吹雪

 2013年11月。

 その日、私は朝から感謝祭の準備に大わらわだった。ここ一年以上に渡って夜勤をしている。いつもは夜七時頃に起きて研究室に行き、朝九時過ぎに仕事を終えてその後三時間ほど乗馬、昼前に帰って来て寝ているのだが、感謝祭くらいジェイちゃんやSさんに合わせてフツー時間に活動しようと思ったのだ。

 ジェイちゃんが足りない食材やワインを買いに行っている間に羽を毟られたチキンを洗う。このムチムチペットリとしたチキンの尻の感触がニンゲンの赤ん坊の尻に似ていると思うのは私だけだろうか。なんだか死体を風呂に入れているような微妙な気分になる。まぁ実際死体なんですが。

 鼻を鳴らすような微かな音に顔を上げると、犬用ベッドに行儀良く前足を揃えて座っている吹雪と目が合った。ジッと私を見つめ、ハタリハタリと尻尾で二度ほど絨毯を叩く吹雪くん。エンジュの姿は見えない。きっとジェイちゃんのベッドで寝ているのだろう。それにしても改めて見ると、つくづく吹雪って背が高いなぁと感心する。首も長いが、とにかく足が長い。胸幅は狭く線が細い感じだけど、まぁ年柄年中お腹を壊しているのだから仕方が無い。吹雪は鳥のササミですら食べた事が無いのだ。

「あとで氷をあげようね」と言うと、吹雪は再び絨毯を尻尾で叩いた。

 気を取り直してチキンの死体と向き合う。と、ふうんふうんと低い声がした。肩越しに吹雪を振り返る。吹雪の顔は私の方を向いていたが、なんとなく目が虚ろだった。

「……フブ、どうしたの?」

 不審に思って声を掛けると、吹雪はハッと我に返り、少し慌てたように頭を下げて尻尾を振った。

 我が家の犬達は私に向かって意味も無くクンクンと鼻を鳴らしたりはしない。そういう要求がましい真似はジェイちゃんに対してしかしないよう躾けてある。エンジュならまだしも、大人しい吹雪が声を立てるのはおかしい。

「吹雪が最近階段とかでふらつく」とジェイちゃんが言っていたことを思い出し、足腰の痛みや脊椎反射を調べた。シェパードは脊椎や関節の病気にかかりやすい。吹雪は同時に生まれた十一匹の仔犬達の中から私が自ら性格・体格のテストをして、選りすぐった犬だ。胃腸は弱いが、足腰の造りはしっかりしていて、関節炎を起こしているとも思えないが、エンジュと乱暴に遊んでいて膝か腰を捻った可能性はある。

 腿の関節の動きを調べる為に、下腹部の一番後ろ、腿の付け根を押さえた瞬間、吹雪がギャオンと叫んだ。

 信じ難い思いで下腹部を触診する。更にグローブを着けて直腸検査をした。もう少し腹部前方にあったらもっと早くに気付いたかもしれないが、そんな事を言っても仕方無い。骨盤の奥にあった歪な円形のそれは、少なくとも直径十五センチはあった。


「ねぇ、吹雪が変なウンチしたって言ってたよね?」

 買物から帰って来たジェイちゃんに何気無い風を装って訊ねる。

「うん、別に下痢とかじゃないけど、何だかフラットなパスタみたいなフンをする時があるんだよね。二週間くらい前からかな? どうして?」

「……別に」

 全ての点が繋がった。そして繋がった時には既に手遅れだった。いや、繋がる前からこれは手遅れだったのだ。


 悪性腫瘍。


 それも恐らく急激に成長するアグレッシブなタイプで、更に手術や放射線治療の難しい部位に出来ている。でも違うかも知れない。超音波検診して、組織病理検査して、CTスキャンを撮るまではまだ判らない。知合いの癌専門医であるスティーブに電話して、翌日のアポを取った。とりあえずジェイちゃんには何も言わないでおく。奴は吹雪やエンジュの調子が悪いと、自分まで心痛で胃潰瘍になったりして共倒れするから面倒なのだ。

