イモリ

 私には師匠がいる。

 師匠は私と同じくらい動物好きで、私よりもっとずっと動物の生態に詳しい。師匠ならナメクジも可愛がるかもしれない。だとすれば私より動物好きだ。


 師匠の名はカズ兄ちゃん。母の従兄弟だが、私とは七つしか年が違わない。


 子供の頃、毎年夏休みは母の実家のある兵庫の田舎で過ごした。部屋数も分からないほど広く古い日本家屋はトイレと風呂場が遠くて物凄く怖いのだが(ちなみに大人になった今でも夜中にあの家でトイレに行くのは怖い)、しかし田んぼや畑に囲まれた田舎は私には天国だった。家の目の前には川があり、翡翠(カワセミ)や全長一メートル近い大山椒魚がいた。鮎や鯰、ドジョウもいた。家の中にも外にも無数の蛙がいて、昼間は青大将が蛙を狙い、夜になると天井裏を鼠とイタチが追いかけっこする。今思い出してもワクワクする程楽しい世界。

 そしてカズ兄ちゃんはその世界のキーマンだった。


「イズミちゃん来たんか? 元気やったか?」

 にこにこと笑いながらカズ兄ちゃんが祖母の家に現れると、私は仔犬のように尻尾を振って興奮する。カズ兄ちゃんの家は常にインコや犬などの動物に溢れ、そしてカズ兄ちゃんは巨大なアロワナ等の珍しい魚を沢山育てていた。アロワナ! 私は魚類には全く詳しくないのだが、しかし大きな水槽をゆったりと泳ぐ愛嬌たっぷりの受け口の魚がその辺の川にいないことだけは分かる。

 アマゾンの河や熱帯雨林が大好きだったカズ兄ちゃんは、大学卒業後、一ヶ月かけてアマゾン一人旅に出た。私も連れて行って欲しかった。成田に帰って来た時は、捜査犬達も臭いを嗅ぐのを嫌がる程ドロドロの凄まじい状態だったらしいが。


 カズ兄ちゃんはスッポンや虫など、珍しい生き物を捕まえては私に見せてくれた。海や川、動物園に連れて行ってくれた。そしてある年、水槽を持って家に現れた。

 水槽の中には一匹の大人のアカハライモリと、全長二センチにも満たない八匹のちびイモリがいた。

 卵からかえったばかりのイモリの幼生は外鰓ソトエラがあり、オタマジャクシのように手足がない。カズ兄ちゃんが連れて来た子達はすでに手足は生えていたが、ヒラヒラとしたエラがあり、まるで黒いミニチュア・ウーパールーパーだ。小さな足の先にはこれまた一ミリにも満たないような半透明の指がちまちまとついている。可愛すぎる。


 忙しかったのだろうか、カズ兄ちゃんは水槽を私に渡すとすぐ帰ってしまった。もしかしたらイモリの飼い方などの注意事項を何か言っていたのかもしれないが、ウーパールーパー達に夢中の私は全く聞いていなかった。

 

 そして翌朝、事件は起こった。


「まああああっ」

 朝の五時、祖母の叫び声に目が覚めた。私は子供の頃からメッチャ寝起きが悪かったのだが、その時は何やら嫌な予感がして布団から飛び起き、祖母と伯父が騒いでいる居間に駆けつけた。


 エラ呼吸のイモリの子は水生だ。しかし当たり前だが両生類のイモリ母さんは陸に上がれる。そして餌を求めて水槽から脱出したイモリ母さんは虫を狙って窓ガラスに張り付き、そして彼女に気付かず窓を開けた祖母によって交通事故に遭った。なんたる惨事。左前足と後脚が窓に挟まれ擦り潰されたイモリ母さんの姿に私は呆然とした。水槽に蓋をしておかなかった私の責任だ。(しかし水槽には蓋がついてなかったのだよ、カズ兄ちゃん。)

 イモリの再生能力は素晴らしい。もしかしたらイケるかも、と思ったが、残念ながらイモリ母さんは傷口が悪化して数日後に死んでしまった。

 そして私の手元には八匹の孤児みなしごウーパールーパー達が遺された。普通のヒトなら川に逃がしてやろうとか思うのだろうが、私の頭の中にはそんな選択肢は存在しなかった。逃がすのがイヤとかではなく、本当に考えてもみなかったのだ。


「う〜ん、この子達は何を食べるんだろう」

 師匠と連絡が取れず、私はウーパールーパー達の水槽の前で真剣に悩んだ。イモリは動物食のはずだが、こんな小さな子達が捕まえて食べるモノで、尚且つ私が簡単に入手出来るモノって何だろう。と、その時、一匹のウーパールーパーの前に砂の中からチョロリンと赤虫が顔を出した。赤虫はユスリカ(注:ヒトの血を吸う蚊ではありません)の幼虫で、様々な種類や大きさがあるのだが、水槽の砂に偶然紛れ込んでいたらしいその赤虫は糸のように細く、全長四ミリ程だった。

