特殊嗜好
グロ注意。お食事前やお食事中、シモ系の苦手な方は読まないで下さい。
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肩が凝っていたので塗る湿布薬的なものをヌリヌリして、その手を隣で寛いでいたエンジュの鼻先に近付けてみた。めっちゃ迷惑気に顔を背けるエンジュ。ちょっと鼻先を触ってやろうとしても、ササッと避ける。納豆の臭いは好きだが湿布は嫌いらしい。エンジュが捕まらないので、代わりにのんびりと昼寝していた吹雪の鼻面に指を擦り付けてみた。ぶしゅ、ぶしゅ、ぶわっくしょんっ!!! と凄まじい勢いでクシャミする吹雪くん。鼻汁が服に飛び散る。いやはや、犬に悪戯なんぞするもんじゃありませんな。
鋭敏な嗅覚を持つ彼等、湿布薬系の刺激臭を好む動物などいない……などと思ったら大間違いなのだ。
子供の頃、二段ベッドの梯子から兄が落ちて肩を脱臼した。慌てて病院に行き、夜遅く疲れ切って帰って来た母が、肩と背中にビッシリと湿布を貼られ、ぷんぷんと強烈な匂いを放つ兄の着替えを手伝っていた。その時。
「ンマオ〜〜〜」
突如奇声をあげた猫のミルクくんが、眼をランランと光らせ、両手を広げ、グワバッと兄の背中に飛びついてきた。普段は非常に人懐っこくて大人しいミルクくんの突然の御乱心に家族全員唖然とした。
実はミルクくん、かなり特殊な嗜好の持ち主で、湿布薬の臭いが大好きだったのだ。捻挫した足首に貼られた湿布程度なら、ゴロゴロと喉を鳴らして身体を擦り付けるくらいで済んでいたのだが、背中一面に貼られた湿布にタガが外れたらしい。その後数週間、兄が着替える度に開き切った瞳孔で涎をタラタラと垂らしつつ、「ンマオ〜ンマオ〜」と奇声をあげるミルクくんを兄は非常に恐れ、彼の着替え中はミルクくんは台所に隔離されることになった。
ミルクくんが愛したのは湿布だけではない。
ある夏の日のこと。庭で母が花に水を遣っていると、表で懸命に母を呼ぶ声がする。何事かと顔を覗かせると、お向かいの小母さんが引き攣った顔で立ち尽くしていた。その足元では、小母さんの足をシッカと抱き締めたミルクくんがザラザラの舌でぞろーりぞろーりと小母さんの足を嘗めていた。
「ミルクちゃんが離してくれなくて……」と泣きそうな小母さん。彼女は実は猫が怖かったのだ。
「これ、ミルクちゃん、辞めなさい!」と母が叱っても、ミルクは恍惚とした表情で小母さんの足を両手で抱き締め、ぞろーりぞろーり。一体どこの化け猫だ。
「あのう、もしかして、足にムヒかなんか塗ってます?」
「ええ、さっき蚊に刺されたから……」
「あらあら、ごめんなさいね。この子、ムヒが好きなのよ」
お向かいの小母さんがその後しばらくムヒ等の虫刺されの薬の使用を避けたのは言うまでもない。
ミルクくんの特殊嗜好は飼主の責任ではない。彼独自のものだ。同時期に飼っていた猫のシャロンくんにそのような趣味は無かった。
シャロンくんは私が大切にしていた蛇の抜け殻を食べてしまったが、まぁそれは猫としては普通の嗜好だ。真夜中にふと目覚めた時、暗闇の中でランランと眼を光らせながら蛇の皮をシャリシャリと喰っている姿はやや不気味だったが。
コヨーテ犬のエンジュも大した変わり者だが、しかし我が家の生き物で、ちょっと許容し難い嗜好を持っているのは彼女ではなく、実は吹雪くんの方だ。そして先に断っておくが、彼の特殊嗜好も飼主の責任ではない。アレは生まれつきだ。
生後僅か六週間半で我が家に来た吹雪くん。彼はイケメン動物性格最悪の法則にそぐわず、仔犬の頃から気立てが良く、風呂に初めて入った時も騒ぎ立てることもなく、トイレの躾など二日しか掛からなかった。流石シェパード、賢いねぇ、と喜んだのも束の間。彼の特殊嗜好が露呈される。
我が家に来て三日目。部屋の隅に置かれたトイレ用の紙で大小をする吹雪くん。
「いい子いい子」と褒めてやり、新しい紙とご褒美のクッキーを取りに行った私。部屋に戻って来ると、紙の上からフンが消えていた。一瞬気の所為かと思ったが、仔犬のフンの幻覚を見るほど疲れてはいない。吹雪を抱き上げ息を嗅ぐ。臭かった。
ぐわわわわ、となったが仕方無い。この日から、吹雪の特殊嗜好を巡る私と彼の攻防が始まった。