 翌日、仕事が休みであることを理由に病院までついて来たジェイちゃんは、スティーブの白衣の『ONCOLOGIST (腫瘍医)』というバッジを見て蒼ざめた。

「……なんで癌だと思うの?!」とスティーブが部屋を出た隙に詰問してくるジェイちゃん。なんでって、内臓じゃない肉の塊が中年の犬の腹にあったら、まず疑うべきは腫瘍。妊娠してるわけないんだからさ。

 ジェイちゃんを待合室で待たせて、とりあえず超音波検査をする。吹雪の内臓は綺麗だった。下腹部のグレープフルーツ大の塊以外は。

 均一な塊ではなく、無数の穴が入り乱れて空いているような複雑な構造。スティーブが太い注射針を刺してサンプルを採ろうとするが、シリンジに入ってくるのは黒っぽい血ばかり。痛がって暴れる吹雪に鎮静剤を打ち、ようやく少量のサンプルを手に入れる。

「あんまり採れなかったけど、でもこのサンプル、大事を取って生検に送っていい?」と暗い表情でスティーブが尋ねる。あまり採れなかったのは無論スティーブのせいではない。恐らくコレが上皮細胞由来の癌腫(皮膚癌・乳癌・肝臓癌など)やリンパ腫等の円形細胞腫瘍ではなくて、肉腫だからだろう。軟部肉腫の細胞は細胞同士がしっかりとくっついていて、針で突いた程度では採取出来ないのだ。ちなみに人間の罹る癌の殆どは上皮細胞由来の癌腫であるのに対し、犬猫では癌腫と肉腫の確率は半々。円形細胞腫瘍も多く、人間よりもバラエティーに富んだ癌に罹る。

 組織病理の結果が返ってくるまでは、癌の種類は完全には分からない。しかし、ある程度の予測はつく。八才、ジャーマンシェパード、超音波検査に映った黒いクレーター状の大きな肉腫。シリンジに吸い出された血。恐らく血管肉腫、つまり血管を形作る細胞由来の腫瘍だろう。

 犬の腹腔内に血管肉腫が発見された場合、発見から死亡まで大体二十〜六十日。一年の生存率は十パーセント以下。進行が速く、転移率も高いアグレッシブな癌だ。


「あ、吹雪クンの爪切っておきましょうか?」

 サンプルを生検に提出に行ったスティーブを待つ間、強力な鎮静剤ですっかり寝込んだ吹雪の後ろ足を抑えていた看護師が不意に訊ねた。

「うん、ありがとう〜」

 爪切りの嫌いな犬猫は多いが、吹雪もその中の一匹だ。シェパードは非常に神経質な一面があり、ちょっとした事でも納得がいかないとヒーヒーキャンキャン大騒ぎする。そして吹雪にとって爪切りとは、彼の犬生に於いて最も納得のいかない行事と言っても過言ではない。いつもは騙し騙し一日に一本づつ切っていくのだが、面倒臭い時は病院から持ち帰った軽い鎮静剤を使っている。しかし軽い鎮静剤程度で効くのは前足一本までで、残りは翌日に持ち越しとなる。以前に一度、無理矢理抑えつけて切ろうとしたら、大声で泣き喚かれて、驚いたご近所さんに動物虐待の汚名を着せられそうになった。

 バチン、バチン、と特大の爪切りで看護師が伸びた爪を切っていく。ピンピンと爪の欠片があちこちに飛び、そのうちの幾つかが私の肩に当たってぱらぱらと乾いた音を立てた。

「あっ、髪の毛に飛んじゃった! すみません!」

「いやいや、全然気にしないです、っていうか、本当にありがとう。そろそろ切らなくちゃって思ってて、実は気が重かったんだよね」

 綺麗に短くなった吹雪の爪を見て私は笑った。

「ってか、これで一生切らなくていいかもね! フブちゃん、ヨカッタネ〜」

 生死に直接関わる職場に働く人間ほど悪趣味なブラックジョークを飛ばす傾向にあるらしい。自分が置かれた状況を笑い飛ばすことでストレスを発散し、精神バランスを保っているのだ。かく言う私も無論例外ではない。

