王様の耳は……

「王様の耳はフブの耳……」


 ジェイちゃんがゲンナリした顔で吹雪の耳に耳掃除専用の薬液を流し込む。耳の穴に液体を注入されるなんて誰だってイヤだ。暴れはしないものの、吹雪は大きな耳を折り紙のように折り畳んで地味に抵抗している。しかしジェイちゃんも手馴れたもので、折り紙の隙間をこじ開けるようにして薬液を入れる。途中で失敗してボタボタと頬にかかっているようだが、どうせ後始末はジェイちゃんがやるのだから放っておく。

 薬液を入れた耳を約一分間揉み揉みした後、パッと手を離して飛び退くジェイちゃん。待ってましたとばかりに吹雪がブルブルと頭を振ると、液体と一緒に耳の中の汚れが飛び散る。スッキリとした顔の吹雪の顔を風呂場で洗って耳掃除はおしまい。これが正しい耳掃除の方法だ。動物の耳の中はとても繊細なので、綿棒などを使って耳垢を取ってはいけない。耳の表面に眼に見えない傷が付き、耳垢や感染症が悪化するだけだ。


「耳が痒い犬猫」は一般診療で最も多く遭遇するモノのひとつ。耳を掻く、意味もなく頭を振る、首を微妙に傾げている、耳から変な臭いがする等は耳の病気のサインなので、早急に病院行きをオススメする。

 感染の原因は砂や植物の種などの異物、遺伝、イースト菌とそれに伴うバクテリアの二次感染。耳垂れの犬猫兎はやはり耳が湿るのか、感染症にかかりやすい。どうせまたイースト菌だろうと思って顕微鏡を覗き、モゾモゾと動く猫や兎の耳ダニに遭遇すると、ちょっと感動する。

「耳ダニですよ! 顕微鏡見ますか?」と妙に嬉しげに飼主さんに声を掛ける私は、きっと一部のヒトにとっては嫌なタイプの獣医なのだろう。

「お前のペット、こんな汚いもんを耳に飼ってるぞ」などと言う嫌味で見せたい訳ではなく、寄生虫学が大好きな私は耳ダニとか本当に面白いと思うから相手もそう思うのでは、という純粋な親切心なのだが、私の誘いにYESと言うヒトは滅多にいない。

 異物や耳ダニが原因なら、それを取り除けば感染はスッキリと治る。しかしこれと言った理由もなく何度も感染症を起こす場合は、アレルギーが原因の事が多い。

 犬にも花粉症がある。人間ならクシャミが出て目が痒くなるが、犬は耳や足の裏が痒くなる。春先や初夏など特定の季節に繰り返し耳の感染症を起こし、更に足の裏をペロペロと舐めていれば、ほぼ確実に花粉症だろう。


 我が家の吹雪くんに花粉症はない。代わりに酷い食物アレルギーがある。ジェイちゃんと私が朝晩すれ違いになり、誰が吹雪とエンジュに餌をやったか分からない場合は吹雪の耳を見ればいい。

「ゴハンまだ貰ってないよ?」とシラを切り、あわよくば二度メシに与ろうとする吹雪くん。しかし耳は嘘をつけない。対アレルギー用の特殊な餌を食べている限り下痢などは少ないが、それでも食後は耳が真っ赤になる。クリスマスシーズンになると、ジェイちゃんは「赤い鼻のトナカイさん・吹雪の耳バージョン」を歌っている。


 アレルギーだけが原因ではなく、シェパード吹雪くんの立派な立ち耳は、立派過ぎてゴミが入りやすい。ぼんやりと突っ立っているだけで羽虫が飛び込む。海辺に連れて行ったらどこかの犬に襲われて砂浜に転がされ、耳の中に砂が入り、帰りの車の中で約二時間ほど頭を振り続けていた。相手の犬は遊びのつもりだったのだが、犬嫌いの吹雪にとってはイイ迷惑だ。

 パグワワ(パグxチワワ)による幼少期の酷いイジメがトラウマで、小型犬が嫌いな吹雪くん。彼の小型犬の定義は「自分よりも小さい犬」だから、ロットワイラーも小型犬に分類される。しかし小柄なエンジュ姐さんは彼の女神なので、彼女のどんな横暴も甘んじて受け入れる。エンジュは通りすがりに「唯そこに立っていた」というだけでイキナリ吹雪の耳を噛んだりする。

「おまえの耳はデカ過ぎて目障りなんだよ! この奇形犬め、咬みちぎって普通サイズにしてやるわ!」と言うエンジュ流の親切心なのかも知れない。

 エンジュからどんなに理不尽な暴力を受けても「あ〜ビックリした」とハタハタと尻尾を振るだけの吹雪くん。ジェイちゃんは時々、「うわ〜、なんか切ないっ」と叫びながらそんな彼を抱き締めている。

 奇形と言えば、ここ数年、ミニチュア・チワワなるモノが流行っている。ティーカップ・チワワよりも遥かに小さい。普通のチワワの成犬は二キロ前後だが、ミニチュア・チワワとやらは成犬でも普通のチワワの半分以下のサイズで、体重も七百グラムくらいしかない。太り気味のラット程度のサイズだ。余りに小さ過ぎて脚の関節等がキチンと形成されておらず、レントゲン写真でみると骨格はボロボロ。動きもギクシャクとブリキの人形のようで、最早イヌとは言い難い。しかし砂ネズミやラットには優しい吹雪くんはミニチュア・チワワを見た途端に牙を剥いていたから、やっぱりあんな成長不良なモノでもイヌ科の動物だと認識したらしい。

