思い出す事は
眠る前やシャワーを浴びている時など、ふとした瞬間に思い出すのは生き物に関わる何か大きな事件ではなくて、彼等のちょっとした仕草やユニークな癖だったりする。きっとそれが、共に暮らすということなのだろう。
子犬の頃から妙に
突き出たと言えば吹雪の耳。あのロバのように大きな耳はゴミが飛び込むだけでなく、様々な事故に繋がる恐れがある。
よく走行中の車の窓から頭を突き出し、楽しげに風に毛をなびかせている犬を見掛ける。中々微笑ましい光景だが、アレは絶対にやらせるべきではない。どうしてもやらせたいなら、犬用ゴーグルの使用をオススメする。
フロントガラスにぶつかった羽虫は一瞬にして液体化する。以前に一度、LA近郊のハイウェイを走っていた時に巨大なバッタの群れに突っ込んだ事があったが、体長五センチ以上ある硬いバッタ達ですら一瞬にして液体化し、白濁したバッタジュースで完全にフロントガラスが覆われて前が見えなくなった。アレがあの勢いで犬の目玉にぶつかれば、当たり前だが犬は失明する。
「そんな馬鹿な」と思われるかも知れないが、私の母校の眼科には年に数回はこのケースが来る。一度など結構大きなバッタ的なモノが目玉に頭を突っ込んでいて、しかもまだ生きていて後脚がモゾモゾと動いていた。写真だけでビデオを撮らなかったのが惜しくてならない。
と言うわけで、我が家では赤信号で車が止まる度に吹雪くんのために窓を開けてやり、動き出す度に窓を閉めている。私の車はツードアなので、吹雪くんは私の肩越しに頭を突き出して外を眺めている。
「ほら、動くから窓閉めるよ」と言うと、名残惜しそうに頭を引っ込める吹雪くん。しかしデカ耳の先っちょが引っ込み切れておらず、窓に挟まるという事件が起きた。
「ギャギャギャギャウン!!!」と耳許でいきなり叫ばれて、ハンドルを切り損ねるところだった。一応断っておくがこの事故は私の責任ではない。吹雪くんが空間内における自分の身体パーツ位置を把握し切れていなかった故の不幸なのだが、彼はそうは思わなかったらしい。この一件以来、吹雪くんは「窓閉めるよ」と言われると物凄いスピードで頭を引っ込め、バックミラー越しに何やら疑り深げな眼差しで私を見るようになった。
馬の鼻先や口の周りには、猫のような硬いヒゲが生える。放っておくとそれがまばらにヒョロヒョロと伸びてきて、何やらオッサンの無精髭のようでだらしがないので、週に一度剃ってやる。ちなみにタテガミの一部は馬具にはさまって邪魔なので数ヶ月に一度の頻度で電気カミソリで剃るのだが、口髭は馬専用の使い捨てカミソリを使っている。
ブルックリンは何故かコレが好きで、ヒゲを剃っているとウットリとした表情で目を瞑っている。ちなみにタテガミを整える一番クラシックな方法は、伸びたタテガミを櫛に巻きつけてブチッと引き千切るという中々凄まじいものなのだが、ブルックリンはこれも何故か好きで、タテガミを引き千切られている間中リラックスしてウトウトと眠っている。
マイダス君は初めの頃はヒゲ剃りが嫌いで、カミソリを見ると頭を振り回していた。カミソリでヒゲを引っ張られる感触や電気カミソリのブブブという音が嫌いな馬は多い。そういう場合は一回で全てやろうとはせず、何度かに分けて毎日少しづつ剃ってやる。これはどの動物でも同じで、毎日やっているうちに「これは別に大騒ぎするほどの事でもない」と理解して大人しくなる。マイダス君も今ではカミソリを見ても頭を振り回すことはなく、ただカミソリの刃に合わせて鼻の下を伸ばしたり唇を尖らせたりしている。ジェイちゃんがヒゲを剃る時に同じ顔をするが、これはオトコ特有のものなのであろうか。
馬をグルーミングする時に繋いでおく場所は沢山あり、空いていればどこに繋いでも良いのだが、私は基本的になるべく他の人馬から離れたところに繋ぐ。理由は唯一つ。マイダスもブルックリンも凶暴なので、周りに人がいては「これマイダス(ブルック)だから気を付けて!」などと注意を促し続ける必要があり、私自身が気分的に落ち着かないから。しかし私にも一応お気に入りのグルーミング場所がある。自分の馬具小屋の前だ。そこに繋げば、鞍の手入れをしている時でも小屋の窓から馬達が見える。
ブルックリンは周りに馬がいると常に眼鼻を剥いて前歯をガチガチと噛み鳴らし、隣に私がいても平気で馬を蹴ろうとしてその戦闘に私を巻き込んだりする大バカ者だが、しかしその反面、常に私の姿を目で追っている。私が遠くまで何か取りに行ったりすると、全身を捻じ曲げるようにして真剣な顔で私を見ている。
