ウミガメ

「寒い! 冷たい! こんなもん凍え死ぬわバカめ!」

 ハワイ沖でジェイちゃんに喚き散らす私。数年前の事だ。春休みにハワイにダイビング旅行に行った。私はハワイに行くのは実はそれが初めてだったのだが、私の個人的イメージとしてはハワイ=常夏の島=三月でも温かい海。しかし海は冷たかった。いや、辺りを見廻しても寒いと叫んでいるのは私だけだったので、冷たいというのは正確ではないかもしれない。しかしですな、身体が小さく痩せている動物は体積に対し体表面積が大きく、数度の外気温や水温の変化が致命的なのだ。トドやゾウアザラシやジェイちゃんのように脂肪でコーティングされていない私は、ちょっとした温度変化が直接内臓に響く。

「も〜大袈裟だなぁ。大丈夫だって、ちょっと面白い動物見たら、すぐ水温なんて気にならなくなるからさぁ」

「ふざけるなっ、そんな単純じゃないわい! ジェイちゃんと一緒にすんな!」

 生命の危機を感じつつ潜った海で、海亀の群れに遭遇。その後約一時間、船に戻るまで水温の事など思い出しもしなかった。海亀くん達が群れていた辺りは、局所的な暖流で水温が高かったのだと信じている。


 それにしても海亀くんって可愛いですなぁ。ウミガメだろうがリクガメだろうが、亀の老け顔ってのは、ほのぼのするものがあるが、私は泳ぎやすいようにヒレ化した海亀くんの手足がなんかオシャレで好きだ。海中を羽ばたくように優雅に泳ぐ姿には非常に癒される。

 ツルは千年亀は万年などというが、海亀くんの寿命は約八十年。しかし種類によっては生殖可能なオトナになるのに数十年かかる。こういった動物は、一旦絶滅の坂を転げ落ち始めるとリカバリーが難しい。

 巨大な海亀くんがユ〜ラユ〜ラと泳いで近寄ってきた。特別保護されている彼等に人間の方から一定の距離以上に近付くのは御法度なのだが、しかし海亀くんだって人間に興味がある子がいるのだ。ジッとしている自分に彼等が近付いてくるのを眺める分には問題ない…とガイドさんに言われた。(でも触っちゃダメですよ〜。) 数十センチの近さまで寄ってきて、しげしげと私の顔を見つめる海亀くん。近眼なのだろうか。よく分からんが、私の顔が彼好みだったのか、ジェイちゃんには見向きもせず、ひたすら私の後をついてくる。かわええのう。私を竜宮城にでも連れていってくれようというのか。乙姫様には興味無いが、タイヤヒラメの舞い踊りは観たい。


 生き物の自然界での姿は実にいいもんですな。テレビや水族館では、この感動は味わえない。実はワタクシ、右肺の突発性自然気胸をやってまして、「あんたは左肺も気胸を起こす危険性があるからダイビングとかは絶対にするな!」と医者に言われていた。

「可能性って何パーセントくらいですか?」と聞いても答えてくれなかった。

 つまり凍死及び気胸による窒息死のリスクを犯して海亀くんに会いに行ったわけだが、大満足だ。アホと言われれば返す言葉がないのだが、まぁ本人がイイと言ってるんだからいいじゃん。潜って気胸を起こしたらすぐ自分でわかるし、それに私って片肺が九割以上潰れた状態でもあまり生活に支障が出なかったほど凄まじい肺活量の持ち主なんだよね。


