愛しの君
恋愛なるものに対し非常にシニカルな私。王道少女漫画は読まないし、恋愛映画等も殆ど観ない。登場人物達の心の機微が理解出来ず、苛々してツマラナイからだ。連続猟奇殺人を描いた映画『セブン』で奥さんを殺されたイケメン刑事ブラピが殺人犯を自らの手で殺してしまう、あの理性を超えた激情はすっごく理解出来るんですけどねぇ。
「殺しちゃダメだーっ」と悲鳴を上げるジェイちゃんの横で、「イケッ、ヤレッ、そこだっ、殺せッ」と叫んでいたのは私です。そして銃声と共に「ヨッシャアアア」 とガッツポーズ。アレはある意味非常にスッキリしましたねぇ。
なんの話をしようと思ったんだっけ? あぁ、生き物における恋愛論だった。
私だけでなく、多くの生き物達は繁殖期以外は恋愛などとは無関係な世界で生きる。賢い我々はエネルギーの無駄を省いて生活の普遍的向上を目指しているのだ。しかし世の中にはごく稀に、損得勘定なしに純愛なるモノを体現する生き物がいる。
私が初めて彼に出会ったのは、小学三年生の時だった。
彼とは、神戸の親戚宅に飼われていた雄のセキセイインコ。
名はピーコだかチーコだかピッピだか、立派な雄なのにかなり力無い名前がついていた。だから私は彼を勝手にエンジェル君と名付けて可愛がった。エンジェル君という名もどうかと思うが、しかしピッピ(英語の幼児語で『おしっこ』)よりマシな事だけは確かだ。
初めて出会った時、インコくんはすでに十歳超、セキセイインコとしてはかなりの歳だった。しかし非常に毛艶も良く元気で、とてもそんな歳には見えない。病的に綺麗好きな神戸の叔父ちゃんに毎日ケージを掃除してもらい、日中は涼しく風通しの良い家の裏に出され、夜は布を掛けられ家の中で眠る。家人に大切にされ、しかしヒトと直に触れ合う機会は少ない。
十年以上に渡って続けられてきた穏やかで規則正しいインコくんの生活を突如揺るがせた闖入者。それが私だった。
私は空を飛ぶことに強い憧れを持っている。もし何かひとつ特殊能力をあげようと気前の良い神様か悪魔に言われたら、絶対に飛行能力一択。大人になった今でも最低でも月に一度か二度は空を飛ぶ夢をみる。と言っても鷹の如く大空を優雅に飛翔するわけではなく、何故かいつも人の足元三十センチ位の高さを埃が入らないように口を押さえて目をシバシバさせながら超低空飛行するという非常に情けない夢なのだが、それでも目が覚めると「あー夢かぁ」とがっかりする。
というわけで、翼なるモノを持つ鳥なる生き物達は、我が夢を具現化した憧れの存在。我が究極のアイドル。これは何が何でもインコくんとお友達にならねばならぬ! (ちなみにその頃はまだ鳥アレルギーはなかった。)
しかし私の熱い決意はインコくんにとっては大迷惑だった。
彼は手乗りインコではなかった。手乗りどころか、お世辞にも愛想が良いとは言えない。いや、ハッキリ言って、彼はメッチャ人嫌いだったのだ。しかしそんな事でめげる私ではない。
かくして私の友愛の押売りが始まった。
朝、朝食を掻き込むと家の裏にすっ飛んでいく私。いそいそとケージに近付く私をインコくんが疑り深げに睨む。ケージの戸がカチャカチャと開くと慌てて隅に逃げ、そっと差し入れられる私の手を見た途端、キョエーーーーッと凄まじい叫び声を上げるインコくん。なるべく私から遠く離れようとケージの一番端に張り付き、ギャギャギャギャッと激しく威嚇する。でも私は彼に手に乗って欲しいのだ。私の指を止まり木と勘違いしてくれるかも、という希望的観測の元、そうっとインコくんの足元に手を近付ける。
