アライグマ
「猫に餌やりに行くけど、イズミも来る?」
「ノーサンキュー。いってらっしゃ〜い」
ごろりとソファーに寝転んで本を読みつつ、やや不満気なジェイちゃんに手を振る私。
隣の家のおばさんはよく旅行に行く。そして我が家はその間その家の猫の餌やりを頼まれる。しかし面倒をみるのは99%ジェイちゃんだ。私は状況に応じて適切な指示を出し、あとはソファーでごろごろしている。
全てをジェイちゃんに押し付けているかのように見える私の姿に、「コイツ本当に獣医なのかっ?!」とか言ってはいけない。私は酷い猫アレルギーなのだ。猫は大好きだけど、手袋なしでナデナデすると猫に触れた部位全てに痒いブツブツが出来る。猫を触った手で間違って眼でも触ろうものなら、強膜(眼玉の白い部分ね)がゼリー状に腫れ上がり、24時間はヒトとして使いモノにならなくなる。マスク無しで長時間一緒にいれば気管がゼーゼーしてくる。
だけど猫が目の前にいればナデナデしたくなる。特に職業上、心身共に健康な猫に会う機会は限られているので、そんな子がいれば抱き上げてザラザラの舌に顔を舐めさせたくなる。私は自制心なるモノが欠落しているのだ。ナデナデ・すりすり・ザラザラ・ぶつぶつ・ゼーゼーの修羅道一直線だ。だから私は自身の健康の為に、お隣さんには極力近付かないようにしている。
そんな事を考えつつソファーでごろごろしていたら、突如隣の家から悲鳴と喚き声が響き、続いて何かモノが壊れるような派手な音がした。エンジュと吹雪が急いで窓に駆け寄り外の様子を窺う。私はチョコレートを食べつつゴロゴロ。今読んでいる小説、すごく面白いのだ。
別に私だって鬼じゃない。三十分してもジェイちゃんが帰って来なければ、彼の生死を確認に行くつもりだ。
しかしそんな必要も無く、十秒後には髪を振り乱したジェイちゃんが家に駆け込んできた。
ただならぬジェイちゃんの様子に興奮して駆け廻る犬二匹。
何故かチュチュも興奮して水槽の中で滑車を走らせる。
ウルサイ。ゆっくり本も読めない。
「も〜ナニ? うるさいなぁ」
不機嫌な私に構わずジェイちゃんがアワワワワ、と外を指差した。
「アライグマッ! アライグマに襲われた!」
「なぬっ?! アライグマ?!」
「あ、 言っとくけど凶暴そうな大人だったよ」
本を放り投げてソファーから飛び起きた私をジェイちゃんが素早く牽制した。アライグマは私が欲しい動物トップ5に入るからだ。
アライグマは可愛い。
仮面舞踏会風の目の周りの黒いマーキングは粋だし、シマシマの尻尾もお洒落だ。
獣医師仲間が飼っていたアライグマと遊んだことがあるが、仔犬のように人懐っこく、猫のように運動神経が発達していて、猿のように器用に手足を使い、そしてとても感情豊かだった。20分程遊んでから、「じゃあまたね」と言ってケージを出ようとしたら、キュイキュイと泣いて両腕で私の足を抱えて必死で引き止めようとした。もうハートがズッキューンとなる可愛さだった。しかしその子の住んでいたケージは元ニワトリ小屋だったので、あまりに臭かった。そして私は強度の鳥アレルギーなのだ。猫の比ではない。三十分鳥と遊ぶと咳が止まらなくなり発熱する。
「こらこら、ダメだよ」と言ってアライグマを足から引き剥がそうと伸ばした手の指を、アライグマ君がモミジのような小さな手でキュッと握った。
ズッキューン♡
その後一時間ほど鶏小屋の中で遊び、全身ブツブツ状態及び発熱で顔が真っ赤になった頃、見兼ねた友人に小屋から引き摺り出された。
あの鶏の臭いとアレルギーさえ無ければ五時間は遊んでいたと思う。ってかあの小屋に住んでいたと思う。とにかくそれ以来、私はアライグマが欲しくて仕方が無いのだ。
ちなみにアライグマ以外で欲しい動物は、
1.コヨーテ
2.ハシブトガラス
3.フェネックフォックス
4.馬
馬はいずれ手に入れるつもりなので問題ないし、フェネックも金さえ積めばなんとかなりそうだが、問題はコヨーテとカラス。野生動物はみなしごハッチ的特殊な事情がない限り巡り会うのは難しいし、法律上の問題もある。巣から落ちたカラスのヒナを育てたことのあるヒトが羨ましくてならない。
話を戻しますとアライグマ、ウチの近所に数多く生息している。夜にランニングに出ると、あちこちの道端で三〜五匹程のグループを作りたむろしている。吹雪のような大型犬を見ても怯える様子もなく、金色の眼を光らせながらじっと此方を窺う太々しい様子は夜中にコンビニの前でたむろする中高生を彷彿とさせる。ニキビの出た中高生なんか比べ物にならない程オシャレで可愛いけどね。
と言うわけで、ジェイちゃんが止めるのも聞かず、「アライグマ〜アライグマ〜」と叫びながら私は隣家に駆け込んだ。
アライグマはいなかった。
しかし家の中は猫の餌と水と猫用トイレの砂が散乱し、足の踏み場もなかった。急いで逃げようとしたが一歩遅かった。
私を逃がさないよう玄関のドアをブロックしつつ、ジェイちゃんが無言でゴム手袋を投げて寄越す。仕方無い。チッと舌打ちしてジェイちゃんと二人で家の掃除に取り掛かる。
「数日前からおかしいとは思ってたんだよね。なんか餌が水のボウルの中に浮いてたりして、水が異様に汚くって。餌の減り具合もやけに早いしさ」
どうやらアライグマ達は餌を狙って猫用のドアを使って家に出入りしていたらしい。水が汚かったのはアライグマ達が餌を水洗いしていたのだろう。
「それでね、僕が家に入って来たら、なんかいる気配はしたんだけど、猫だと思って気にせずに電気つけたら、いきなりアライグマ二匹と鉢合わせしちゃって。一匹がシャーッとか牙むいてきて、もう心臓が止まるかと思った」
私がアハハハ、と笑うと、「笑い事じゃないっ」とジェイちゃんが睨んできた。
「僕が噛まれて狂犬病とかになったらどうするの?! イズミは自分が狂犬病の予防接種してるから他人事だと思って!」
「大丈夫だって。狂犬病にかかって発病してたら全く動かなくなるか、それとももっと真昼間に一匹で車道をウロつくとかおかしな行動に走るんだから。夜に猫の餌を盗みにくるなんて全然マトモだよ。それより問題は回虫だね」
アライグマ回虫(Baylisascaris procyonis)はアライグマを宿主として小腸にすむ。犬でも猫でもヒトでも回虫はいるが、アライグマの回虫はタチが悪い。もし他の動物やヒトの体内に入った場合、小腸ではなく、眼球や脳に移動し、宿主を死に至らせる事もある。一般的な対回虫用の処方箋で簡単に始末出来るが、流石に野生動物に薬を飲ませるわけにもいかないので、私も以前家の床下に住んでいたアライグマ親子を泣く泣く追い出した過去がある。
「ジェイちゃん、この数日間ちゃんと手とか洗ってた?」
「……洗ってる」
「アライグマの糞1グラムの中に含まれる回虫の卵の数は確か数千から数万……」
「薬ちょうだいッ」
「ヒトの病院行って下さい」
「どうせ犬猫に使うのと同じ薬なんでしょ?! イズミだって時々自分に使ってるじゃん! 知ってるんだからね!」
「私は自己責任だもん。万が一ジェイちゃんが変な副作用とか起こして死んだりして獣医師免許剥奪されたらヤダもん」
「……感染率ってどれくらいだと思う?」
「知らないよ。心配なら病院行けばいいじゃん」
「……面倒臭い」
「ならいいじゃん」
アライグマ事件から数ヶ月。ジェイちゃんの脳に回虫が巣食っている様子は今の所ない。良かった良かったと安心した表情のジェイちゃんに私はにっこり微笑みかける。
「知ってる? ヒトって結構体内に色んな寄生虫がいてさ、でも健康な時は免疫システムが常にチェックしてるから、特に何も起こらないんだよね。だけど免疫が激減する病気に罹ったり、抗ガン剤を使ったりした時に、それまで大人しくしてた寄生虫達が一気に活動を始めることがあって……」
私は知っている。
涙目のジェイちゃんなんかより、私の方が余程多くのペットを体内に飼っているであろうことを。
招かざるペット、皆様もお気をつけください。
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