「ブルック、待ってたの?」などと言いながら私が帰ってくると、嬉しげに頭を下げてブルルル……と鼻を鳴らす。中々可愛いところがあるのだ。ちなみにブルックは結構お喋りで、話しかけるとブルルルと返事する。
そのブルックちゃんを初めて馬具室の前に繋いだ時のこと。
馬具室に入り、窓からそっと覗くと、ブルックは私が去った方(ブルックから見て馬具室の左側)に向かって落ち着きなく首を伸ばしている。
「ブルック」と呼びかけるとピンと耳を立て、慌てて辺りを見回す。しかしまさか目の前に私がいるとは思わないらしく、ひたすら私が去った方向だけを見ている。
「ブルック、こっちだよ。ブルッキー!」とニヤニヤしながら何度も呼んでいたら、何やら焦り出して突如ヒヒーンと嘶き、縄を引き千切ろうと首を振り回し始めた。慌てて窓格子を叩くと、ハッと顔を上げて窓の中を覗き込む。明るい外からは暗い窓の中は見えにくいのだろう。格子に鼻を押し付けて私の匂いを嗅ぐと、ようやく安心したように鼻を鳴らしていた。
しかしながらブルックちゃん。彼女はこの「私が馬具室の左側に消える=十秒後には窓から姿が見える」という法則が中々理解出来ない。だから私が窓の中から呼びかける度に焦る。この辺が彼女とマイダス君の違いなのだ。
超凶暴馬のマイダス君も常に私を見ている。彼の放牧場を通り掛かると、遠くから首を伸ばして私の姿を目で追っている。名前を呼べば、「チッ、仕方ねぇなぁ」とでも言いたげな太々しい様子でノロノロと近寄ってくる。ブルックやスニッカーズのように嘶きながら駆け寄ってくるような可愛げは無いが、しかし今でも他の人にはギャロップで襲いかかってくるらしいので、それに比べれば百万倍くらいマシだ。
グルーミング中も横目で少し離れた所にいる私を見ているマイダス君。しかし視線を感じて振り返ると、「別にお前なんか見てねぇよ」とでも言うように目を逸らす。その癖、私が他の馬を撫でたりするとコメカミを引き攣らせ、その恨みをしつこく憶えていて、後からその馬の尻に噛み付いたりする。陰湿なのだ。
しかしマイダス君は「私が馬具室の左側に消える=十秒後には窓から姿が見える」という法則を一発で理解した。ハイレベルの馬場馬術の大会で勝てるだけあって、やはり賢いのだ。馬具を取りに小屋に入ると、マイダス君はすでに窓の外から中を覗き込んで私を待っている。そして小屋の中でゴソゴソしている私を実に興味深げに観察している。
そんなマイダス君が可愛くて、私は馬具の手入れなどをしながらずっとマイダス君に話し掛けているのだが、ブルックと違ってマイダスは返事をしない。寡黙なオトコと言えば聞こえはいいが、単に奴には人相手にお喋りをするような可愛げがないだけだ。同じ放牧場内の他の馬に対しても、鼻を鳴らして愛情表現しているところなんて一度として見たことはない。
そんなある日のこと。馬具室の前にマイダスを繋ぎ、鞍を取りに行ったところで知り合いのインストラクターにブルックリンについて質問された。(ブルックは乗馬クラブのレッスンに週に何度か使われているのだが、生徒が下手だと馬鹿にして出来ることも出来ないフリをする。)馬具室の裏にある馬場で二十分ほど彼女のレッスンを見物して戻って来た途端、私の姿を見たマイダス君が「ナンダヨ〜、どこ行ってたんだよ〜」とでも言うようにブルルルルルッと何度も激しく鼻を鳴らした。
「あれっ?! マイマイ待ってたの? そーでしゅかそーでしゅか、マイマイも寂しかったんでしゅか」
マイダス君の初めてのお喋りに喜び、太い首に腕を回して抱き締める私と、頭を上下に振り回しながら前脚で地面を叩き、ついでにガチガチと歯を鳴らすマイダス君。周りで見ている人々は「コワッ! アブナッ」と怯えるが、マイダスと付き合って二年以上になり、私も奴の特殊な感情表現を理解している。奴には私を本気で噛む気など無いし、前脚を踏み鳴らす時も間違って私を踏まないようにちゃんと私と反対側の脚を使っている。油断は出来ないが、しかしそこまで怯えるほどの事もないのだ。日進月歩とは言わないが、マイダスのような癖のある奴相手でもじっくりと付き合えばお互いの理解は深まってゆく。
そして先日、我々の関係は更に一歩前進した。ここから先、一般人の方からするとやや下世話な話になるが、まぁ獣医の話すことだから勘弁して欲しい。
