モカ&ラテ(後半戦)

 四週間程でようやくツブツブと小さな白い歯が生え始めた。やった! 離乳食! これで哺乳瓶生活ともオサラバだ。少し寂しい気がしないでもないが、やはり面倒なミルクやりが終わってホッとする。

 モカは食べるのが上手だったが、ラッテは焦って皿に顔を突っ込み、小さな鼻に離乳食が詰まってぶしゅっぶしゅっとクシャミする。顔だけならまだしも全身で突っ込みドロドロになるので、ラッテは哺乳瓶でミルクを飲ませていた時より手がかかるようになった。母は中々休ませて貰えないのだ。


 四週間を過ぎればチビ達の活動時間も長くなってくる。ヨタヨタとあちこち歩き回り、リディアの垂れ耳を引っ張ったり尻尾にじゃれついたりする。初めのうちは微笑ましげにチビ達の相手をしていたリディアも、チビ共の歯がしっかりと生えてくるにつれて辟易とした顔をして、チビの手の届かないソファーやベッドの上に逃げ出すようになった。細くて鋭い針のような仔犬の歯はハンパなく痛いのだ。


 一方エンジュは暇に任せてずーっと仔犬達と遊んでいる。仔犬達「と」遊ぶ、と言うよりは、仔犬達「で」遊ぶと言った方が正確かもしれない。ヨタヨタと危なげな足取りの仔犬達を鼻で突きまわし、前足で転がし、寝転んで腹の上に乗せて遊ぶ……と言うとまるで可愛がっているかのようだが、時々チビ達の体の下に頭を突っ込み思いっきり宙に放り上げたりするので油断ならない。


 五週間を過ぎるとチビ達は一人前に「アンッ」などと吠え始め、足腰もしっかりしてきて家中を駆けずり回りだした。しかしまだまだ未発達な運動神経で壁や本棚に激突する。歯痒くて何でも噛むが、我が家は普段からコードやら本やらは全てブロックしてあるので大丈夫……と思っていたら、なんとキッチンカウンターの角をガミガミと噛んで傷だらけいる。自分のモノなら別に構わないが、ここは借家なんだよ!

 慌てて対仔犬用ビター・アップルなるスプレーを撒く。これは苦くて不味いので犬が家具などを噛まなくなると謳われているが、全く効果なし。返って喜んで舐めまわしている。

 練り辛子を塗ってみた。ラッテは噛むのを辞めたが、モカに効果無し。

 ワサビを塗ってみた。モカも噛むのを辞めた。よしよし、と思っていたら、なんとエンジュがワサビの塗られたカウンターを舐めまわしていた。エンジュの嗜好は特殊なのだ。黄色い辛子と緑のワサビの上に赤いチリペッパーをテープで貼り付けると、ようやく犬共はナメナメ・カミカミを辞めた。

「コレってなんかの魔除け?」

 家に遊びに来たデリックが首を傾げる。


 この頃から少しづつ基本的な躾を始める。

 まず朝のトイレ。夜はキッチンの一部をフェンスでブロックして寝かせているが、朝、床にひいた紙の上で大小を済ませれば外に出してもらえる。二日目にしてこの法則を理解し、三日でマスターするモカ。一方ラッテはどうしてもこの法則が理解出来ない。モカだけ出してもらえて、なんで僕はダメなの?! と混乱して焦る。モカに遅れること一週間、ようやくラッテが宇宙の謎を解く。

 リビングルームで遊んでいても、トイレは紙に戻ってする。そうすればご褒美にジャーキーの欠片が貰える! 食い意地の張っているラッテは二〜三滴づつ小出しにオシッコをする技術をマスターする。


 お座り、伏せ、待て等の躾はご飯前にやる。並べられた皿に飛びつこうとする仔犬達が行儀良く座って一分間待てるまで、エンジュとリディアも飯にありつけない。リディアは「はぁ〜」と溜息を吐きつつ大人しく自分の皿の前で待つ。同じくリディアの隣で首を傾げつつ待つモカ。集中力が七秒しか続かないラッテがモカにじゃれつく。ふざける二匹を引き離し、再び「待て」開始。ラッテが餌に飛びつこうとし、ダメだと分かると代わりにリディアの尻尾に飛びつく。チビ達の隣に座っているエンジュの目つきが次第に険しくなってくる。イライライライラ……。

 エンジュは知っている。この馬鹿チビ共が大人しくミッション・コンプリートしない限り、自分は永遠に飯にありつけぬ。

 モカの背中に飛びつこうとしたラッテを突如エンジュが突き飛ばした。

「ガウッ」と物凄い勢いでラッテの頭を噛み砕く真似をするエンジュ。真似と言えども、ラッテの小さな頭が大きく開けたエンジュの口の中に一瞬消える。エンジュ姐さんは怖いのだ。彼女は気に喰わないモノに対して容赦しない。途端に大人しくなるラッテ。自分を睨みつけるエンジュ姐さんを恐る恐る上目遣いに見上げる。そのまま三十秒経過。ラッテがピクリと動いた瞬間、エンジュがグルルルル……と低く唸る。慌てて下を向くラッテ。

