マイダス戦記(前編)

 予め断っておくが、これは馬と私の奮闘記ではない。戦記なのだ。もうちょっとで血と脳漿が流れるところだったのだ。私ではなく、ジェイちゃんの血と脳漿が。



   ♦︎ ♦︎ ♦︎



 早朝、私がマイダスの顔を洗ってやっていた時のこと。

「マイダスってイズミのこと好きだよねー」と通りかかった女の子に言われた。

「……は?」

「他のヒトには絶対に顔なんか触らせないもん。イズミを見ている時は目つきが違うし」

 思わず狂気の気配漂うマイダスの眼をしみじみと見つめてしまった。

 ……こいつは一体どんな眼で他のヒトを見るのだろうか。なんでこんな性格のまま二十年近く生きてこれたのか。久し振りにものすごく疑問に思った。


 金色の馬、マイダスのリースを始めてから一ヶ月近く経った。

 私とマイダスの関係は概ね良好で、日進月歩とはいかないまでも、まぁ1.5歩進んで一歩下がり、くらいだ。グルーミングは餌無しでも出来るようになったが、鞍上げは干草無しではどうもまだ危ない。ちょくちょく足を踏まれそうになる。しかし一ヶ月も一緒にいればお互いの言葉がなんとなく分かってくるもので、それはやはり面白いなぁと思う。


 干草を食べていたマイダスが顔を上げて辺りを見回し、馬房から出て来た私に向かってブルル、と鼻を鳴らした。

「マイマイ、水欲しいの?」

「ブルル」

「はいはい」

 青いバケツに水を汲んで持ってくる。マイダスが待ってましたとばかりにバケツに顔を突っ込み、ゴキュゴキュと喉を鳴らして水を飲む。


 背中をグルーミングしていると、不意にマイダスが頭を二度振り、続いて首を曲げて自分の胸を見た。

「マイマイ、脇の下が痒いの?」

 前脚の付け根に手を突っ込んで強く掻いてやる。首を伸ばし、唇を尖らせ変顔するマイダスくん。馬が気持ち良い時にする表情だ。


 寒い早朝、熱い湯を汲んだ湯気の立つバケツを見たマイダスが期待に鼻の穴を膨らませる。湯で濡らしたタオルを固く絞り、湯気の立つそれをマイダスの瞼に当ててやる。目を瞑ってほげほげするマイダスくん。フェイシャルエステは彼のお気に入りだ。耳の先から鼻の穴の中までタオルを突っ込んでコシコシされても抵抗しない。

「私、もし馬に生まれ変わったらイズミの馬になりた〜い」とヒトは言う。

 そうだね。至れり尽くせり。私も私の馬になりたいよ。


 ここまで聞けば、「なんだ〜、スニッカーズの事なんかすっかり忘れて、マイダスとラブラブじゃ〜ん」とか思うだろう。でも違うのだ。私達の関係はそんな単純なものではない。



《 マイダスの悪癖・其の壱 〜 ヤキモチ 》


 馬に限らず、多くの動物はヤキモチを焼く。ブルックリンもスニッカーズも私が他の馬を撫でたりするとイライラと地面を叩き、不満気に鼻を鳴らす。しかしマイダスの場合、ヤキモチの対象が馬に限らないのだ。私がニンゲンと話しているだけでイライラする。「オハヨ〜」程度の挨拶でも干草から顔を上げて相手を睨みつける。私が他の馬を撫でたりしたら大変だ。離れた所にいてもよ〜く見ていて、隙あらば後からその馬に仕返しする。同じ囲いに住んでいる馬だったりすると、運動を終えて柵に帰ってからイキナリ相手の尻に噛み付いたりするのだ。相手だってなんで因縁をつけられたのか分からず大ビックリだ。

