第96話 選ぶのではなく捨てるということ
何かを選ぶというのは、選んでいるのではなく、捨てているのである。傍から見れば、たった一つを「選んでいる」ように見えるだろうが、実際にはたった一つ以外を捨てるという行為をしている。そのことについて、捨てる方も捨てられる方もきちんと理解をしていないと互いに不幸になる。
今までは全部捨てないというコンセプトで褒める企画をしてきたが、今回はさいかわ卯月賞という捨てる為の企画をしている。それは趣味の世界においてもっとも危険なことをしていることに他ならない。捨てる方は良心が痛むだけで済むが、捨てられる方はたまったものではないからだ。
だけど、わたしはそこに覚悟があるので後悔はしていない。捨てられた方から非難や怨嗟の声が聴こえようとも、最悪良好な関係が断絶に向かおうとも、わたしは捨てる覚悟をもって臨んでいるから何の恐れも不安もない。これがわたしの捨て方だという覚悟と、ある種の確信があるからだ。
長年、それこそ何十年、いや、今もなお、わたしは捨てられる側にいる。同人時代はコンペに出してはボコボコにされ、批評では泣きたくなようような酷評をされ、まわりから「下手くそ」の代名詞みたいに言われてきた。二次創作で下手というのは、文章が下手だけではなく、その元作品を楽しみにしている読者を侮辱している意味に他ならない。どうすればいいのか。悩み苦しんだ記憶がある。
商業を目指すプロ志望相手の練習やコンペでも結果は散々であった。他の人たちの眩い才能の前には為す術もなく、いわゆる「ボコられ慣れて」しまった。捨てられる悲しい気持ちが染みついているのだ。もしかしたら、わたしの作品のテーマが「失ったものへの弔い」であるのも、こういった歴史からの慰めなのかもしれない。
ただ、捨てられるには捨てられる理由がある。感情的な気まぐれとか感性に合わないとか、そういう捨てられる側としては理不尽な理由であっても、きちんと捨てられた理由があるのだ。それを理解し受け容れる準備ができていないと、捨てられた側はきっと相手に八つ当たりしてしまうだろう。わたしの企画だけではなく、あらゆる企画に参加したとき、それだけはみっともないので辞めた方がいい。わたしだって真剣に書いてとんでもない解釈をされて捨てられるときもある。だが、どこまでもそれは捨てる側(選ぶ側)がそう思ったのであるから、正義なのである。いかに自分が努力しようとも、高尚な志を持っていようとも、相手から捨てられたことへの言い訳にはならない。これをきちんと理解していないと、感情に振り回されてしまうだろう。
捨てる方においても、捨てられる側の気持ちや反応をきちんと理解してなければならない。安易に他人の作品を批評や選別をしている企画を見る度に、わたしは企画者の覚悟を覗き込みたくなる。そんな簡単に他人の作品を扱うことができるだけの自信と覚悟があるのか、わたし自身も自問自答しながら眺めている。
すべての解決方法は、企画をしない、参加をしない、だ。人の批評に晒される環境に自分の身を置かないこと。捨てるという裁きを行う立場にならないことだ。
だかしかし、自分の意思によって、その世界に一歩でも足を踏み入れてしまったのであれば、あとは泣き言はいわずに、歯をくいしばってベストを尽くすのみだ。そして、受けた結果には誰にも言い訳せずに黙って飲み込み、愛する人にでも縋り付いて泣いて終わらせる。そして次を目指せばいいのだ。
趣味とはいえ、覚悟も用意もない人間が踏み入れてはいけない領域があることを、痛烈な自戒を込めてここに記す。
※企画者であれ参加者であれ、大変ですよねと思い自戒を込めて。(2024.5.6)
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