しかし残念ながらそのような奇跡は起こらず、インコくんは近付いてきた私の指にガッと噛み付く。更にそのまま頭を270度くらい回し、ギュウウウウッと思いっきり抓ってくる。インコやオウムの尖って曲がったペンチのような嘴でコレをやられると、もうメッチャ痛い。痛みのあまり涙目になって息が荒くなる。しかしジッと我慢する。数分後、首が凝ったインコくんがふと嘴を緩めたら一度手を引く。そして息を整え、再びチャレンジ。
キョエーーーーッという怒りの悲鳴とツネリ攻撃。ジッと耐える私。
コレを朝から晩まで一日八時間、三日連続でやった。蚊に噛まれてボコボコの足とインコくんに抓られて内出血で青紫色に腫れた指先。
「まぁ、よぉあんな事しよりよ」と呆れて笑う神戸の叔母ちゃん。
噛まれ、抓られ、笑われ、しかしめげない私。合鴨ジュウキューロー君のエピソードでもおわかりになるように、本当に我ながら嫌になるくらいシツコイ性格なのだ。しかし今から考えるとインコくんのストレスも並々ならぬものだっただろう。彼が心臓発作とか脳溢血とか起こさなくて良かった。
異変は突如訪れた。
四日目の朝。
蚊に食われた足をボリボリと掻きつつ裏口の戸を開けた私を見たインコくんがケージの壁にしがみついた。ここまではいつも通りの平常運行。しかしケージに差し入れられた私の手を見てもインコくんは悲鳴をあげず、何やら首をひねりつつ私の手をじっと見つめている。微かな期待に息を詰め、そうっと足元に指を近付けた。と、インコくんが恐る恐る片方の足を伸ばし、私の指をキュッと掴んだ。
おおおおおっっ!と心の中で叫びつつ、しかしインコくんが怯えないようにじっと静止して十秒。インコくんがケージを掴んでいたもう片方の足をゆっくりと私の指に乗せた。
シツコサの大勝利。シツコイ性格で良かった。
感動と喜びで手がふるふるする。でもあんまりふるふるして座り心地が悪くて嫌われてはイケナイと、ぐっと震えを堪える。キュッと私の指先を掴むインコくんの足は、爪が尖っていて、サラサラで、そして少しひんやりとしていた。
その日以来、インコくんは私が裏口から顔を出すのを心待ちにするようになった。
朝、私が裏口から顔を出すとチチチ、と鳴く声も何やら甘い。つい一昨日までは連続殺人犯でも見るような目を私に向けていたインコくんが、ケージの戸が開くのが待ちきれないように手に飛び乗ってくる。
ケージの戸は小さくて、片方の手しか入らなかった。だからインコくんをグルーミングしたり、顎や背中を掻いてあげることも出来ない。気の利かない私は彼にオヤツをあげる事もなかった。今から思えば最初から餌付けしていればあそこまで抓られまくることもなかったのでは、と思わんでもないが、しかしワタクシ的に生き物と仲良くなるのに餌付けは邪道なのだ。そして昔の私は今よりも確固たる信念を持って生きていた。(今なら餌付け一直線。)
ケージの中のインコくんをちょんと手に乗せて、歌など口ずさみつつ、唯ひたすらじーーっとしているだけの小学三年生の私。よく飽きないもんだ。
インコくんは私の手の上でせっせとグルーミングしたり、ウトウトしたり、何やらピチュピチュとお喋りしたり。そして時々バサリと片方の翼を広げてみせる。彼は所謂一般的な黄色とグリーンのセキセイインコだったのだが、広げた翼の普段隠れている部分には濃い群青色の羽根が混じっていたりして、その鮮やかな色合いと濡れたように光る艶やかな翼はうっとりするほど綺麗だった。
そして数日後、我々の関係はもう一歩進んだモノとなる。
朝、待ちきれないように手に飛び乗ったインコくんが、いきなりゲロっと半分消化された餌を私の指に吐いた。病気にでもなったのかと一瞬びっくり。しかしピチュピチュと囀り元気そうだ。彼に一体何が起こったのか……?
