愛馬スニッカーズ
我が愛馬達の調子が悪い。
まずブルックリンが足を痛めた。彼女は私に出会うより以前に前足を剥離骨折したらしく、その傷が時々疼くのだ。ブルックリンの代わりにどうかと勧められたアラブ馬のトパーズ君の調子も優れない。この子は初めっからどうもおかしい感じがした。絶対に前脚の腱を痛めていると思い、何度も詳しく検査するように乗馬クラブに注意したのだ。私はトパーズに乗るのを断ったのだが、しかし私が乗らなくとも他のヒト達が乗り続け、そして彼は完全に故障した。完治には十ヶ月から一年はかかるだろう。美貌の芦毛、ハノーバー種のウィローちゃんはレッスンプログラムで使われ過ぎて何やら最近ぐったりとしている。
私の通う乗馬クラブは常時八十〜百頭以上の馬がいるのだが、何故か私のお気に入り達は怪我をしていたり他のリーサーが付いていたりして、私に合う馬がいなかった。リーサーが付いていない馬はどれも初心者用だったり歳を取り過ぎていたりして、馬術もジャンプもイマイチなのだ。
馬のリストの前でう〜んう〜んと悩んでいると、通りかかったオーナーが、「スニッカーズ乗ったことある?」と聞いてきた。
「スニッカーズってあのちっちゃいアパルーサですよね?」
「今思いついたんだけど、イズミとスニッカーズって絶対にベストマッチだと思う! ちょっと乗ってみて!」
私はむむむ、と唸った。私とベストマッチということは、つまり何か問題のある馬ということだな。
「スニッカーズは小さいけど凄くジャンプがいいよ!」
「えっ? ホント? じゃあ乗る」
ジャンプの一言で簡単に
早速広い放牧場へ行き、スニッカーズを引き出してくる。
アパルーサ種とは、ヨーロッパからアメリカに持ち込まれて野生化したムスタングをアメリカ原住民が再家畜化し、それにサラブレッドを混ぜて作られた馬で、小柄だが筋肉質で豹のような斑点模様が特徴。賢く、丈夫で、忍耐強く、見た目も派手な馬だが、同時に強情・頑固でやや扱いにくい性格でも知られる。
どの馬をリースするかは、乗り手と馬との技量及び性格の相性で決められる。そして私には『難しい馬』が振り当てられることが多い。上手く乗れば最高に乗り心地が良いが、性格に難点があり、他のヒトでは危なくて扱いきれない馬。
例えばブルックリン。
彼女は乗馬クラブでもイチニを争う性格の悪さで知られている。ヒトが近付くと耳を伏せ、歯を剥き出し、前脚でヒトの足を踏みつけようとし、後脚で蹴ってくる。でも私に対しては超いい子。ちゃんと耳を立ててスリスリと顔を擦り付けて甘える。しかし一度、不用意に近付いた子供を噛もうとした事があり、その子を守ろうとして咄嗟に出した私の腕を噛んだ。痛いんですよ〜、馬に噛まれると。血は出ないけど、強力な前歯で肉が潰されて真っ黒の凄い痣になる。ブルックリンは私を噛んだ瞬間にハッとした表情をし、続いて目の辺りを引き攣らせ、「どどどどどうしよう!」と怯え切った顔をした。私にメッチャ怒られた彼女は、その日は食欲もなく、一日中しょんぼりとうなだれていた。馬でも後悔するらしい。
では何故馬は私の言う事を聞くのか。
簡単だ。私がすご〜く優しくて、同時にものすご〜く怖いからだ。馬は自分を大切に扱ってくれるヒトが好きだが、でも単に優しいだけでは舐められる。叱る時はシッカリ叱る。そしてヒトは、馬の前では常に正義のヒトでなければいけない。感情で怒ったり、手荒く扱ったり、馬にはどうしようもないことで叱ったりすると馬の不信を買う。
「コイツ駄目だわ、信用できん」と一度でも思われたらお終いだ。崩れた信頼関係を再構築するのはとても難しい。ヒトと違い馬は耳当たりの良い言葉如きで騙されたりはしない。馬と常にいい関係でいようと思うと結構気を遣うのだ。
話は戻ってスニッカーズくん。
白地に茶色の斑点模様の華やかなルックス。スタリオン(種馬)かと思うようながっちりと発達した顎。ルックス的にはあまり私の好みではないのだが、まぁ試しに乗るのはタダですから。機会がある度に色々な馬に乗った方が自分の技術も磨かれるしね。
