弱肉強食
四月の半ばから二週間程、一年振りに日本へ帰った。
実家へ帰った翌朝、和室の押入れを開けた母が「ちょっと早く来て! 可愛いのがいるよ〜」と叫んだ。
急いで行けば、母の足元に体長三センチ程のヤモリ発見。どうも押入れの布団の中で冬眠していたらしい。痩せてシワシワのチビヤモリ君をそっと捕まえようとしたが、冬眠から覚めたばかりで動きの鈍いヤモリ君を甘く見て、畳の隙間に潜り込まれてしまった。
残念だが仕方無い。畳を動かしたりその辺をあまり歩き回ったりしないように母に注意し、その日はそれで諦める。運が良ければ数日中に出て来るだろう。
そして二日後。
「早く〜! また出て来たよ〜!」
母の叫び声に和室に駆け込む。今度は逃してなるものかとヘロヘロのヤモリ君を素早く捕まえる。(素早く捕まえなくてもヤモリ君は殆ど動けない状態だったが。)
「外に出してあげなさい」と言う母に、
「こんなチビのへろへろヤモリ、まだ寒い日があるのに外に出したら餌が捕まえられなくって死んじゃうでしょ。ちょっと体力をつけてからじゃないと。そもそもまだ起きる時間じゃなかったのに、ママが押入れを開けたりするから間違えて起きちゃったんだよ、可哀相に」と決めつけて彼女の罪悪感を煽る。
いや、本当は四月半ばとなれば普通にヤモリ達が起き出す季節なんですけどね。しかしこのチビは余りにへろへろで、自然淘汰される可能性が高い。そして手の中のヤモリは模様からして恐らくニホンヤモリ。地域によっては絶滅危惧種。(我が家近辺には腐るほどいるが。)だから獣医としての使命に燃える親切なワタシはヤモちゃんを保護することにしたのだ。これは個人的な趣味嗜好とは全く関係ないのだ……!
な〜んてね。コレを今すぐ外に出したら生き延びる可能性は半々だな、と思ったのは確かだが、まぁ理由なんて幾らでも後付け出来る。小学時代にチビヤモリを飼い、その結末に後悔した筈の私だが(『ヤモリの子守歌』参照)、結局二十年経っても懲りずに同じ事をしているのだ。しかしこれでも一応獣医。二十年前と同じ過ちは繰り返さないぞ! と心に誓い、とりあえず母が用意した箱にヤモちゃんを入れ、庭に出て蜘蛛探しに精を出す。我ながら呆れるほど小学時代から成長が見られないが、その辺りについては深く考えないことにする。
花壇に咲く花の葉の裏側、高い木の枝の間、庭石、玄関灯の近く、ポストの下、縁の下。蜘蛛がいそうな場所を這いつくばって探したが、まだ少し肌寒かったせいか、蜘蛛は一匹しか見つけられなかった。初夏になればアシナガグモなんかがわんさか出て来るんですけどねぇ。
花盛りの庭ではクマンバチやミツバチがわんわん言っている。蜂を捕まえるのは簡単だが、こんなモノを箱に入れたらヤモちゃんの命が危ない。仕方が無いから、庭の梅の木に巣食っているらしい蟻を二匹ほど捕獲。ヤモちゃんの箱に入れて様子を見る。
数時間後、ヤモちゃんはまず蜘蛛を食べた。更に蟻を一匹食べた。蟻を食べてくれるなら簡単だな、と喜んだのも束の間、その後はガンとして蟻は食べなくなった。やはり蟻は酸っぱくて不味いのだろう。(ジェイちゃんの幼い義弟が、「アリはスパイシーだ!」と以前に自らの経験を語ってくれた。)翌日からヤモちゃんの餌を求め、早朝五時開催の蜘蛛狩りが始まった。
ところで、我が家には猫がいる。猫と言ってもふわふわモフモフの愛らしい小動物ではない。猫科の大型動物をファーストネームに持つ、つるつるに禿げ上がったオッサンだ。彼は猫のように目敏く、猫のように何にでもチョッカイを出したがり、しかし鈍い上にドジだ。だから私が一番最初にしたのは、ヤモちゃんを入れた木箱にでかでかと「さわるな!」とマジックで書いた紙を貼ること。
洗面所で顔を洗っていると、猫と母の会話が聞こえてきた。
「コレナニ?」
「イズミがヤモリを捕まえたのよ」
「ふ〜ん……『さわるな』って誰に向かって書いてるの?」
「そんなのパパしかいないでしょ!」
「む、失礼な」
失礼な、じゃない。箱の周りでウズウズソワソワしている
「ちょっとっ! 触んないでよ!」と洗面所から叫ぶ。
「ヤモリって生き餌しか食べないんだろう? 何食べさせてんの?」
「蜘蛛」
「ふ〜ん」
半時間後、外でゴソゴソしていた父が「イズ! イズ!」と嬉しげに玄関から私を呼んだ。
「蜘蛛取ってきてやったぞ!」と握り締めた拳を得意気に見せる父。
「そんな、手で捕まえたりしたら潰れてるんじゃないの?」
「大丈夫! 潰さないようにそっと持ってきたから!」
「ふ〜ん……じゃあ箱の蓋を開けるから、上からパッと落として」
うんうんと頷き、蓋を取った箱の上でパッと手を開く父。
「…………あれ?」
不思議そうに何度も手を振る姿に腹が痛くなった。
「もう鈍いなぁ。そんなのパパの手の隙間からとっくに逃げてたんだよ!」
「蜘蛛の方がパパより賢かったのね」
笑い転げる私と母の前で、「おっかしいなぁ」と首を傾げる父。ニブイ。鈍過ぎる。とても私と血が繋がっているとは思えん。しかし彼はめげなかった。
母から私がガラスのコップと紙を使って虫を捕らえることを聞き出すと、自分も早速ガラスコップを持って庭をウロウロする。そして小さめの蜂(針があるからダメ)や甲虫(ヤモリは柔らかい虫が好きだから甲虫は食べない)を捕まえてきた。そして捕まえてきた虫を私に却下されると、「蜘蛛っていざ探そうとするといないもんだなぁ」などとぼやきつつ庭に戻る。退職してヒマなのだ。
そんな父を家に残し、諸用で街に出た。夕方、家に帰って真っ先にイソイソとヤモちゃんの箱を開けた私の目に入ったものは、尻尾の短くなったヤモちゃんと、箱の蓋にくっついた三ミリ程の尻尾の切れ端。誰かが蓋を閉めた時に尻尾が挟まったのだろう。誰かって、もちろん私ではない。
「……パパ、ヤモリの箱触った?」
「触るかそんなもんっ!!!」
努めて静かな口調で聞いたのに、相手は顔を真っ赤にして怒鳴り返してきた。如何にも後ろめたい人間特有の行動ではないか。
怒った私は、箱を触ったことを認めようとしない父とその後五日間一言も口を利かなかった。たかがヤモリの尻尾くらいで……などと言ってはイケナイ。我が家では、ヤモリの尻尾切断はそれほど由々しき事件なのだ。これは見た目の問題ではない。爬虫類にだって痛感はある。尻尾が挟まって切れたりすればそれなりに痛いだろう。あの小学生の日以来、二度とヤモリの尻尾を切るような真似だけはしないと心に誓ったのに……!