 全然関係無いが、グレートデン(♀)とチワワ(♂)の飼い主さんが、「グレートデンがチワワで妊娠してしまった!」と病院に連れてきたことがある。そんなバカな、とその場にいた獣医全員が思ったが、話を聞くと本当らしい。

「梯子を使ったのかな?」

「いや、きっとグレートデンが寝てる間にこっそり……」

 様々な憶測と妄想が飛び交ったのは言うまでもない。


 話を戻そう。

 我が愛馬一号ブルックリンちゃんはウマ嫌いで我が愛犬吹雪くんはイヌ嫌い。同族嫌悪の動物って意外に多いようですな。しかし吹雪くんは小型犬以外の動物は好きなのだ。


 以前住んでいた家の近くには中々素敵なランニング・コースがあり、よく吹雪とエンジュを連れて走っていた。その道沿いにはニワトリやらヤギやらがいて楽しいのだが、我らの目的は二頭のロバ。スタンダード・ドンキーのナイナー君とミニチュア・ドンキーのペリー君だ。シュレックという映画があるが、あれに登場するロバのドンキー君はペリー君がモデルらしい。

 エンジュは仔犬の頃にロバ・ヤギ・羊と遊んだ経験があるが、吹雪がロバを見るのはペリー君達が初めてだった。

「ほら、フブの生き別れの兄弟だよ。耳の大きさが同じ」

 ぐふふ、と笑いながら吹雪にロバを紹介するジェイちゃん。生まれて初めて目にするロバの姿に、吹雪も興味津々だ。

 ナイナー君はチラリと吹雪を見ると、興味無さげにどこかへ行ってしまった。しかしペリー君は呼ぶとトコトコと寄って来た。

 ふんふんと鉄柵の隙間からお互いの匂いを嗅ぎあうペリー君と吹雪くん。不意に吹雪がぺろりとペリー君の鼻面を舐めた。ペリー君はビックリしたように顔を仰け反らし、フゴフゴと鼻息荒く、門の前でグルグルと数回円を描き、そして何やら考え考え吹雪に近寄ってきた。吹雪に再びぺろりとやられた途端、ペリー君が「オオオオォォォキィィィィー」と叫んだ。

 ロバの鳴き声は壊れたトランペットのように凄まじい。周りの人が何事かと一斉に振り返る。何やらロバをイジメていると勘違いされそうで恥ずかしい。慌てて立ち去ろうとしたが、吹雪はなぜか尻尾を振って、鉄柵から離れようとしない。

 と、ペリー君が不意にピタリと鳴き止み、何事も無かったかのように吹雪に近寄ると、吹雪の耳や口許をはむはむと唇で軽く噛んだ。これは親愛の情を示すロバのキス……!

 ニンゲンには全く理解出来ないところで異種族間の友情が芽生えた瞬間だ。この日以来、吹雪くんはこの近所にランニングに来る度にペリー君を探すようになった。


 友情にしろ愛情にしろ、生き物が他生物に抱く感情は突き詰めれば自己愛でしかない、という考え方がある。人も動物も、同種族間の友愛は己の身を守り、生存率を高め、子孫を残すための本能で説明がつく。異種族間でも、例えばヤドカリとイソギンチャクはお互いの生存に利益のある共生関係を築き、それは一見すると友情のようにも見える。そして多くの場合、動物が人を愛するのは、餌をくれたり、グルーミングしてくれたり、遊んでくれるからだろう。

 しかしペリー君と吹雪を見る限り、この二頭はお互いに全く何の役にも立たないところで友情を芽生えさせている。それもほぼ一目惚れ状態で。


「今日はペリー君はいるかな?」

 柵に頭を突っ込んで、懸命にペリー君を探す吹雪くん。ちゃんと見分けがつくらしく、ナイナー君を見てもあまり喜ばない。子供達が呼んでも無視して草を食べているペリー君も、吹雪を見るといそいそと駆け寄ってくる。吹雪くんとペリー君のランデブーはその後三年ほど続いた。

 新しい家に引っ越す直前、これで最後だろうと思い、吹雪を連れてペリー君に会いに行った。しかし折悪しく、ペリー君は家の隣の公園に連れ出されて子供達の相手をさせられていた。(人気者は週末は忙しいのだ。)空っぽの柵を見て、残念そうな吹雪くん。しかし彼はその直後に公園にいるナイナー君とペリー君に気付いた。ほぼ同時にペリー君も吹雪に気付いたらしい。

「オオオオキイイイイ」といきなり喚き出すペリー君。けれども繋がれているのでどうしようもない。鳴き声を通り越して何やら絶叫しているペリー君と、コーフンして千切れんばかりに尻尾を振る吹雪くん。

「ほら、ペリー君は子供達の相手をしなくちゃいけないんだから、もう行くよ」

 異種族間でも言語が通じるのだろうか。

「オーキーオーキーブヲオオオォォォ」と叫ぶペリー君を、吹雪は何度も切なげに振り返っていた。



 二年前の秋、ペリー君が何処ぞから逃げ出してきたシェパードに噛まれて大怪我を負ったとニュースで読んだ。幸い命に別状はなかったらしいが、ペリー君がその犬に襲われたのは二度目だったそうな。

 引っ越して以来一度もペリー君達に会っていないが、ペリー君は今でも吹雪を憶えているのだろうか。それとも、犬に襲われたトラウマで、吹雪と同じくらい犬嫌いになってしまっただろうか。


 残念ながら、今ではそれを知る術もない。


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