 あははは、と声を上げて笑いながら私が吹雪の耳にキスするのを、看護師さんは少し困ったような顔で見ていた。


 薬でフラフラしている吹雪を起こして、スティーブと待合室に戻る。

「ジェイソンには僕から説明しようか? それともイズミが家でゆっくり説明する?」と聞かれたので、スティーブにお願いする。スティーブが癌の形状やサイズ、精確な種類の識別は生検結果を待っている事、そして手術その他の治療の可能性について丁寧に説明する。私が獣医学校の最終学年だった時、スティーブは腫瘍科研修医一年目だった。彼は賢いだけでなく、殆ど表情を崩さないものの常に礼儀正しく、真摯さが滲み出るようで、信頼される医者の鑑のような人だと思う。もちろん素人への説明も上手。

 しかしジェイちゃんは、何を言われているかよく解らない、とでも言うようなぼんやりとした顔でスティーブと私を交互に見た。そしておずおずと、「あの、イズミに訊きたいんだけど……」と言った。なんでやねん。せっかく親切で優しいスティーブが説明してくれてるのに。

「……手術出来ないって、どうして?」

「直腸検査すると、指先が癌の一部に触れるんだよね。吹雪みたいに大きな犬でそれってことは、癌が骨盤官の奥にまで広がってるってことなの。内臓や神経を傷付けずにそんな奥までメスを入れるのは絶対に無理で、骨盤を折ることも考えなくちゃいけないくらいの大手術になる。それにもしこれが血管肉腫だったら、メスが触れた瞬間に大量出血で死亡する可能性の方が高い。血管肉腫はコア針生検の太い針を刺しただけで出血多量してゲームオーバーってこともあるんだから」

 非常に難しいが、手術そのものが出来ないわけではない。母校の大学病院に連れて行けば、やってくれる手術医はいるだろう。けれどももし腫瘍が内臓だけでなく骨盤そのものを侵食していたら、手術は意味が無い。そして血管肉腫の再発率と転移率は高い。と言うよりも、この癌は恐らく吹雪の身体のあちこちにすでに転移済みだろう。

「……放射線治療は?」

「場所が悪すぎる。この大きさじゃ放射線治療でも完治どころか精々三ヶ月、よくて五ヶ月程の延命で、おまけに副作用がキツイ。吹雪はただでさえ胃腸が弱いのにさ、腹のド真ん中に放射線なんか当てられないよ」

「じゃあ……抗ガン剤?」

「犬の軟部肉腫は抗ガン剤が効きにくい。手術と併用ならまだしも、これだけの大きさの腫瘍を化学療法だけでどうこうしようなんて無理。延命作用すら期待できない」

 ジェイちゃんが俯いてそっと吹雪を撫でた。ベンチに座っているジェイちゃんよりも吹雪の方が背が高い。吹雪がハタハタと尻尾を振って、ジェイちゃんの顔を舐める。

「……つまり、あとどれくらい?」

「腹腔内に出来た血管肉腫って、殆どの場合、破裂して突然体内で大出血してから初めて発見されるんだよね。まぁその時には大体手遅れなんだけど」

「つまり……?」

「つまり、もしかしたら今晩破裂するかも知れないし、もっと保つかも知れない。でも破裂する前に癌が腸を食い破ることもあるし、場所的に尿道を圧迫するかも知れない。だから、多分長くても二ヶ月は保たないと思う」

