名付け親

「あっ、レリーだ!」

 玄関を出た途端にジェイちゃんが嬉しげな声を上げる。

「どれどれ」

 私も急いで外に出る。

 家の前の野原にオオアオサギのレリー君が立っていた。青味のかかった光沢のあるグレーの胸と背中。広げた翼の先は濃い群青色。スラリと優雅に長い首と脚。オオアオサギは北アメリカ最大の鷺類だ。日本のアオサギに良く似ているが、二回り程大きい。個体によっては頭から尾までの長さが百四十センチ、広げた羽は二メートルにもなる。

 吹雪とエンジュが首を伸ばして興味深げにレリー君を見る。しかし賢い彼等はレリー君を襲ったりはしない。遠くから物欲しげに眺めるだけだ。 そもそも獲物としてはレリー君は大きすぎる。だって直立した時の身長は百四十センチ、頭が私の肩近くにあるのだ。

 突如現れたニンゲンと犬を金色の眼でじろりと睨み、レリー君が首を前に突き出すようにして歩き出した。しかし決して急ぐわけではなく、ゆっくり慎重に、抜き足差し足、邪魔者から遠ざかってゆく。レリー君の眼の虹彩は、繁殖期になると金色から鮮やかな朱色になる。淡いグレーの頬と頭部の黒い冠羽に真っ赤な眼が映えて、中々の男前だ。決してオンナを求めて眼を血走らせているわけではない。


 エンジュが不意に玄関横の茂みに鼻を突っ込んだ。ぴょんぴょんと小さなヒキガエルの子が飛び出してくる。

「あ、エンちゃん、リチャード君を虐めちゃダメ」

 私に注意され、エンジュが残念そうに逃げる蛙を見送る。

 春先から夏にかけ、オオアオサギのレリー君は我が家の前に広がる野原でしばしば狩をする。どうやらヒキガエルのリチャード君を狙っているらしい。


 このレリーだのリチャードだのという名前、勿論私とジェイちゃんが勝手に付けているのだ。よく見かける生き物に名前を付けると何やら更なる親近感が湧く。ちなみに近所に住む黒っぽい毛並のリス達は『ジョージ君とそのイトコ達』だ。ジョージ、ジョージア、ジョージアナ、ジョージエット等の名で呼んでいる。一応断っておくが、別にリス達の見分けがついているわけではない。

 レリー君は時折ジョージくん一族も狙っている。身体が大きいだけあって、非常に食欲旺盛なのだ。なんせワニの仔ですら丸呑みにするくらいだ。しかし基本的に全て丸呑みのオオアオサギ君達は、時々大き過ぎる獲物に喉を詰まらせ死亡することがある。


 野生の生き物達に名前をつけているのは私とジェイちゃんだけではなかった。仲良しのキラちゃんが家に遊びに来た時のこと。窓から見えるオオアオサギの姿に、私が「レリー!」 と言うのと同時にキラちゃんが「ヘンリー!」と叫んだ。

 類は友を呼ぶって奴ですな。しかし私より更に進んでいる彼女は、自家製パンを作るために冷蔵庫で育てている酵母菌イーストにもイースティー君なる名を付けて可愛がっていた。いやはや、上には上がいるもんですな。


 自分が名付け親となった生き物には愛着が湧く。春先にオオアオサギを見て、「今年もオオアオサギが来たなぁ」と思うより、「お、今年もレリー君が遊びに来た!」と思う方が楽しい。キラちゃんだってきっと、「イースティー君が身を呈して作ってくれたパンなんだ」と思うから余計に美味しいのだろう。レリー君ではなく、ヘンリー君やヘレンちゃんかも知れないし、イースティー君だって何世代目か分からないが、その辺はあまり深く考えないのがコツだ。


 しかし愛着が湧きすぎて困ることもある。


 ジェイちゃんとランニングに出た時のこと。

 いつもはアップダウンの激しい丘を走るのだが、その日は五月にしては暑かったので、一周1.5キロ程の池を囲むコースを走ることにした。家から池まで二キロ程なので、池の周りを四周すれば丁度十キロだね、などと言いつつジェイちゃんと池に向かう。

 ところで私はヒトと並んで走ることが出来ない。ジェイちゃんの足が半歩でも私より前に出ると苛々して、「ヒール!(踵について走れという犬に対する命令)」と叫びたくなる。そしてジェイちゃんを隣に並ばせまいと、段々スピードが上がってくる。昔は一緒に並んで走りたがっていたジェイちゃんも、最近は諦めて私の後ろを走っている。

 爽やかな春の風の中、池の周りの木陰を気分良く走る。ランニングコースといっても、舗装もされていない細い土の道で、時々ガラガラ蛇が道を横切っていたりする。草の生茂った窪地に走り込んだ時、事件は起こった。

 バシバシバシ、と直径三〜四センチの弾丸のようなモノが突如足に当たった。ぎょっとしたが、下り坂だったので急には止まれず、バランスを崩しながらスピードを緩めようとした途端、「止まるなっ」 とジェイちゃんが叫んだ。

「え? え? え? 何コレ?!」と悲鳴を上げてから気がついた。


 それは無数のリチャード君だった。


 日本では五月なんてまだオタマジャクシの季節だが、この辺は気温が高いので、五月で既に蛙になるらしい。池といっても水なんて殆どない。六月になれば完全に干上がってカラッカラだ。まさかこんな悪環境でこんなに繁殖しているとは、完全に想定外だった。

 一歩進むごとに無数のリチャード君達が草叢から飛び出してくる。

「大丈夫だっ、止まるなっ、走り続けろっ」 と喚くジェイちゃん。

「大丈夫って、コレのどこが大丈夫なわけっ?!」

「リチャード達はきっと避けてくれるから、踏んだりしないから大丈夫!」

 そんなわけあるか。気休めにもならない馬鹿な嘘をつくな。しかしここで立ち止まれば、きっと二度と足を踏み出せなくなるだろう。

 ぎゃーっと悲鳴を上げながら、私とジェイちゃんはリチャード君達の阿鼻叫喚地獄を駆け抜けた。なるべく歩数を減らそうと、幅跳びのように最大限まで歩幅を広げて走った、というか跳び続けた為に、池をたった一周しただけでいつもの三倍くらい疲れた。そして家に帰ってからも、もしやリチャード君の一部がへばりついているかと思うと恐ろしく、私はランニングシューズの裏を見ることが出来なかった。


「蛙を潰しちゃったかも」と思うより、「リチャード君を殺害してしまった」というほうが心理的衝撃は大きい。以来私は春から初夏にかけては絶対に池のそばには近寄らない。


 ちなみにキラちゃんのイースティー君も温度設定の失敗で絶滅したらしい。

「イースティー君じゃないとパンの味が違う! 美味しくない!」と嘆く彼女は、パンが作れなくなったことよりも、長年に渡って手塩にかけて育てていたイースティー君とその子孫達との別離を悲しんでいるようだった。

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