しかし六日目に向こうが白旗を揚げた。和平へ向けて贈られた二匹の蜘蛛を黙って受け取る私。久し振りに同僚のSさんに出会って終電まで呑んだくれたりしていたので、早朝の蜘蛛探しに疲れていたのだ。
四月下旬は急に暖かくなり、庭の蜘蛛も続々と顔を出し始めた。せっせと蜘蛛獲りに精を出す父のお陰で、初めの頃は痩せ痩せシワシワだったヤモちゃんの腹も丸く膨らんでいる。爬虫類の消化や新陳代謝は温度に左右される。パンパンになった腹の消化と胃腸の動きを促すために、ヤモちゃんを指に乗せて温めてやる。ソファーの上で日向ぼっこしているうちに、ついウトウトして……ハッと気付いたら手の中のヤモちゃんがいない。
どこに行ったか分からないヤモちゃんを潰してはいけないと、息を詰めてそっと起き上がる。シャツの隙間に潜り込んで私の腹の上で寝ているヤモちゃんを発見。アブナイアブナイ。尻尾切りに続いて、ヤモちゃんをうっかり逃すところまで過去の過ちを繰り返してしまうところだった。悔しいが、私のドジなところは父譲りなのだ。
ヤモちゃんのお気に入りの餌はハナグモ。花に集まる虫を待ち伏せして捉えて食べる蜘蛛で、巣は張らず、幼体は全身が綺麗な黄緑色でふくふくと柔らかく、いかにも美味しそうだ。
縁の下や木の根元に穴を掘りって袋状の巣を作るジグモは、地上部分に出ている巣を破かないように引っ張りだせばいいだけなので捕まえるのは簡単だが、ダンゴムシ等を食べる蜘蛛だけあって硬くて不味そう。そもそもかなり大型のモノが多く、チビヤモちゃんの餌には大き過ぎる。
足が長くても胴体が小さいタイプの蜘蛛なら大丈夫。ヤモリは自分の頭よりも大きなモノは食べることが出来ないが、足くらいなら結構上手に飲み込むのだ。
ヤモちゃんの口に合うサイズがイマイチ理解出来ない父が、「これはどう? こっちは?」と次々と蜘蛛を獲ってくる。このサイズのヤモリに必要なのは体長数ミリのハナグモなら精々二〜三匹、大きめのハエトリグモなら一日一匹で充分だ。
「そんなに要らないよ!」と思ったが、ヤモリは必要以上に食べたりしないし、「また見つけた!」と父が嬉しげなので放って置いたら、ヤモちゃんの箱の周りに蜘蛛入りのコップが林立していた。
コップが足りない上に母の目が冷たいので、ひとつのコップに複数の蜘蛛を入れる父。ふと見ると、ヤモちゃん好みのふわふわの蜘蛛がハエトリグモと同じコップに入れられていた。なんとなく危ないような気がしないでもなかったが、深く考えずに夕食に出て、帰って来たらふわふわ蜘蛛はハエトリグモに襲われて喰われていた。
蜘蛛は体外消化、つまり消化液を獲物に注入して液体化された中身を吸う。蜘蛛の巣についている虫の残骸を観ると、中身が吸われて腹だけがペッチャンコになっている。しかし体の中身だけ消化されてなぜ皮は無傷で残るのか。知っている方がいたら是非教えて下さい。
それにしても狭いスペースに放り込まれて敵に追われ続けた蜘蛛くんが哀れだ。彼の恐怖を思い、やや憂鬱になる。まぁ、此の世は弱肉強食。そもそも敵がヤモちゃんから蜘蛛になっただけで、結局は同じことなのだが。
ペッチャンコになったふわふわ蜘蛛を見て、「げ、気持ち悪い」とか言う母。
「その蜘蛛ねぇ、二匹でコップの中でバタバタしてたから、何してるのかなぁと思ってたんだけど」
母よ。気付いていたなら教えてくれ。
「だってまさか蜘蛛が蜘蛛に襲われるとか思わなかったんだもん」
「ふわふわ蜘蛛とハエトリグモの二匹を明日のヤモちゃんの朝食にしようと思ってたのに」
「あら、蜘蛛を一匹食べたんだから、そのハエトリグモ一匹で二匹分の栄養になるんじゃないの?」
「…………」
全くもって返答に窮するほど理論的考察だ。
ヤモリと言えば、天井やガラス窓をペタペタと歩き回る姿を見掛けたことのある方は多いと思うが、もし機会があったらヤモちゃんの指の裏をジッと観察して頂きたい。ヤモちゃんの足の裏には白っぽいシマシマ模様がある。これは
