ウサギの秘密

 玄関を開けたら目の前に野ウサギがいた。

 ウサギと言っても、恐らく皆さんが想像するようなふわふわほよほよのうさたんではない。Black-tailed jack rabbit、直訳すれば黒尾野ウサギ。これぞウサギ!と言いたくなるようなピンと立った長くて先の黒い耳、黒い尻尾、精悍で筋張った身体、長い前足に強力な後脚。体長六十センチ、体重三キロにもなるかなり大型のウサギだ。

 とある漫画で、「ウサギも追い詰められれば猟犬を蹴り殺す」というセリフがあるが、ジャックラビット君に蹴られれば、冗談でなく犬の頭蓋骨は陥没する。ただし体幹に対して後脚が強過ぎる為、蹴ったついでに自分の背骨が折れることがあるという諸刃の剣だ。まぁ、「蹴り=背骨骨折」の法則は普通のペットのうさちゃんでも可能なのだが。


 ジャックラビット君の筋骨隆々とした姿を初めて見た時、同僚のSさんはそれがウサギだと認識出来なかった。

「あの、なんだかやけに耳の長いゴツゴツした動物を見たんですけど、アレなんですか?」

「ウサギだよ〜」 と言っても、彼は中々納得しない。

「え、でも、他にもっとウサギっぽい、ちゃんとしたウサギいますよね?」

「それは cotton tail (綿尾ウサギ)。尻尾がふわふわ白くて、身体も小さくて、ぴょんぴょん跳ねるヤツね」

「そうそう、可愛いやつ」 暗にジャックラビットは可愛くないと示唆するSさん。


 スポーツマンタイプのジャックラビット君が時速六十キロを超える猛スピードで野原を疾走する姿も格好良くて好きだが、品種改良された垂れ耳うさたんも大好きだ。つるつるふわふわの柔らかな毛皮、往々にして大人しく穏やかな性格、あれぞ正しく生きたヌイグルミだと思う。病院に激カワうさたんが来ると、採血と称してバックルームに拉致ってモフモフの毛皮に顔をうずめて癒されているのは内緒だ。


 私が幼稚園の時、ご近所で産まれたウサギの仔を一羽頂いた。グレーと白のいわゆるパンダウサギちゃんを、私はピコと名付けて可愛がった。何故ピコなのか、と誰かに聞かれ、「小さいから」と答えた記憶がある。小さい=ピコ。幼児語だったのか、なんなのか、それは五歳の私にとってとても自然で当たり前の名前だった。


 ピコちゃんはとてもイイ子だった。絨毯でオシッコをする度に、「お尻ぺんぺん」(というよりナデナデだったが)などと言われてケージに戻されるうちに、彼女は決してケージの外ではトイレをしないようになった。何が何でもケージでする! と強く心に決めた彼女は、庭で遊んでいても、父が洗ったばかりのケージに走って戻ってオシッコをした。実はウサギはトイレの躾がワリと簡単なのだ。


 我が家の庭の花壇の一部はお隣さんの裏口に面していて、そこに柴犬くんが繋がれていた。可哀相にあまり面倒をみられている様子の無い柴犬くんは、欲求不満のせいか、年がら年中吠えていた。

 庭に放すと、ピコちゃんは必ず花壇の奥に入り込み、柴犬くんを見物に行く。我が家の庭の方が少し高い位置にあったので、ピコちゃんは柴犬くんを見下ろすことが出来た。鎖に繋がれた柴犬くんはギリギリでピコちゃんに飛び付くことは出来ない。ガウガウガウガウと気が狂ったように鎖を引っ張り、怒って吠える柴犬くんを、鼻先三十センチの距離まで近付き、さも面白げに見下ろすピコちゃん。はっきり言ってメッチャ性格歪んどる。

「ピコちゃん! やめなさい!」 と母に叱られ、十二分に柴犬くんの不幸を楽しんだ後、ピコちゃんはぴょこぴょこと庭に戻ってくる。


 庭の芝生には夏になると濃いピンク色のねじ花が咲いた。草花の好きな母はねじ花を大切にしていたのだが、自分の頭より僅かに高い所にあるねじ花は、ピコちゃんのお気に召さなかった。ねじ花の背がしゅるしゅると伸びてくると、彼女は全部噛んで折って回った。決して食べるわけではない。あの微妙な高さが気に喰わないだけだ。

 しかしシャクナゲなど、ピコちゃんのお気に召す花もあった。そういう花は、蕾が膨らみ、あとひと息……という頃に全て彼女のオヤツになった。


 ピコちゃんの両親は非常にワイルドで、飼い主がちょっと目を離した隙に庭に穴を掘って出てこなくなる。逃げて何処かへ行ってしまうワケではないのだが、昼間はじっと穴奥に隠れ、夜になるとそろりと出てきて、そのお宅の草花を全て食べてしまう。実にウサギらしいウサギと言えよう。しかしその家のおばあちゃんはいつも怒っていた。

 ピコちゃんはワイルドな親に似ず、庭が嫌いだった。柴犬見物と新芽や蕾荒らしは好きだったが、外よりは家の中が好き。庭に面した硝子戸が開いていると、慌てて家に戻ってくる。夏はそよそよと人口の風が吹き、冬はほかほかと炬燵などがある家の方が都会派の彼女にとっては魅力的だったのだ。