ちょっとここで、皆さんの胸のうちに湧いたであろう疑問と可能性を検討してみよう。
1.「食べそうになったら叱ればいいじゃん」ーー 時間が経ったものを食べようとするなら叱ればよい。しかし吹雪くんは出たてホカホカを好んだ。つまり出した瞬間後ろを向いてパクリ。トイレの躾を覚えたばかりの仔犬をこのタイミングで叱ったらどうなるか。「紙の上にトイレしたから叱られた」と思って混乱し、折角の躾が台無しになる。
2.「外でさせればいいじゃん」ーー 残念ながら、生後十六週間になるまでは必要なワクチンが終わっていないので外に出すべきではない。ワクチンの種類にもよるが、大体二〜三週間に一本の割合で生後十六週間までに三〜四本打つのが普通だ。問題はワクチンだけではない。仔犬のうちは腎臓の機能が低く、オシッコが沢山でる。いつトイレに行きたくなるか分からないので、身近にトイレの用意をする必要がある。
3.「食糞する犬ってお腹に虫がいるんじゃないの?」ーー 確かに可能性はある。もちろん吹雪にはきっちり虫下しを飲ませていたが、しかし普通の虫下しでは効かない虫がいる可能性を考えて検便した。吹雪の腹は綺麗だった。
4.「食事に混ぜて食べさせると、糞の味が悪くなって食糞をやめる薬みたいなの使えば?」ーー この薬の存在を知っている貴方! きっと人生で苦労なさっている方なのだろう。いつかお互いの苦労話を肴に酒を飲み交わしたいものだ。というのは置いておいて、この薬、無論試しましたとも。吹雪くんは最大量まで薬を飲ませても、全然気にする様子はなかった。ところで「糞の味が悪くなる」ってどーゆー意味なんでしょうね。
怒鳴りつけてやりたいがそうするわけにもいかず、私は吹雪がトイレ紙の周りをウロウロし始めると素早くゴミ袋を持って待機するようになった。めでたく排出されてからゴミ箱へ始末されるまでのタイムラグ、僅か0.5秒。これならパクリとやられずに済む。
しかしシェパードの仔犬は賢かった。嫌になるほど賢かった。
敵は私がシャワーを浴びる時を狙ってフンをするようになった。それも、シャワーを浴び始めてから丁度十分、髪にシャンプーをつけ、出たくても出れない状態になるまで待つ。ぷ〜んと漂う異臭に慌ててシャンプーを洗い流して風呂から上がる頃には後の祭り。トイレ紙の上に残っているのは魚拓ならぬ糞拓のみ。
「ある意味すごいエコだよね。自給自足?」などと言って笑う獣医学校のクラスメイト達。自分の犬がやったら悲鳴をあげる癖に、他人事だと思って腹を抱えて笑うとは、許せん奴らだ。
ワクチンが終わり、吹雪が外でトイレが出来るようになり、ようやくこの特殊嗜好を巡る私と吹雪の戦いは終焉を告げた。それから数年間、吹雪が自給自足の道に迷い込むことはなく、全ては過ぎし日の悪い思い出として頭の隅へ追いやられた。
吹雪が三歳の時、雪山に一軒家を借りてジェイちゃん及び数人の友人とスキーに行った。勿論エンジュと吹雪も一緒だ。初めて見る雪に、吹雪はとても興奮し、庭を駆け回っていた。白い雪に白い犬、絵になるねぇ、などとホノボノしつつ、私と友人はそんな吹雪を家の中から眺めていた。と、吹雪が庭の真ん中で立ち止まり、む〜んと踏ん張り出した。そして出切ったところで吹雪がくるりと後ろを振り返り……。
悲鳴を上げてガンガン窓を叩く私と友人。大慌てで裏口のドアを開けて吹雪を呼ぶジェイちゃん。しかし吹雪が駆けよってきた瞬間、ジェイちゃんがいきなりドアを閉めた。
突然だが、『Got Milk?』(牛乳飲んだ?)という宣伝をご存知だろうか。アメリカの有名なキャンペーンで、各界のセレブ達が上唇に牛乳を飲んだ時にできる白い牛乳髭をつけて登場する。吹雪の顔の前でバタンとドアを閉めたジェイちゃんに、「ちょっとなんで吹雪を閉め出してんの?!」と私が怒鳴ると、彼は無表情に一言。
「『Got chocolate milk?』(チョコレート牛乳飲んだ?)」
吹雪はチョコレート牛乳の髭の無くなった半時間後に家に入れて貰った。しかしその日は一日中、誰も彼に近付こうとはしなかった。
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