この細かい毛が壁やガラスの表面に分子レベルで近付くことによってファンデルワールス力が発揮され、ヤモちゃんは粘液や吸盤を使わずに垂直の壁をペタペタと歩き回ることが出来ると言われている。 最近、このヤモちゃんの指の構造を真似たナノテクノロジー「ヤモリテープ」なるモノが発明されたそうな。
二週間はあっと言う間に過ぎて、アメリカに帰る日が来た。
その日はやや肌寒かったので、ヤモちゃんは結局外に出さず、「暖かい日が続くようになってから外に出してやって」と両親に言い残した。そして駅まで送ってくれた母にヤモちゃんの世話を繰り返し頼んだ。これで次に日本に帰るのは数年後になる予定だが、別れの言葉は「元気でね」ではなく、「ヤモちゃんの指を蓋で挟まないでね」だった。
カリフォルニアに帰って来て数日後、水やりの方法(小さな水の容器の他に、霧吹きでプラスチックの板を軽く濡らす)を教えていなかった事を思い出し、実家に電話すると、父が出た。
「ヤモちゃんはどうしてる?」
「もう凄い元気。箱を開けても全然逃げようともしなくってさぁ、隠れもしないで、上を向いて餌が落ちてくるのを待ってる。でも箱の居心地が良すぎて引きこもりになってもらっても困るから、もうそろそろ外に出せってママが言うんだけど……」
「寒い日が無くなったんなら出せば?」
「うん? 今日はまだちょっと寒いかな」
「じゃあ五月半ばまで置いておけば?」
「うん、そうする」と嬉しげに即答する父。
「でも庭の蜘蛛を獲り尽くしちゃってさぁ。でもさっき見たら、家の中に小さなハエトリグモが出て来てるんだけど、アレはどうかな?」
「どうかなって、ヤモちゃんの頭よりも小さければ餌になるじゃん」
「そうか! じゃあアレを餌にすれば簡単でいいな! そうだ、家の中に蜘蛛がいっぱいいるし、放し飼いに出来ないかな?」
「放し飼いって、ヤモちゃんを? それは流石にダメでしょ。ママに掃除機で吸われるよ」
電話を切って数時間後。父との会話をふと思い返し、『家の中のハエトリグモ』という言葉に引っ掛かりを覚えた。再び電話すると、今度は母が出た。
「ヤモちゃんどうしてる?」
「さっき外に出した」と憮然と答える母。
「え?! だけどさっきパパと話したら、まだ寒いから五月半ばまで飼っておくって言ってたよ?」
「だって毎日蜘蛛蜘蛛ってアレが煩いんだもん。ヤモリだって慣れ過ぎちゃって、指でつついたって、尻尾をピョコっと上げるだけで逃げもしないし! それどころか箱を開ける度に期待した顔で上を見て、ちょっと大きい蜘蛛をやると箱の中でドタバタ追いかけっこして、ゴロゴロ大きなウンチもするし!」
「ヤモリは爬虫類の中では穏やかで人にも慣れやすいから、パパのボケ防止用の良いペットになるのに」
「ダメダメ! あんなの要りません! さっきなんかね、『あ! いた!』って言うから何かと思ったら、リビングを歩いてるハエトリグモを捕まえてヤモリに食べさせようとしたんだから!」
あ〜あ、やっぱりね。我が母はハエトリグモを可愛いがっている。家中のハエトリグモに分担区域を持たせて仕事をさせている蜘蛛匠なのだ。(『蜘蛛・こぼればなし』参照) その蜘蛛達をヤモリの餌にされて彼女が黙っているわけがない。かくして母の逆鱗に触れたヤモちゃんは楽チンで安全なヒッキーの地位を剥奪され、屋外追放となったのだ。
「まったくもう、箱の蓋を開けて外に出しても嫌がって出ていかないんだから! ヤモリの癖に!」
此の世は弱肉強食。我が実家最強の権力者の寵愛を受けるハエトリグモ達は、ヤモちゃんよりも地位が上だった。
天から手頃な餌が降ってくる素敵な住処を追い出されたヤモちゃん。ヒッキー化していた彼が野生を取り戻し、元気に自力で餌を獲っていることを願う。
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