スニッカーズはグルーミングをしたり鞍上げしたりしている分にはごくごく普通の馬のようだった。ハミ(頭部につける馬具で馬の口に入れる部分、手綱につながっている)を噛ませる時に僅かに頭を振ったが、静かに待っていたら自分からハミを口に入れた。
「なんだ〜、超いい子じゃん」と気を良くする私。
もしかしたら、ベストマッチとは私達の体格の事だったのかも知れない。スニッカーズは筋肉質だが肩までの高さがおそらく150cm前後でかなり小さい。私は身長159cmの痩せ型だ。大きな馬は身長に関係なく乗れるが、小さな馬は身長・体重制限がある。
ルンルンと広めの馬場に入り、早速ウォームアップを始める。十分にストレッチしてお互いに身体が温まった辺りで少しづつ複雑な馬術のステップや速歩・軽速歩を混ぜる。
イイ馬だった。
指一本分の僅かな手綱の動きでキチンと反応する。首の筋肉も柔らかく、ステップも綺麗だった。しかし、スニッカーズは私が出した駈歩(キャンター)の指示を黙殺した。
「あれ? 気のせいかな?」と思いつつ手綱を持ち直し、もう一度少し強めに蹴る。完全無視。ハハーンと思い、手綱を片手に持ち、鞭を構えた。時々いるんですよ、こういう子。「駆け足とかカッタるくてやってらんねー」って感じで中々走らない。二度までは気のせいという事もあるが、三度目は許してはいけない。ここで何度も何度も手際悪く馬を蹴っていると、馬はそれが癖になり、ますます言う事を聞かなくなる。
強く横腹を蹴り、二秒待ってから鞭で尻を叩いた。
途端にスニッカーズが背中を丸めて後脚を跳ね上げた。続いて後脚で立ち上がり、数歩走ってからまた跳ね上がる。ヤルと思ったんだよね。でも私、その程度じゃ落ちないから。
大きく三回跳ね上がった後、私を振り落とせそうにないと気づいたのか、スニッカーズが不意に諦めて大人しく走り始めた。跳ね上がるのにも労力使うから、それよりは普通に走った方が楽かな、とか思うらしい。馬って結構計算高いのだ。そして一度試してみて無理そうだと分かれば二度とやらない。
小さい馬は駈歩のステップが短く、ダカダカダカダカ、と
スニッカーズも私にベッタリだ。リースを始めて一週間程経つと、放牧されていても私の姿を見ると遠くから全速力で駆けつけるようになった。毎朝四時半にスニッカーズを連れ出し、朝食を食べさせながら一時間半かけて丁寧にグルーミングする。顔を洗う間、スニッカーズはうっとりと目を閉じて私の腹に頭をくっつける。私が離れると干草から顔を上げてじっと私の姿を目で追う。
放牧場で私が違う馬を引き出していると、「ちょっと! ソレ馬違いですよ!」と言わんばかりに私と他の馬の間に無理矢理体を捩じ込み、何が何でもついてこようとする。置いてきぼりを喰らうとヒヒーンヒヒーンと泣き続ける。可愛いねぇ。
私に磨きまくられて、スニッカーズの馬体はいつもピカピカだ。「この農場で一番綺麗な馬」と呼ばれ、気を良くする一人と一頭。抱き締めると微かなシャンプーと干草の匂いがする。筋肉質で丸いお尻もぷりぷりとして、むしゃぶりつきたくなるくらい可愛らしい。
運動後、原っぱに連れて行って新鮮な草を食べさせてやる。スニッカーズは時々草を食べるのをやめて、私の肩や背中を尖らせた唇の先で触る。くすぐったい。コレ、馬同士の愛情表現やグルーミングの動作なのだが、本当は人間にはやらせるべきではないのだ。グルーミングの一環として、前歯の先で軽く噛んでくるからね。馬にとっては軽くても、ヒトでは大アザになる。私も初めは注意していたのだが、しかしスニッカーズは決して前歯は使わなかった。ただひたすら、唇の先で、「ねぇねぇねぇねぇ」とでも言うように私に触れた。
当り前だが、動物は全て感情表現が違う。馬は猫のように喉を鳴らしはしないし、犬のように尻尾を振りもしない。けれども愛情たっぷりにじっとヒトをみつめる目だけは種族を超えて、どの動物もとてもよく似ているのだ。
多くのヒトは動物を愛する。可愛いから、面白いから、忠実だから。
では動物は何故ヒトを愛するのだろうか。
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