エンちゃん闘病記

 ここ一ヶ月程、ちょっと鬱気味な我が家。エンジュに舌癌が出来たのだ。言い訳するわけではないが、舌の下部の奥の非常に見つけにくい所だった為、発見が遅れた。

 種類的には転移の確率の低いタイプの腫瘍だったのだが、エンジュに出来たのモノはアグレッシブで、肺に既に転移した疑いがある。舌に出来たモノは一応手術はしたが、しかし舌を全摘出しないと全てを取り除くことは出来なかった。舌の全摘など、水も上手く飲めなくなりクオリティ・オブ・ライフが大幅に下がる。仕方無い。取れる分は取り、後は百万で放射線治療する事にした。あぁ、でも獣医割引きがあるから七十万くらいですね。手術に三十万以上出しましたが。でも大丈夫。子供を育てることに比べれば安いモノさ……などと乳児を抱える友人を横目で眺めつつ自分を慰める。

 舌と肺に腫瘍を発見した数日後、なんと皮膚にもひとつ発見。しかしこれはまだ小さく、舌の放射線治療のついでに治療出来そうだ。ちなみに舌からの転移ではなく、全く違う種類の腫瘍だった。


「癌製造機!!!」とエンジュに向かって叫ぶジェイちゃん。

「全く違う種類の癌が同時に出来るとか、なんでそんな天文学的な確率の事が起きたんだ?!」

「犬には結構多いんだよね。すごい子は四種類の癌が同時発生とか」

「でも肉腫って珍しくない?!」

「人間では珍しいけど、犬には多いよ。骨肉腫とか、大型犬の典型的な癌だよね」

「やめて! 骨肉腫なんて死亡告知的な言葉、聞きたくないっ」と髪を掻き毟るジェイちゃん。

 ジェイちゃんは遺伝子学博士で、ニンゲンの癌研究をしている。そしていつも小さなホクロひとつで大騒ぎし、「一年に一度は犬を全身毛剃りして癌チェックするべきだ」などとのたまう。しかし奴は毛剃りされた犬の肌が好きという嗜好の持ち主なので、動機がどうも不純だ。

「趣味と実益を兼ねているんだ」などとうそぶくジェイちゃん。

 そんな彼にとって、口に出来た癌を見逃したというのは痛恨だ。毛で隠れているわけでもなく、腹腔内などの見えない場所でもなく、こんな目の前にあるのに、どうして気が付かなかったのだろう。それは私も同じだ。しかし今更悔やんでも仕方無い。前進あるのみ。


 手術後の放射線治療は、手術の傷が塞がった二〜三週間後から始めるのが一般的だ。(そうしないと、傷口がパックリ開いちゃうからね。)その間、飲み薬の抗ガン剤を与えて腫瘍の成長をある程度抑える。

 ……だがしかし。ここで問題が起きた。

 エンジュはコヨーテ犬のせいか、異常なほど薬に敏感だ。若い頃、ただの虫下しで死にかけた事がある。生後数週間の仔犬に飲ませても安全な薬でもダメ。犬には湯水のように使われる一般的なNSAID(抗炎症剤)を一錠飲めば、手足が膨れ上がる。仕方無いので手術直後の痛み止めにはオピオイド系の薬を使ったが、今度はラリって壁に向かってブツブツと独り言を言い、フラフラと歩き回って階段の途中で行き倒れていたりする。ちなみにラリっている時のエンジュは眼から知性の光が失われ、思わず笑ってしまうほど吹雪にそっくりだった。


 そんなエンジュに抗ガン剤を使った結果は……凄まじい胃潰瘍を起こし、三日連続の血ヘドで絨毯に世界地図が完成。


 食欲ゼロのエンジュの為に鰹節でダシを取ったお粥をつくり、コテージチーズとふわふわに蒸して細かく裂いたチキンを混ぜ、ふうふうと息を吹きかけ冷ませつつ、スプーンで一口ずつ食べさせる。それでも食べない時は納豆を混ぜる。一度に多くは食べれないので、これを一日七〜八回ほど繰り返す。

 ……そしてエンジュは完全に姫と化した。

 食事はスプーンで食べるモノ、と決めた姫は器の前にちょんと座って下僕ジェイちゃんがスプーンを差し出すまで待っている。

「スプーンを使ってもエンジュが食べないんだけど……」

「ああ、作り置きで冷えたお粥は不味いからね。レンジで人肌に温めたら食べるよ」

 無言で粥を温めるジェイちゃん。

「胃の調子が戻ってきたから、缶詰めのドッグフードを大匙2杯くらい混ぜといて」

 ジェイちゃんが匙ですくったドッグフードをペッと吐き出すエンジュ姫。

「あ、言っとくけど縦横一センチ以内にしないと食べないよ」

 無言でドッグフードをすり潰すジェイちゃん。

 食事の後は二重にした犬用ベッドで腹と背中のマッサージ。ベッドが二重になっていないと、「直せ」とわざわざ文句を言いに来る。ちなみに寝相が悪く、寝ているうちにベッドがズレても直せと要求。

 幸い一週間程で胃潰瘍は治ったが、エンジュの態度は治らない。お粥の必要はなくなったので、固形のドッグフードに蒸したチキンを混ぜている。チキンだって本当は要らないのだが、もうチキン無しでは食べなくなった。そして当たり前のようにスプーンでの給仕を要求。

「モンスターを創り出してしまった……」と力無く呟きながら、エンジュ姫に仕えるジェイちゃん。ちなみにジェイちゃんには言ってないが、エンジュは家にいるのが私だけなら、普通に自分で器から餌を食べている。


 ところで私は気分が鬱々としていても余程のことがない限り態度には出ないが、代わりに食欲が減る。しかし相変わらず乗馬・ランニング・ジム通いは欠かさないので、ほんの数週間で体重が激減した。心配した友人達に何か欲しいモノはないかと聞かれたので、試しにエンちゃん風の上目遣いで「cocoabella」と呟いてみた。ジェイちゃんにも同じ事を聞かれたので、無論同じ返答をした。

 ココアベラとは高級チョコレートのお店。チョコレート一粒づつに創った人のネームタグが付いている。箱に好きなチョコレートを一粒づつ選べるのだが、超小ぶりなチョコ二十粒で五十ドルくらいする。ゴディバより高い。私がココアベラを食べるのは多くても年に三回。誕生日、クリスマス、バレンタインデー(注:もちろん自分で自分に買う)くらいだ。そもそも結構離れた街まで行かないと店がない。高い上に面倒なのだ。


 エンちゃんのお陰で私が一度に三箱のココアベラを手に入れたのは言うまでもない。

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