダスに特に変わった様子はなかった。

 捕まえる時も大人しいし、グルーミング中に私が彼のプリプリのお尻に抱きついても歯を剥くこともない。かと言って、前足ゆらゆらを辞める気配もないので気は抜けないが、それにもなんとなく慣れてきた。(神経太いですから。)そして日々の鍛錬の成果か、マイダスの関節の調子もいいようで、乗り心地も上々。スニッカーズとはやはり比ぶるべくも無いが、まぁ良しとしようかな、なんたってイケメンだし……と思い始めた矢先、事件は起こった。


「マイマ〜イ」と機嫌良く朝乗馬に現れた私。

 朝食を終えて日向ぼっこしていたマイダスの首にリードロープをかけた瞬間、マイダスが体を反転させ、尻で私を押して転ばせた。数週間前と同じ状況だ。しかし私達の周りに他の馬はいなかった。

「こいつ、まさか……」

 半信半疑で、少し離れたところからじっと私を見つめるマイダスに近付いた。ホルターを付けようとした瞬間、再び尻で私をなぎ倒そうとするマイダス。今度は私も素早く後ろに飛び退いた。バカめ、そんな何度も同じ手を喰らうか!

 私を転ばせるのに失敗したマイダスは、チッと舌打ちでもしそうな顔で私を睨み、思いっきり後脚を蹴り上げ、ヒヒーンと嘶き柵の中をギャロップで一周した。何事かと驚く他の馬達。一方、私は猛烈な怒りで頭クラクラ、血圧が上がり過ぎて耳鳴りがした。馬に蹴られなくても脳溢血で死ぬかもしれない。


 怒り狂いながらもその日はなんとかバカ馬を捕まえ、乗馬クラブのオフィスに連行した。怒りでフルフルしながらマイダスの悪行を語ると、マネージャーさんが溜息をつき、「あ〜、イズミにでもヤるんだぁ」と言った。

「……は?」

「最近なんかマイダスが捕まえにくくってね、まぁマイダスには年に数回そーゆー周期があるのよ。それでいつもなら電気ショックの首輪を使うんだけど、どこにやったのかどうしても首輪が見つからなくって、チョット困ってるのよねー」と呑気なマネージャーさん。

「困ってるって、アレ危な過ぎでしょ?! あんなの一歩間違えたら普通に死にますよ?!」

「うん、だからね、最近はいつも調教用の長い鞭を持って捕まえに行くのよ。蹴ろうとしたら鞭でしばらく追い回して、そうするとマイダスも段々疲れてきて、『あ〜、めんどくせ〜』ってなって捕まるから」

「……」

 完全に言葉を失い、目が点になった。そうか、マイダスの性格が歪み切るにはやはりそれなりの事情があったんだな。まぁ奴も元々かなり頭オカシイところがあるんだろうけどさ。


 そしてその日以来、マイダスは私に対してもほぼ九十パーセントの確率で尻を振り回し蹴りを入れてくるようになった。一旦ホルターを付けてしまえば途端に大人しくなるが、ホルターを付けるためには近寄らなければ話にならない。人参で釣っても、私から人参を奪うと即座に尻を振り回してくるから手の打ちようが無かった。


「イズミ、せっかくの土曜日なのに、今日は乗馬に行かないの?」

 朝食のシリアルを食べつつジェイちゃんが首を傾げる。

「……行かない。仕事で疲れてて、マイダスと戦う気力が残ってない」

 最早、私にとって乗馬は癒しではなかった。プライド及び背骨と頭蓋骨の安全を賭けた戦いだった。

「もう仕方ないなぁ〜、僕が行って手伝ってあげるから」と妙な男気を出すジェイちゃん。ちなみに彼は馬の扱い方など何も知らない。ハッキリ言って役に立つとは思えなかった。

「……ジェイちゃんに来てもらってもねぇ」

「でもほら、イズミがホルターをかける時に人参で釣るとかできるし」

 ナルホド。それは良いアイデアかも知れぬ。要は人参を奪われなければいいのだ。途端に元気になって乗馬ブーツに足を突っ込む私。


「あのね、もしマイダスが蹴る真似でもしたら、即逃げるんだよ? ウロウロしてちゃダメだよ?」

 うんうん、わかってるよ〜、と呑気に頷くジェイちゃん。

 どうも彼には危機感が足りないような気がする。しかしこいつもアメリカ人なのだ。インディアナ州の田舎で子供時代から猟銃片手に山の中を駆け回っていたのだ。最低限の危機管理と自己保全くらい出来るのだろう。

「マイマ〜イ」と穏やかに声をかけて柵に入った私とジェイちゃん。

 日陰で休んでいたマイダスがジロリと私達を睨んだ。いつもならマイダスは私が首にホルターをかけるまでは動かない。しかしその日は違った。


 ジェイちゃんを見たマイダスの眼に不意に走る狂気の光。あ、ヤバイ、と思った瞬間、マイダスが突如前脚をあげて後脚で仁王立ちになり、次の瞬間こっちに向かって全力疾走してきた。


 私はマイダスが後脚立ちする0.5秒前に危険を察知し、「RUN!!!!!」 と叫んで全力で逃げた。そしてフェンスを飛び越え安全地帯に入ってから後ろを振り返ったら、ナント茫然自失としたジェイちゃんがマイダスの前に立ち竦んでいた。


 あ、ジェイちゃん死んだな。と思った一瞬だった。


 しかしマイダスも余りにジェイちゃんが呆然としているので拍子抜けしたのだろうか。キュッとジェイちゃんの鼻先十センチでブレーキをかけると、ふんふんとジェイちゃんの頭の匂いを嗅ぎ、軽く尻を振ってジェイちゃんを薙ぎ倒し、そのまま何事も無かったかのようにスタスタと立ち去った。


「ちょっとっ! 信じらんないっ、そんなところにボンヤリ突っ立って、もう何考えてんのっ?!」

 慌てて柵の中に戻ってジェイちゃんを怒鳴りつけると、我に返った彼はメチャメチャ涙目で、「信じらんないのはイズミでしょッ?!」と喚いた。

「 僕をオトリにして自分だけ逃げるなんてっ! ヒドイッ! ひどすぎるっ」

 一応断っておくが私は彼を囮にしたつもりなど無い。荒唐無稽な言いがかりだ。

「逃げろって叫んだのにボンヤリしてたのはジェイちゃんでしょっ?! アメリカ人の癖に自己防衛能力に欠けてるんじゃないのっ?!」

「だだだだだって! まさかあんなふうに襲いかかって来るなんて、普通思わないよ?!」

「マイダスは普通じゃないって言ってるでしょ!」

「でもでも、イズミだって、せめて僕の手を引いて逃げてくれるとかさ……」

 なんて情けないオトコだ。そもそも私の二倍近く体重のある奴の手なんぞ引いて逃げれるか。そんな事してたら共倒れがオチだ。


 人生の走馬燈を見たジェイちゃん。奴はその後数週間に渡って私をヒトデナシ呼ばわりし、如何に私が薄情かをグチグチネチネチと愚痴り続けた。

「僕は知ってしまった。いざという時、イズミは頼りにならない。何かあっても僕は自分だけを頼りに生きていくしかないんだ」


 そりゃコッチの台詞だっつーの!

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