 ようやく長すぎる一分が経過。全員がめでたく飯にありつく。


 チビ達はみるみるうちに大きく逞しくなり、脚力もついてくる。ラッテと追いかけっこをしていたモカが勢いに乗ってソファーによじ登った。

「君はダメ」と言ってモカをソファーから降ろす。それをソファーで寝ていたエンジュがじっと見つめる。エンジュとリディアはソファーに座っても構わないが、いずれ他所に貰われていくモカとラッテにはソファーやベッドには乗らないよう躾けている。普通、一家に複数の犬がいると、「AちゃんはいいけどB君はダメ」というのは難しい。しかし我が家にはエンジュ姐さんがいる。

 数分後、自分がソファーによじ登れる事を知ってしまったモカが再びチャレンジ。モカがソファーに飛び乗った瞬間、エンジュがガウッと鋭く唸り、モカを思いっ切り突き飛ばした。床を転がったモカがしばらくぽかんとして、やがて立ち上がると、そうっとソファーに近づく。グルルルル、と低く唸るエンジュ。エンジュに睨まれ、モカがすごすごと引き下がる。


 仔犬、成犬、小型犬から大型犬まで、私が気安く保健所から犬を連れてこれるのはエンジュがいるからだ。相手がどんな犬であろうとエンジュは常にアルファであり、絶対的権力をもって犬階級のトップに君臨する。誰も彼女には逆らえない。そしてエンジュは私が一度彼女に教えた事は絶対に忘れないように、私が他の犬に教えようとすることを素早く見抜き、その犬が間違った事をすれば容赦無く制裁を加える。私は唯一度だけ、『エンジュの前で』他の犬を叱って見せればいいだけなのだ。後の始末は全てエンジュがつけてくれる。

「あらあらダメでしょ〜、お尻ペンペン」なんて甘ったるいヒトの躾より、「ガッ」と鋭い牙を見せつけられ、情け容赦なく突き飛ばされる方が遥かに効果的であることは言うまでもない。


 生後十週間を過ぎた仔犬達は遊びたい盛りだ。自分と同じくらいのサイズに膨らんだチビ達二匹に飛びつかれ、揉みくちゃにされ、流石のリディアもウウウ……と唸る。リディアが唸ったってチビ達はヘッチャラだ。リディア小母ちゃんなんか、ぜーんぜん怖くないもんね!


 エンジュ姐さん登場。

 チビ達がエンジュに飛びつく。エンジュは二匹を転がし、放り投げ、追いかけ回し、ヌイグルミを引っ張り合い、寝転がってレスリングの相手をする。チビ二匹を相手にしても、エンジュのスタミナは底無しだ。三十分もしないうちにチビ達の方に疲れがみえてくる。ちょっと休憩してお昼寝したい……。しかしエンジュ姐さんは離してくれない。逃げるチビ達を追い回し、首根っこを咥えて机の下から引き摺り出し、レスリングの高等技を仕掛けてくる。


 ふと気が付くと、チビ達の姿が見えない。

 エンジュが何やら部屋の真ん中でじっと辺りの様子を伺っている。エンジュの視線の先を見ると、モカは壁とソファーの隙間、ラッテは冷蔵庫と壁の十五センチ程の隙間に隠れている。エンジュがふと立ち上がってバルコニーに行った隙にラッテが冷蔵庫の隙間から這い出し、ベッドルームへ移動。ラッテが動いた事に気づいたエンジュが追いかけるが、ラッテは間一髪ベッドの下に逃げ込み、やれやれと身体を伸ばす。エンジュのお陰で大人達(私とリディア)もゆっくりと昼寝が出来る。


 チビ達が我が家に来て三ヶ月。

 私の友人を通じて、ラッテはロサンゼルスに、モカはサンフランシスコ近辺の家族に貰われて行った。

 チビ達がいなくなるとリディアは露骨にほっとした顔をし、エンジュは暇そうにあくびした。この二匹にチビ達との別れを惜しむ様子は全くない。我が家の犬はドライなのだ。



   ❀ ❀ ❀



 あれから十年になる。リディアは先日他界した。モカとラテもすでに老境に差し掛かる頃だ。


 春から初夏にかけて、保健所では仔犬・仔猫のラッシュシーズンが始まる。

 捨てられたりしませんように。一生家族の一員として可愛がってくれるいいヒトに貰われますように。


 春の陽射しに眠るエンジュの柔らかな毛を撫でつつ、ふと二匹の仔犬を抱いた腕の温もりを想う。

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