 一応断っておくが、流石の私もこれが普通のクライアント相手だったら、悪いニュースはもっと婉曲に伝えている。でもコレは私の犬で、ジェイちゃんは私のクライアントではなくて、だから私はただ聞かれるままに淡々と事実を述べただけだ。ジェイちゃんが泣くのを見ても、不思議なくらい心が動かなかった。

 恐らく心理学でいうところの区分化ってヤツだろう。 一人の人間の中に相反するふたつの価値観が存在して、しかしどうしてもその両方が必要な時、人は己の中にお互いに干渉を持たないふたつの区分を作り、それぞれの区分の中で全く違う価値観を別個に機能させる。本能的に防御しているのだ。病気の動物やその死を前にして悲しむのは当たり前だが、しかしいちいち泣いて取り乱してたら獣医としてやっていけない。冷静であるべき時に、正しい決断を下すことが出来ない。手術中に感情移入して手が震えるような医者、私なら絶対に御免だ。


 沈痛な表情のスティーブに笑顔で礼を言い、ジェイちゃんに吹雪を連れて外で待っているように言って、フロントデスクに検査代を払いに行った。ちょっとしたものでも、こういった検査の値段は馬鹿にならない。割引き料金じゃない一般人の皆様はもっと大変だろうなぁ、などと思いつつ看護師にクレジットカードを渡し、生検の承諾書にサインしようとして、ふと違和感を覚えて手を止めた。

 あぁ、間違って主治医のところにサインしてしまうところだった。主治医じゃなくて、クライアントのところですね。ここは私の病院じゃないし、私はここの医者でもない。ナルホドナルホド。

 不意にサインが滲んだ。看護師が黙ってティッシュペーパーの箱を渡してくれる。あははは、と笑いながらティッシュを数枚掴み、「一応断っとくけど、別にこの数万円の生検代を惜しんでるわけじゃないからね」と言ってサインした紙を看護師に返した。


 生検結果はやはり血管肉腫。ありとあらゆる治療のコンビネーションと可能性を考えた。そして結局、治療は何もしない事にした。どの治療も痛くて苦しい。痛くて苦しくても元気になる可能性があるなら時間と治療費が幾らかかろうと構わない。しかし助かる可能性はゼロだった。一ヶ月以上苦しませた末に手に入れる事が出来るかも知れない数週間の延命は、私やジェイちゃんの為であって、吹雪の為ではない。

 オピオイド系、NSAIDS、ガバペンティンと三種類の鎮痛剤を使う。吹雪が何の痛みも感じず、薬でぼんやりすることも無く、彼に残された数週間を楽しく過ごせるように、毎日細かく薬量を調節した。


 治療しないという治療方針が決まって二日後。朝、夜勤から帰ってくると、ジェイちゃんが腫れぼったい目でソファーに座ってコーラを飲んでいた。

「あのさ〜、吹雪がさ〜、夜中に何度も僕のことを起こすんだよね……」

「下痢じゃないの? それか癌で膀胱が押されて頻尿になってるか」

「僕もそう思って、急いで外に連れて出るんだけど、別にたいしてオシッコしたい感じでもなくて、単にあっちこっちウロウロして、匂い嗅いだりして遊んでるんだよね……」

「ふうん。まぁ吹雪は理由もなくヒトを起こしたりしないから、ジェイちゃんに分かんないだけで、フブなりの理由があるんじゃないの」

 ミルクティーを淹れてソファーに座った途端、犬用ベッドに寝ていた吹雪が起き上がって尻尾を振りながら近づいて来た。

「フブちゃんオハヨ〜」

 吹雪がいきなりソファーに足を掛け、デカイ図体を私とジェイちゃんの間にねじ込んだ。

「フブッ?!」

 本当に驚いた。吹雪は私やジェイちゃんが見ていないところでは内緒でソファーに寝ているようだが、真昼間に堂々とソファーに足を掛けた事なんて生後六週間で我が家に貰われて来てから一度もない。犬はオピオイド系の薬でラリってタガが外れ、いつもなら絶対にしないような事をしたりするが、吹雪はラリってるわけではない。

「残り数週間の命だから……」と思い、無意識のうちに私とジェイちゃんの態度が変わっていたのだろう。その僅かな変化を吹雪は素早く察し、それにつけ込んでいるのだ。夜中にジェイちゃんを起こしているのも、別にトイレに行く必要があるわけではなくて、単に外に遊びに行きたいだけなのだろう。現に私が寝ている時は決して起こしたりはしない。

 更に面白いのはエンジュ。普段なら吹雪がソファーに乗ったりすれば、エンジュが黙ってはいない。治安維持犬エンジュは私に代わって他の犬にお仕置きするのが趣味なのだ。しかし彼女は吹雪がソファーに飛び乗った途端にムッとした顔で立ち上がったものの、その場から動かずにジッと私の顔色を窺っている。つまり彼女ですら、「もしかしたら神はこの吹雪アホの行動を許すかも知れない」と思い、様子見しているのだ。

 吹雪は仔犬の頃からのんびりと穏やかで、躾や訓練も簡単で、家具を噛んだりゴミ箱を漁ったりした事など一度もない。異様な程に賢いエンジュの陰に隠れて気付かれにくいが、彼がいつも素晴らしく礼儀正しかったのは単に大人しくてボンヤリした犬だからではなく、そうある事を望まれていると知っていたからなのだろう。本当は吹雪だってもっと我儘を言ってみたかったのだ。だけどイイコだから、いつもスポットライトの中心にいるエンジュ姐さんを横目で見つつ、ずっと我慢していたのだ。そう考えると可笑しくて、そして少し切なかった。



 結果から言うと、吹雪はそれから七週間生きた。

 相変わらずスラリと姿勢が良く、白い冬毛はふわふわで、大好きなテニスボールを追う姿も若々しく、走り方も綺麗で、動きだけ見ていたら二歳くらいにしか見えない。ただ最期の頃は骨盤の中の腫瘍が大きくなり過ぎて、少しガニ股で歩くようになったが。そして激しい運動による腫瘍の破裂を恐れて、ジェイちゃんは一日に十回までしかボールを投げてくれなかった。本当に、あまりに元気なので、もしかしたら予想を裏切ってあと数か月くらい保つかなぁと思ったところでその日は来た。


 2014年1月8日。

「吹雪がオシッコしない」

 早朝、仕事場にジェイちゃんから電話があった。慌てて仕事を切り上げて帰宅する。嬉しげに尻尾を振って出迎える吹雪の膀胱を触診する。水風船のようにタポタポと揺れる膀胱は、かなりの大きさだ。まぁ最後にオシッコしたのが七時間前らしいから、まだ三時間は大丈夫。

 吹雪のお気に入りの野原にジェイちゃんと三人で散歩に出る。まだ一月なので、水気のない野原は草が枯れて茶色かった。何度も立ち止まってはオシッコをしようとしている吹雪の膀胱を押してやると、少しだけ出た。でもこれでは全然足りない。動物は多少便秘になっても生きていけるが、尿道が塞がって尿が出なくなれば、あっという間に血中カリウムの濃度が上がり、不整脈を起こす。二時間ほど頑張ったが、やはり充分な量の尿は出なかった。

 家へ帰り、職場の友人に電話して、午後に病理解剖室を貸してくれるように頼む。剖検だけは初めから自分でやるつもりだった。そして鳥のもも肉を一パック丸々鍋に放り込み、少量の醤油と砂糖で味付けする。犬の味覚は人間に似ている。犬も甘いモノや多少の塩味を好むのだ。もちろん吹雪は、此の世にそんなモノが存在するなんて夢にも思わないのだろうけど。

 吹雪を車に乗せる。吹雪は車が大好きだ。散歩やボール投げよりも車が好きで、一度綱を放して歩いていたら、ドアが開いている車を発見して、一目散に見知らぬ人の車に乗り込んでしまったことがある。だから今日も、オシッコが出なくてイライラとしているにもかかわらず、車を見た途端に機嫌を直してイソイソと乗り込む。