突然ですが、いつか機会があったら、雄馬がオシッコをするところを観察してみて下さい。普段はポケット状態になった皮の中に隠れているモノが、オシッコの時にはでろーんと出てくる。ちなみに去勢馬でも興奮した時やリラックスしている時にでろーんと出たりする。スニッカーズ君は私の顔を見るだけで喜んじゃって、グルーミング中はしばしばでろーんとしていて、「見苦しいからソレ仕舞っておきなさい」などと私に注意されていた。
ところでですな、コレ、時々石鹸をつけて洗ってやらないと垢が溜まって汚くなる。更に、薄皮のようなモノが剥けてきて、放っておくと剥けかけた古いパリパリの薄皮が何枚も重なって、ミルフィーユ状態になるのだ。
スニッカーズ君は喜んで私に洗わせていたが、問題はマイダス君。スニッカーズ君と違い、彼はオシッコ以外では滅多にでろーんとならない。洗ってやろうと思い、でろーんとなるように促すのだが、それを察知した途端にサッとポケットの中に隠してしまう。そして苛々と後肢蹴りしようとする。奴の本気後肢蹴りは冗談でなく危ないので、私もそれ以上は手を出さない。かくしてマイダス君のミルフィーユは着々と層を厚くしてゆく。
マイダス君は彼がトイレと決めた場所以外ではオシッコをしないのだが、運動後のグルーミング中はトイレに行きたいのを我慢していることが多く、しばしばでろーんを出し入れしている。カサブタなんかをめくるのが大好きな私は、ミルフィーユ付きのマイダス君のでろーんをグルーミングしながら横目で睨む。そして隙を見ては一番大きそうなミルフィーユに手を伸ばす。そっと取っているつもりだが、やはり濡れてふやけていないとピッと薄皮が引っ張れるらしく、マイダス君は慌ててでろーんを隠しつつ、憤怒の表情で睨んでくる。
「そんなモノ引っ張られるの、誰だってイヤなんだよ〜。放っておいてあげなよ〜」とマイダス君に同情的なジェイちゃん。あんな汚いモノ、放っておけるか。皮膚病と感染症の元ではないか。
「ジェイちゃん、ちょっと試しにやってみてよ」
「イズミに出来ない事が僕に出来るわけないでしょ」
「でも私の理解を超えた、オトコ同士で通じ合えるモノがあるかも知れないじゃん」
「オトコ同士ではそんなプライバシーの侵害みたいな事はやらないんだ! そっとしておいてあげるのが一番なんだ!」
それにしても汚い。一体最後に洗って貰ったのはいつなのかと乗馬クラブのマネージャーに聞いたら、「一年くらい前」と言うトンデモナイ答えが返ってきた。
「マイダスはアレの掃除に麻酔が必要なんだよね。だから歯を削る時とか、麻酔が絶対に必要な時に併せてやって貰ってるんだけど……」
たかがミルフィーユの掃除に麻酔とかあり得ないだろう。いや、奴ならあり得るかも知れないが、しかし私の我慢も限界なのだ。多少蹴られるのは覚悟で洗ってやらねばなるまい。
麗らかな春のある日、マイダス君の機嫌の良さげな時を狙ってお湯の出る洗い場へ連行した。そしてまず顔を綺麗に洗ってやり(マイダス君は熱いタオルでおデコや瞼を拭かれるのが大好き)、奴が上機嫌になったところででろーんの皮の中に指を突っ込む。
いやはや、もう汚いのなんのって、今思い出しても背中がムズムズするほどだった。しかし有難いことに、春の陽気のせいか、それとも私の決意が通じたのか、マイダス君は終始機嫌が良く、でろーんを指で引っ張り出されても大人しくしている。そして彼の一年分のミルフィーユはお湯でふやかされ、石鹸で洗われ、ピッカピカのツヤッツヤになり、写真に撮りたいほど綺麗になった。
「マイマイ、いい子いい子。キレイキレイ」と褒めてやると、奴も心なしか得意げに鼻の穴を膨らませている。
「マイダスが暴れなかったとか、信じられない」などと牧場のオーナーに言われて私も得意になり、牧場を散歩しつつマイダス君のでろーんを皆に見せびらかす。
そしてその日以来、「マイマイ見せて」と言うと、マイダス君はいそいそとでろーんを取り出して見せてくれるようになった。
先日、一年振りに帰国した。二週間ほどの日本滞在中、しばしば我が愛犬及び愛馬達の事を考えていた。ふとした拍子に思い出すのはエンジュの舌チョロリンに吹雪のデカ耳トラウマ。そしてマイダス君のミルフィーユ。友人とケーキを食べつつマイダス君のミルフィーユについて語ったが、彼女も馬好きなので笑って許してくれた……と信じている。そして鎌倉散策中に不意にミルフィーユが食べたくなってミルフィーユで有名なケーキ屋さんに行ったが、残念ながら売り切れだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます