癒し系

 癒しとは何か。

 いつもの私なら、「まぁ何に癒しを求めるかなどはヒトそれぞれだと思うので……」 などとヘタレ発言をするところだが、これについてはハッキリと自分の意見を言うと決めている。


 癒しとはコガモである。


 幼い生き物は仔馬だろうが仔猫だろうが仔ネズミだろうが、なんでも可愛いものだ。私が唯一あまり可愛いと思えないのは人間の赤ん坊くらいだ。因みにオラウータンやチンパンジーの子も禿げたおっさんのようでイマイチ可愛いと思えないので、どうも類人猿系一般がダメらしい。


 普通、孵ったばかりのヒナはハゲハゲの上にシワシワで、ちょっと褒めるところに困るようなルックスだ。この辺はヒトの赤ん坊に通じるものがある。それに対し、コガモは孵った瞬間からふわふわほわほわ可愛さMAX。ひよこもほわほわだけど、ぶちゅっとしたコガモ達の嘴とペタペタと歩くあの水掻き付きの足の愛らしさが足りないので、コガモくん達の判定勝ち。


 ほわほわのお尻を振りつつヨタヨタと見るからに大き過ぎる足で歩きまわり、お母さんに遅れまいと、毛を毟られた鶏の手羽先のような翼を懸命に振り回し、自分の足に躓いて何もないところでコケッと転ぶ。そして何故か転ぶ時はあわわわ、と手羽先を広げて地面につく。丁度ヒトが転んだ時に前に手をつく姿に似ている。羽の生えていない彼らの手羽先は、翼ではなくて、まだ「手」なのだろう。しかし慌てて手をついたにも拘らず、ベチャッと潰れたスタイルで下顎を打つ。しかしめげずに立ち上がり、再びあわわわわ…とお母さんを追ってパタパタと走り出す。


 このコガモくんの姿を見て思わずクスリと顔を綻ばせないヒトは、脳の感情を司る部位に不具合があると思われるので、一度病院で診て貰うことをお勧めする。脳に目立った損傷の無い私はコガモくんを見ると、真夏のアスファルトの上のソフトクリームのようにでろっでろになる。コガモくんの愛らしい姿にうっとりと見惚れ、ハッと気付くと半開きの口から涎が垂れそうになっていることもしばしば。エンジュもコガモを見ると涎を啜っているが、その根本的理由は私とは微妙に違う気がする。しかし賢い彼女はリード無しで散歩している時に目の前をコガモくん達が横切っても決して追いかけたりはしない。しかし世の中、エンジュのようなタイプは希少でして。


 私の仕事場は人間用の大学病院と隣接している。そして病院の前にはショボい噴水付きの中々広い人口の池があり、ここで毎年マガモ(mallard duck)が繁殖している。

 繁殖期の雄は光沢のある濃いグリーンの頭に白い首輪、赤味を帯びた焦げ茶色の胸に柔らかなグレーの腹、そして鮮やかな黄色の嘴の華やかなルックス。非繁殖期の雄は嘴の色以外は雌にそっくりになる。つまり薄茶と焦げ茶と黒の斑模様だ。雌の嘴は雄よりも濃いオレンジ色なので、非繁殖期でも雌雄の区別はつく。そして雄も雌も翼鏡と呼ばれる深い青色の艶やかな羽根を翼に隠し持つ。翼を広げるとそれがチラリと見えて、とても綺麗なのだ。そしてこのイケメン夫婦の間に産まれるコガモ達は黄色と焦げ茶色の縞模様で、もう言葉に尽くせぬほど愛らしい。

 病院関係者の一部は「水が糞で汚れる!」 などと不粋な事を言ってマガモ達が噴水池で繁殖するのを良しとしない。彼方此方に「鴨に餌をやるな」という看板を立て、そしてマガモ達を追い払おうと梟型のカカシのようなものを噴水の周りに設置する。しかし私が観察したところ、鴨達にカカシを恐れる様子は全くない。そして卵が無事孵り、コガモ君達が噴水デビューしちゃえばこっちのもんなのだ。

 ふわふわぽわぽわのコガモ達は患者さんやその家族の間で絶大な人気を誇り、最早誰も人々が鴨に餌をやるのを止めることは出来ない。マガモ家族の強制撤去なんてしたら暴動が起きるだろう。車椅子や点滴のポールを引き摺りつつ、コガモ達の愛らしい仕草に楽しげに笑いさざめく人々。これって絶対に心理セラピー効果抜群だと思うんだよね。患者の健康を想うなら、池の掃除費数十万なんて安いもんだろう。


 そんな穏やかな春の夜のこと。深夜遅くまで働いていた私と同僚のSさんをジェイちゃんが車で迎えに来てくれると言うので、Sさんと二人、のんびりと外に出た。

「あれ? 犬が噴水の中に入ってる」と不意にSさんが池を指差した。

 バシャバシャと水の中を駆け回るラブラドール。噴水の横に立って犬を眺めている男女二人組。一応犬を呼んでいるようだが、躾のなっていない犬は飼い主を振り向きもしない。そして犬の鼻先ギリギリをバタバタと飛んでいるのは雄の鴨……。

「あれってもしかして、鴨を追いかけてるのかな?」と言いながら振り返ったSさんが私の顔色を見て息を飲んだ。

 あの池に点在する茂みの何処かにコガモ達が隠れているのだろう。だから親鴨は犬の注意を逸らすため、わざと犬の鼻先スレスレを飛んでいるのだ。そして追いつけなくなった犬が諦めて、代わりの獲物を求めて辺りの匂いを嗅ごうとすると、再び犬の直ぐそばに舞い下り、かくして際限の無い追いかけっこが続く。

 私が無言で噴水に向かおうとした丁度その時、目の前にジェイちゃんが車を停めた。私とSさんの顔色を見て一瞬にして事態を理解したジェイちゃんが私の腕を掴んで車に引き摺り込む。拉致されてなるものかと喚く私。走り去る車の窓越しに睨みつけられ、居心地の悪そうな顔をして慌てて犬を呼び戻そうとする馬鹿共カイヌシ。馬鹿め。そんな躾のなっていない犬が呼んだくらいで戻ってくるか。

「超ビビった……」とSさんが後部座席で溜息をついた。

「俺、和泉さんが飼い主を怒鳴りつけに行くのかと思って、もうそしたら俺ってどうすれば良いのかと思って、ジェイちゃんが良いところに来てくれて良かった……」 Sさんは平和主義者なのだ。

「まさか、怒鳴りつけるなんて、そんな事しないよ」

 飼い主を怒鳴りつけるくらいで私の怒りが収まるわけなかろう。私は噴水の中に入ってバカ犬の首根っこを捕まえて水から引き摺り出し、ビショビショの犬をド阿呆の飼い主に投げつけてやろうと思っただけだ。


 私はじっくりねっとり怒りを持続させるタイプではない。しかし衝動殺人とかに走るタイプだとは思っている。先日家に遊びに来た我が父がジェイちゃんに、何故我が家には銃が無いのかと尋ねたところ、ジェイちゃんは「なんでって、自分の娘の気性知ってるでしょ? 僕は犠牲者一号にはなりたくない」と答えていた。

「ナルホド」と笑いながら頷く納得顔の父。


 もしいつか、「コガモを殺された恨みで報復殺人に走った邦人女性Yさん」なるニュースが流れたら、十中八九私のことだと思ってくれて構わない。

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