泳ぐ猫・泳げない犬

 気持ちの良い初夏のある日。

 ジェイちゃんのパパの家にエンジュと吹雪を連れて遊びに行った。魚釣りのポイントを探してジェイパパの土地を流れる川をウロウロしていると、反対岸でエンジュと吹雪がジェイちゃんと共に寛いでいる。のんびりした二匹の顔を眺めているうちに、不意に彼等の忠誠心を試したくなった。

「エンジュ! カム!」

 エンジュはハッとした顔で私をみつめ、次の瞬間、川上に向かって走り出した。暫く行って辺りを見渡し、今度は川下へ向かって走る。何処か水に入らずに岩伝いに渡れるポイントがないか探しているのだ。水に入るのは嫌らしい。そう言えば、泳ぐコヨーテってあんまり聞いたことないな。

 エンジュが川岸を駆け回り、良さそうな岩を見つけて器用に川を渡り始めた。一方吹雪は私の顔を眺めて軽く尻尾を振っている。

「吹雪! カム!」

 呼ばれた瞬間、吹雪は何の躊躇もなく水に飛び込んだ。そのまま歩いて渡るつもりだったのだろう。しかし初夏の川にはまだたっぷりと雪解け水が残っていた。川が一気に深くなったところで吹雪は水底に沈んだ。そしてそのまま浮かんでこなかった。ジェイちゃんが大慌てで水に飛び込み吹雪の首輪を掴んで川岸に引きずり上げる。安全地帯で身体をブルブルさせて水を飛ばす吹雪。

 吹雪は何故泳ごうとしなかったのか。彼は泳げないのだろうか。もう一度呼んでみる。

「吹雪! カム!」

 一度溺れかけたにもかかわらず、吹雪は全く躊躇せずに再び水に飛び込んだ。そしてやっぱり深みに来ても泳ごうとはせず、ひたすらバシャバシャと水を跳ね飛ばし、ズブズブと沈んでいく。別に川の流れが速いわけでもないし、二メートル程で吹雪の足の届く浅瀬になるのだから放っておけば良いものを、ジェイちゃんが再び吹雪救出の為に水に飛び込む。

「吹雪! カム!」

 二度の失敗にもめげず、吹雪が三度水に飛び込もうとしたところでジェイちゃんが顔を真っ赤にしていい加減にしろと喚き出した。

「もうやめろ! 吹雪はきっと泳げないんだッ!」

「いや、ゾウですら泳げるんだから大丈夫だって。そんな甘やかさなくたって、獅子だって千尋の谷に我が子を突き落とすって言うじゃん」

「イズミは単に面白がってるだけでしょっ! 濡れた犬の後始末はどうせ僕にやらせるつもりの癖に!」

 ばれたか。

 笑いながらふとエンジュを見ると、彼女は少し離れた川の真ん中の岩の上で硬直していた。そして吹雪を見つめ、歯の根も合わないほどブルブルと震えている。震えすぎて、岩の上に立っているのですら難しそうだ。どうやら溺れかけた吹雪を見て、「自分も溺れたらどうしよう!」という恐怖に囚われたらしい。決して吹雪の心配をしているわけではない。

 先程までは優雅に岩から岩へジャンプしていたエンジュは恐怖のあまり一歩も動けなくなった。エンジュ救出のため、仕方無くジャブジャブと川を渡るジェイちゃん。エンジュはジェイちゃんに抱かれて岸に戻っても、その後一時間近くふるふるガタガタとポンコツ発電機化していた。


「それにしても吹雪って忠犬だよねぇ」

 ジェイパパの家へ帰り、ジェイちゃんにドライヤーで身体を乾かしてもらっている吹雪をよしよしと撫でてやる。

「ジャック・ロンドンの『荒野の呼び声』か『白い牙』のどっちかでさ、飼い主がふざけて崖から飛び降りろって命令したら、全く躊躇なく忠犬が飛び降りそうになって飼い主の方が慌てるシーンがあるじゃん、あれと一緒だねぇ」

「……何それ? 泳げもしない癖に後先を省みずに川に飛び込む馬鹿さ加減が似てるってこと? それとも犬にそんな事を命令するアホな飼い主が似てるってこと?」

 余計な仕事が増えた上に自身もビショ濡れになったジェイちゃんは機嫌が悪い。

「ジェイちゃんが身体を張って止めようとしても、私に呼ばれたらジェイちゃんを振り切って水に飛び込むところが忠犬だよね。つまりジェイちゃんなんか完全に無視して絶対的に神わたしの命令を聞いてるんだから」

「イズミなんかソファーと一体化しちゃって、犬の面倒は常に僕がみているのに……」

 許せない、などとブツクサ言いつつも、丁寧にドライヤーをかけるジェイちゃんと、うっとりと目を瞑ってジェイちゃんに凭れ掛かる吹雪くん。吹雪はジェイちゃんが大好きだ。しかし好きであることとリーダーと認めることは違うのだ。