よく分からないが、とりあえず指先のねっとりした塊をケージの隅に擦り付けて落とす。と、何やら非常に残念そうなインコくん。再び手の上に飛び乗り、先程の倍くらいの量をゲロ。
ようやくコレがインコくん達の求愛行動であること思い出す私。空飛ぶ憧れの君に求愛されるなんて、なんたる誉れ。非常に嬉しいのだが、しかしちょっと困った。手の上に吐かれるドロドロの半分消化された餌、コレをインコくんの心を傷つけないように始末するにはどうしたらいいんでしょうかね? まさか食べる訳にもいかんし。
インコくんは一日中、懸命に餌を吐き続けてくれた。あまりに大量に吐くので栄養失調が心配になってきた。仕方無い。その日はインコくんと遊ぶのを三時間程で切り上げた。悲しげにピチュピチュ泣くインコくん。私も悲しいのだよ。しかし愛故に君の元を去るのだ。なんちゃって。
その後もしばらくインコくんの求愛ゲロは続き、最終的に私の顔を見ただけでケージ越しにゲロゲロしてくれるようになった。ゲロゲロされてキュンキュンする私。一応断っておくが、ゲロゲロして可愛いのは求愛中の鳥だけだ。
数日すると彼もようやく落ち着いてきた。朝一回挨拶がわりにゲロっとやると気が済み、後は私の手の上でピチュピチュとお喋りしたりウトウトしたりする生活に戻った。
しかし出会いは別れの始まりでして。夏休みも終わりに近づき、数週間お世話になった神戸のお宅から去る日が来た。相変わらず朝イチでゲロっとしてくれるインコくんに涙ながらに別れを告げる私。
「もうピーコちゃんも一緒に連れて帰ったらええで?」と優しい神戸の叔母ちゃん。
「絶対ダメ」と優しくない我が母。
こういった場面でいつも考える。
そばにいたヒトがある日突然いなくなる時、動物達は何を想うのだろうか。
君はこれから毎朝、私があの戸を開けて出て来るのを待ち続けるのだろうか。そしていつまでも待ってもあの戸を開けない私を君は悲しみ、恨み、嫌い、諦め、そしていつか忘れるのだろうか。私が悲しいのは君に忘れられることではなく、君が私に嫌われたのではないかと思い、悲しむかもしれないということ。
生き物と仲良くなるのに言葉はいらない。けれども、言葉が無ければどうしようもないこともある。
……そして待ちに待った翌年の夏。
インコくんとの一年振りの再会だ。
私がケージの戸を開けるとインコくんはギャギャギャッと怯えた叫び声を上げた。しかし差し出された指先を見ると不意に騒ぐのをやめ、僅かに首を傾げた。数秒後、彼は迷いつつもゆっくりと足を伸ばし、私の手に乗った。彼はその日はお喋りもせず、私の手の上で唯ひたすら何やらじっと考え込んでいた。
そして翌朝、ケージに差し入れた指先に何の戸惑いもなく飛び乗ったインコくんは、その小さな身体から溢れんばかりの深い愛を込めてゲロリとプレゼントしてくれた。
「親子だから匂いが似てるかも」 などと言って試しに母がケージに手を入れてみたところ、インコくんはひと気の無い暗闇で凶悪殺人犯にでも出会ったような凄まじい悲鳴を上げた。
「ま、そんな嫌がらなくてもイイのに、失礼ね!」などと言って彼女は憤慨していたが、四十過ぎのオバさんの手と十代の瑞々しい手が同じだと思う方が余程失礼ではあるまいか。
インコくんは二十歳過ぎまで生きた。
そして数年に一度しか会えないにもかかわらず、彼はいつまでも私を忘れなかった。ヨボヨボのおじいさんになってもヨロヨロしながら私の手に乗り、そして死ぬ直前まで私に求愛し続けてくれたのだった。
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