 話は変わるが昨年の秋、サンディエゴで学会があった。

「Sさん! 一日早く現地に行って、水族館か動物園に行こう!」

 サンディエゴ動物園とシーワールドの規模は世界有数。動物園のフラミンゴの臭さはいただけないが、しかし機会があったら一度は行くべきだ。

「えっと、つまり学会発表の前日ってことですか?」

「そうそう」

「俺、いつも前日とかは発表の練習とかしてるんですけど」

「そんなの今更やったって遅いって! 学会なんかしょっちゅうだけど、きっとこの機会を逃したらサンディエゴ動物園や水族館は二度と行けないよ!」

「えっと、うーんと、まぁ、そうですね。じゃあ水族館行きましょう」

 仕事熱心で真面目な好人物Sさん。しかし退廃と堕落の道を転げ落ちるのはあっという間だ。友人はある程度選べるが、同僚は選べないのが彼の不幸の原因だろう。


 サンディエゴのシーワールドは水族館というよりも、動物達のエンタメ系パフォーマンスで有名だ。特にシャチの飼育・繁殖・パフォーマンスには定評がある。

 あれやこれやと見て回り、アオウミガメの館に行き着く。若くて中々ハンサムな飼育員のお兄さんがマイクを持って海亀の生態について色々と説明したり、人々の質問に答えたりしていた。

「この広い水槽にいるのは全て雌のアオウミガメです。雄は、今丁度目の前を横切ったルース君だけです。ルース君は漁猟網に引っ掛かり怪我をしたため、当水族館で保護されることになりました。ルース君は怪我のせいで尻尾を半分失い、そして雄の生殖器官は尻尾の中にあるため、繁殖は出来ません」

 数十頭の海亀の中で一際大きなアオウミガメを指差すお兄さん。

「アオウミガメは子供の時は肉食で深海でクラゲなど高タンパクな餌を食べて成長します。オトナになると浅い海へ戻ってきて、主に海藻などを食べる完全な草食性に切り替えます」

 ほうほうと感心する私。ウミガメって雑食だと思っていたが、アオウミガメ君は違うのか。ひとつ賢くなった。

 何か質問はありませんか?とお兄さん。しばらく待っても誰も手を挙げないので、私が皆さんの心の声を代表することにする。

「肉食から草食へ切り替えることによって、消化器等に変化は見られますか?」

「……え?」

「膵臓などから分泌される酵素の種類や量は変わると予想されますが、例えば成長過程の食変化によって、成長に伴い腸の長さの比率が変わるなどの劇的な変化はあるのでしょうか? ある動物にはそういった変化が見られるのですが、海亀はどうなんでしょう?」

「ごめんなさい、僕ではよく分からないんで、ちょっと後で他の飼育員さんに聞いてみますね。御手数ですが、これ、僕のメルアドなんで、後でここにメールして頂けますか?」と紙の切れ端にメルアドを走り書きしてくれるお兄さん。

「あ、ごめんなさい、わざわざ御丁寧にすみません」

 ちょっと変な質問をするウザイヒトだと思われたかな、と微妙に後悔する。でもどうしてももうひとつ聞きたいことがあったので、「もうひとつだけいいですか?」と訊ねると、親切なお兄さんはにこにこと笑顔で頷いてくれた。

「さっき、ルース君がこの水槽の中でただ一匹の雄だって言ってましたよね?」

「はい、そうです。雄の生殖器官は尻尾の中にありますけど、ルースは尻尾が無いんで雌と一緒に入れてあるんです」

「海亀の尻尾の中にある雄の生殖器官って、具体的に何ですか?」

「…………え?」

「だから、睾丸ってことですか? それともペ……」

 お兄さんがマイクを切った。ふと隣を見ると、Sさんがキョドってた。

「……和泉さん、発想がちょっとやっぱり一般人と違いますね。ああゆう質問するの見ていると、あぁ、やっぱ獣医さんなんだな、って思いますね」

「え? でもSさんだって思わなかった? 尻尾に入ってるものは何なのかって」

「いえ、思いませんでした。思っても公の場では訊き辛いものがあります」


 一応断って置くが、私のデリカシーの無さは職業病であり、決して生まれつきではない。これでも私にだって、恥を知る乙女時代があったのだ。あまりに昔すぎてちょっと記憶が定かではないのだが、でもあったはずだ……と信じている。

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