 とある漫画で、動物学者が「犬は好き嫌いに関係無く、その家の男性を家長と認識する」とか言う台詞があるが、我が家を見る限りソレは間違いだろう。我が家の動物達は皆、私こそが神であると知っている。

「それってイズミの性別が正しく認識されてないだけじゃないの?」

 私をオトコだと思っているのか、ジェイちゃんをオンナだと思っているのか、どちらにせよソファーから下される私の命令は絶対だ。

「敬われるって気分イイねぇ」などと喜ぶ私に下僕ジェイちゃんが白い眼を向ける。


 ヒトに忠実なのは犬だけではない。私が小学一年生の時に拾ってきた猫のミルクくんは、我が母にだけ忠実な「忠猫」だった。

 臍の緒付きの産まれたての仔猫(体重八十グラム未満)は、我が母が二時間毎に一ミリリットルのミルクをスポイトで与えて育てた。

「オッパイを吸った経験が無いと立派なオトナになれないかもしれない。精神的に歪イビツな子になったら困る」などと言って仔猫に自分の小指を吸わせていた母。かくしてミルクくんは成猫オトナになっても暇さえあればジュージューと母の小指を吸いたがる、立派なマザコン猫となった。


 冬。コタツを出すと、ミルクくんは早速コタツの独裁者となる。『猫+コタツ=コタツ内恐怖政治』の方程式は、猫を飼ったことのあるヒトなら誰でも経験があるのではなかろうか。

 コタツのド真ん中にでんと陣取るミルクくんが怖いから、ニンゲン共は遠慮がちにコタツの隅っこで暖を取る。間違えてミルクくんの陣地に足を入れようものなら、ガッと両前脚で抱きつかれ、がぶりと噛まれ、連続猫キックを喰らうこと必須。普段は大人しいミルクくんはダンボール箱やコタツ等の狭いスペースに入ると突如本能を剥き出し、手加減無しで襲いかかってくる。

 私と兄、そして父がコタツの隅っこで震えているところに母登場。彼女は恐れげもなく悠々と足をコタツの真ん中に突っ込む。ガッとミルクくんが母の足を噛みかけた瞬間、「ミルちゃん、痛い痛い、ママの足!」と母が言う。するとミルクは慌てて爪を引っ込め、ぺろぺろと母の足を舐める。

「ミルクがいると、あんた達の足がないからコタツが広々としてイイわぁ」などと言う母。実に不公平だ。そこでミルクくんを騙す作戦に出る。

 コタツの真ん中に足を突っ込み、ミルクが噛み付いたら、「痛い痛い、ママの足!」と母に言わせるのだ。そうするとミルクくんは慌てて噛むのを辞める。作戦成功。しかしぺろぺろと私の足を舐めかけて、むむっ?!と変な顔をする時がある。母と私ではどうも味が違うらしい。騙されたことに気付いたミルクくんは、怒り狂って普段の数倍の威力で噛み付いてくる。そして一度騙されると、その後しばらく注意深くなるため、この技は使えない。中々危険な一発技なのだ。


 小学校時代の夏休み、ミルクくんを田舎に連れて行った。

 祖母の家の前には川がある。私はいつも日がな一日そこで魚釣りしたりメダカやチチンコ(ハヤかカジカの子?)を捕まえたりして遊んでいた。ミルクくんは見知らぬ土地で迷子にならないように常に綱をつけられていたのだが、私が川に行く時は綱なしで一緒に連れて行き、川の真ん中の石の上で遊ばせていた。私は親切のつもりだったのだが、ミルクくんは非常に迷惑気だった。

 そんなある日、川岸を通り掛かった母がミルクくんに声をかけた。

「まぁ、ミルちゃん、そんなところで暑そうじゃないの」

「にゃあ」と答えるミルクくん。

「泳いでここまでおいで、お家に連れて帰ってあげるから」

「にゃあ」と困った顔で辺りを見回すミルクくん。

「おいでおいで〜」

 困り顔のミルクくんを笑いながら何度も呼ぶ母。そこにはどう考えたって愛情のカケラもなかった。だって普通、猫に泳げとか、そんな無理なこと言わんやろー。しかしミルクくんは不意に意を決した顔をすると、バシャリと流れの中に身を投じた。そしてもう本当に必死の形相で、母の待つ岸まで七〜八メートルの距離を泳ぎ切ったのだ。


 母の冗談を真に受けて、命賭けの猫カキを披露したミルクくん。彼は忠猫ミルクの名を不動のモノとした。泳ぐ彼の開き切った瞳孔が忘れられない、我が家の夏のほのぼの(?)ワンシーン。

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