 ウーパールーパーが目の前に現れた赤虫を素早く捕えた。そして必死で砂に潜り込もうとする赤虫を、ぐいっ、ぐいっと頭を振るようにして引き摺り出し、ゴクリと飲み込んだ。


「コレだっ!」


 中学生ともなれば普通はオシャレやミュージックやイケメン俳優などに目覚めるものだが、私は連日川に入り、真っ黒に日焼けしつつ、ただひたすら赤虫探しに明け暮れた。そして私は赤虫生け捕りのプロとなった。浅い清流に座り込み、砂を掘り、全長四〜五ミリ程度の赤虫を一匹づつ箸で潰さないようにつまんでは瓶に入れる。初めは一日八十匹、ウーパールーパー達が成長してくるにつれ数が増え、最終的には一日二百匹近く捕まえた。

 捕まえた活きの良い赤虫達をどうするか。間違っても水槽にそのまま放り込むような真似はしない。そんな事をすれば赤虫達は砂に潜り込んでしまうかもしれないし、ウーパールーパー達にも赤虫を捕まえるのが上手い子と下手な子がいるかもしれない。餌は公平に分けられるべきなのだ。

 朝な夕な、水槽の前に座り込み、赤虫を一匹づつ箸でつまんではウーパールーパー達の前に順番に差し出す。最初は「むむむっ、何事?!」といった顔で中々食べなかったウーパールーパー達も数日で慣れて、箸でつまんだ赤虫を差し出すと即座に食いつくようになった。


 赤虫捕獲に一日二時間半、ウーパールーパー達の餌やりに二時間半、合計5時間。コレを一日も休まず一ヶ月続けた。この根気と集中力を別の方向性に向けることが出来れば、何らかの偉業を成し得ることも可能だったかもしれないが、惜しむらくは私は動物以外に興味が無い。今も昔もそれだけは変わらない。


 八月も後半に差し掛かり、台風が来た。

 台風 = 川の増水。普段は浅いところなら歩いて渡れる程の川はあっという間に茶色い水の渦巻く濁流になった。時々上流から折れた木が流れてくる。勿論赤虫探しなど出来るわけがない。

 ぎゃーどうしよーっ、と狼狽えているところに颯爽と師匠登場。

 師匠は冷凍赤虫なるモノを買ってきてくれた。こんな便利なモノがあるなんて……。私の一ヶ月を返してくれっ、と一瞬思ったが、やはり解凍された冷凍赤虫よりピチピチとした生き餌の方が美味しそうだった。しかし川に入れない間はウーパールーパー達にはこれで我慢してもらうしかない。

 冷凍赤虫は一見綺麗な赤い氷の板だ。端を割って水に入れて溶かし、潰れていない赤虫を探しては箸でつまんでウーパールーパー達の前で生きているかのようにユラユラと動かす。慌てて食いつくウーパールーパー達。よしよし。

 冷凍赤虫を冷凍庫から取り出し、台所で解凍していると、通りかかった祖母が私の手元を覗き込んだ。

「なんやそれ? 綺麗やないの。美味しそうな……お菓子?」

「冷凍赤虫。カズ兄ちゃんが買ってきてくれたの」

「……へ?」


「キタナーーッ」

 プラスチックの皿に浮遊する解凍された赤虫の群れを見て、祖母が凄まじい悲鳴を上げた。

「なんやもう、カズちゃんも余計なもんこうてきて! そんな汚いもん冷凍庫に入れたらあかん!」

「大丈夫だよ、どうせ死んでるし」

「あかんっ! 気持ちワルイっ!」

 祖母はぷりぷり怒っていたが、冷凍赤虫は祖母の目を盗んで冷凍庫の片隅に仕舞われた。


 夏休みも終わる頃にはウーパールーパー達のエラも無くなり、小さいながらも形だけは大人のイモリと同じになった。幼生(エラ付き)から幼体(エラ無し)となった彼等は水から出て石に上がった。しかし餌は相変わらず赤虫だった。


 田舎を発つ前日の夕方、小雨の降る中、私は八匹のちびイモリ達が乗った石を庭の池のそばに置いた。ちびイモリ達は数分の間に次々と石を降りて苔の中に潜り込んで行った。涙ぐんで彼等の出立を見送る私を寂しげに振り返る子は……一匹もいなかった。ウェットな身体のわりに、皆とてもドライだった。


 ちびイモリ達は三〜五年程かけて成体となる。幼生時の餌がかなり偏っていた事が今から思えばかなり気になるが、しかし大自然の中で彼等が立派なイモリになったと信じている。


 ❀ ❀ ❀


 先日、数年振りに田舎へ行き、カズ兄ちゃんのお宅へお邪魔した。

 カズ兄ちゃんはガレージを改築して、もうホント、私など名前も聞いたことのないような珍しい魚を百匹単位で育てていた。日本で育てているのはカズ兄ちゃんを含め一人か二人だけ、みたいな希少な魚が沢山いた。凄かった。


 しかし一番カズ兄ちゃんらしいなぁ、と思ったのは、居間の立派な水槽に泳ぐ全長二センチ程の極小ナマズを見た時だ。一瞬ヒゲ付きオタマジャクシかと思う程小さなナマズは、誰かから貰ったものをカズ兄ちゃんが手塩にかけて育てたらしい。

「可愛いやろ? 赤虫を箸でつまんで食べさせてやったんや。でも初めは赤虫一匹もよう飲み込めんくらいちっこくってな、いっつも口の端からちょろんって赤虫がハミ出とった」


 流石カズ兄ちゃん!

 三人の子持ちになっても我が師匠は健在でした。

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