 ジェイちゃんと病院へ行き、スティーブと相談する。オス犬の尿道は膀胱から大きくUの字を描いているのだが、そのどこかが腫瘍で押し潰されているのだろう。尿道にステントを通すか、膀胱に直接穴を開けて体の横からチューブで尿が出せるようにするか。やるなら後者だが、しかしそれをすれば吹雪は今までのように自由に走り回ったりレスリングしたりは出来なくなる。そしてそれをしても、買える時間は数日から数週間。

 やってもやらなくても、私はどちらでも良かった。吹雪のためを思うならヤラナイ。ジェイちゃんがどうしてもと言うならヤル。そしてジェイちゃんは考えた末、吹雪のためにヤラナイと言った。

 家から持ってきたチキンの甘辛煮を吹雪に食べさせた。吹雪は、「世の中にこんな美味しいモノがあるなんて?!」と目をキラキラと輝かし、チキンを乗せた私とジェイちゃんの手を結構本気で噛んだ。仔犬の頃から教えなくても甘噛みすらしなかった吹雪に初めて手を噛まれ、思わず笑ってしまった。更にスティーブがくれた腎臓病の猫用の缶詰め(ものすごく高脂肪で美味しい)に舌鼓を打つ。そして専用の静かな部屋で、ふかふかのベッドに座り、満腹の腹をさすって貰う。

 安楽死に使われる薬は一種の麻酔薬だ。しかしLD50(50%の動物を死に至らせる薬量)とED50(50%の動物に効果がある薬量)がとても近いので、麻酔として使われることはない。そしてそれは、他の薬と決して間違えないように、独特の着色が施されている。目の醒めるような鮮やかなピンク色。ピンク・ジュース。普通は致死量の約二倍を与える。そしてそれを与えられた動物は、本当に眠るように静かに、数分で心臓が止まる。


「ヒトの天国はどうでもいいけど、犬の天国はあるといいね」

 吹雪を撫でながらジェイちゃんが呟いた。

「そうだね」と私も頷く。

 愛する者が『天国』に行くという考えには慰めがある。そう、もしも天国というものがあるならば、それは死にゆくモノのためではなくて、生き遺されるモノのためにあるのだろう。


 獣医として、飼主として、あるいは唯の傍観者として、生き物の死に立ち会うことは多い。全ての生き物はいずれ死ぬ。けれどもそれは、死を軽んじることには繋がらない。

 私が出逢った全ての生き物達の死は、時が経っても変わることなく、重石のように私の内に沈み、私の記憶を繋ぎとめる。彼等の死の重さが私の中に在り続ける限り、私は彼等が生きて私と共に在った日々を想い続けるのだろう。どんなに重い死の記憶も、彼等と過ごした日々の喜びを押し潰すことはなく、だから私は、きっと一生動物達と関わり続けてゆくのだろう。


 抗い難い眠気に、吹雪はゆっくりと横になり、目を瞑った。

 仔犬の頃、吹雪の耳は中々立ち上がらなくて、私をヤキモキさせた。ようやく立ち上がった耳は、とても形良く、そしてとにかく笑ってしまうほど大きくて、「うわっ、凄い耳!」と行く先々で人々の笑顔を誘った。

 その僅かにクリーム色の柔らかな耳許に、大丈夫だよ、と囁いた。大丈夫。私はずっと君のそばにいるから、だから安心して眠るといい。


 手のひらに伝わる鼓動が、ゆっくりと、間遠に、微かになってゆく。

 共に過ごした日々に感謝したいとか、君に会えて幸せだったとか、君が苦しまなくて良かったとか、そんな風に自分を納得させるまでにはまだ時間が足りない。そして足りない時間の中で、願うことは唯ひとつ。


 どんな形でも良い。


 いつか、また、どこかで、君に逢いたい。


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