「運動不足になるから、お日様の下で遊んでいなさい」などと母に言われ、不貞腐れた顔で庭をぴょこぴょこするピコちゃん。

 そんなある日のこと。母の号令下、父が庭に面した硝子戸の拭き掃除をしていた。

「いや〜、綺麗になったなぁ」と満足気な父。

「凄いでしょ? 綺麗でしょ?」と褒めて欲しくて私に同意を求めてくる。と、庭でぴょこぴょこと遊んでいたピコちゃんが、不意に父を振り返り、硝子戸に猛突進し、そのままガラスに頭から突っ込んだ。一瞬ピコが死んだかと思った。

 騒いでいると、「どうしたんや」などと言いながら祖父がやって来た。そして祖父もそのまま硝子戸に突っ込んだ。あまりに綺麗で、戸が閉まっているのが分からなかったらしい。幸いピコも祖父もタンコブ程度で大した怪我はなかったが、しかし大笑いする人々を前にして、一人と一羽は何やら憮然としていた。


 ピコちゃんが一歳半くらいの時に、家に仔猫のミルクくんが来た。へその緒が取れる前に捨てられたミルクくんは、這って自力で移動出来るようになった時、真っ先にピコちゃんのところへオッパイ探しに行った。ピコちゃんは非常に憤慨していた。

 ミルクくんはピコちゃんが大好きだった。クーラーの前で昼寝しているピコちゃんに物陰から飛びつき、追いかけまわし、よくじゃれついていた。ピコちゃんも初めのうちは仕方無さそうに相手をしてやるのだが、面倒になってくると、タンタンッと後脚で地面を蹴って威嚇する。別にミルクくんを蹴ったり噛んだりするわけではないのだが、ピコちゃんがタンタンッとやるとミルクくんはいつも大ビックリして母の後ろに隠れ、ピコちゃんの機嫌が治るまで大人しくしていた。ミルクくんが成長してピコちゃんの倍の大きさになっても、この『ピコ>>>ミルク』という力関係は変わらなかった。


 ピコちゃんが三歳の夏、私と母と兄は例年通り田舎へ遊びに行った。いつもならピコちゃんとミルクくんも連れていくのだが、何故かその年は二匹とも家に父と共にお留守番ということになった。私が子供の頃の夏は今ほど暑くはなく、三十度を超えることなど稀だった。おまけにその年は冷夏だったので、父も油断していたのだろう。仕事から帰ってきたら、締め切っていた家の台所でピコちゃんがぐったりしていた。

 父は大慌てで掛かり付けの獣医に電話したのだが、「ピコちゃんはもう三歳でしょう? そろそろ寿命ですよ。残念ですが、ウサギは弱いし仕方無いんですよ」と言われた。そして何の手も施されないまま、ピコちゃんはその晩、父に看取られ死んでしまった。父は翌朝ピコちゃんの亡骸を抱いて一人山へ行き、しかし登る前に力尽き、中途半端な山の入り口にピコちゃんを手厚く葬ってきた。


 今ならわかる。こんな事を今更言っても仕方無いのだが、しかし敢えて言わせて貰えば、ウサギの寿命って十年が普通ですよ?! ギネス記録のウサギなんて十八年ですよ?! ウサギに点滴するのって、実は子猫なんかより簡単なんですよ?! せめて身体を濡らして体温を下げてやるとか、ダメで元々なんだから、そんな手をこまねいてないで、なんか試してみましょうよ!

「ウサギの寿命は二〜三年が普通だ(ピコの親は十年以上生きていたが)」という獣医さんの言葉に、「じゃあ仕方ないね」と不承不承ながら諦めがついたのは確かだ。しかしこう言っては大変失礼なのだが、自分が獣医になってからあの先生の言動を振り返り、かなり不信感を抱いたのも確かなのだ。まぁ、先生だって別に騙すつもりがあったわけではないだろうし、獣医の優しい言葉(たとえ嘘でも)が救いとなるヒトだっているのだろう。

 しかしピコちゃんの最期を看取ることの出来なかった悔恨と先生の言葉のせいで、「ウサギは二〜三年で死んでしまう」と思い込んだ私は、以来ペットショップなどで激カワうさたんを見ても、二度とウサギを飼おうとは言い出さなかった。欲しいなぁと思っても、「ウサギは二〜三年で……」などと母が耳許で呟くのだ。

 ここにそこはかとなく母の奸計が臭うのは気のせいか。


 ❀ ❀ ❀

 

 先日、学生に何かの計算を教えていた時のこと。

「これがエックスだとするでしょ、それで、こっちがピコモル濃度だから、これをミクロ濃度まで上げるには……」

 ピコモル濃度。ピコ=Pico。十のマイナス12乗。一兆分の一。すっごい小さい単位……。不意に私の中でナニカが繋がった。

「それでピコか?!」と思わず叫んだ。幼稚園児の私、一体どこからそんな神懸かり的な名前を思いついたのだ?! 実は隠れた天才だったか?! 今の今まで、あのパンダウサギの名に隠された秘密に気付かなかったとは、なんたる不覚……!


 興奮のあまり、学生に教える計算式を間違えたのは内緒だ。

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