 この前などマイダスは馬房で産まれた仔猫達にヤキモチを焼いていた。四匹の仔猫達に私が話しかけているのをみて、イライライライラ……。前脚で土をほじくり返す。ホリホリ、イライラ、ホリホリ、イライラ……。これって落ち着かなかったり苛ついている馬がよくやるのだが、蹄や蹄鉄にも悪いし、そもそも行儀が悪い。叱っても無視しても、マイダスは私が自分のそばに帰ってくるまで絶対にやめない。もしそれでも私が無視したらどうするか。奴はなんとロープを引き千切って私のそばに駆け寄り、仔猫達を踏み潰そうとしたのだ。仔猫達が素早くて良かった。私も逃げ足が速くて良かった。奴が人間なら、きっとストーカー殺人犯とかになるのだろう。



《 マイダスの悪癖・其の弐 〜 黒い衝動 》

 

 ありがたいことに、グルーミングや鞍上げの最中にマイダスが後脚蹴りをかまそうとすることはなくなった。馬の後脚なんかで蹴られたら大怪我だ。骨が折れる程度ならまだしも、下手すれば命に関わる。

 マイダスが私を噛もうとすることもほぼ無くなった。鞍上げしていると、ふと干草から顔を上げて耳を伏せ、目尻に緊張感を漂わせて私を噛もうか噛むまいか考えている時がある。

「マイマイ、干草食べてなさい」と私に注意されると緊張を解く。しかしここでもし私が奴の身の内に湧き上がる黒い衝動に気づかなければ、多分噛まれるんだろうなぁと思う。

 

 馬の攻撃パターンの三点セット、『噛む・蹴る・踏む』のうち、マイダスはどうしても『踏む』をやめることが出来ない。そして奴の『踏む』はタチが悪い。

 ヒトの足をわざと、又はうっかり踏む馬は多い。自分の足につまづいて転ぶくらいだから、彼等は基本おっちょこちょいなのだ。それはマイダスも例外ではないのだが、しかし奴の場合は無論「わざと」踏むのだ。

 ヒトが近くにいると、奴はそうっと前足を上げる。そしてそのまま三本足で立ち、歯を剥き出すわけでもなく、大人しく何気無い風を装いつつ、じっと狙いを定める。そしてマイダスが足を上げている事に気付かない哀れな被害者が射程距離に入った瞬間、ガンっと足を踏み下ろす。四百キロ超の馬の蹄鉄を打った足に踏まれれば、ヒトの足など粉々だ。死にはしないが痛い。奴はこの方法で十人以上の足を砕いている。

 私以外の人に対し、マイダスはこれを常にやっている。やらないのは噛み噛み攻撃中か蹴りを入れようとしている時くらいだ。

 私に対しては十分に一度の割合で前足を上げる。ゆ〜らゆ〜らと揺れている前足を見て、「……マイマイ」と私が低い声を出すと、奴はハッとし、そして慌てて足を下ろす。しかし十分後、ふたたび前足ゆ〜らゆ〜ら。

 コレは奴の癖なのか、趣味なのか。叱ってやめるくらいなら、とっくにやめているだろう。運動前と運動後のグルーミングにかける時間はおよそ合計二時間半から三時間。つまりマイダスに会う度に十五〜八回ほど足を踏まれる危険がある。流石の私も気が休まる時がない。

 スニッカーズを失って傷心の私。しかしマイダスのそばにいてもハッキリ言って、全然癒されない。それどころか何やら精神的にぐったりする。

「マイマイ」と話しかけてみても、彼の金色の体が彷彿とさせるのはギリシャ神話の黄金の王様などではなく、でっぷりと憎々しげなアフリカマイマイだ。


「そんな嫌ならリースする馬を変えればいいじゃん」 とジェイちゃん。

 それは嫌なのだ。私は売られた喧嘩は絶対に買うタイプなのだ。一度受けた挑戦からリタイアするなんて考えられないのだ!

 かくして重い溜息と共に乗馬場へ向かう私。

「イズミさん、最近なんか暗いですね。スニッカーズの時みたいにウキウキしてませんよ?」と首を傾げる同僚のSさん。

「……マイダスがちょっと精神的に疲れる子なもんで」

「馬とかって変えられないんですか?」

「うん、僕もそう言ってるのに、なんかこだわっちゃってるの。イズミってば変人だからね」とジェイちゃん。


 も〜、みんなウルサイなっ!

 せっかくマイダスの毛色に合わせて新しい馬具を揃えたんだ! ここでやめてたまるかっ!

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