第28話 運転

須藤と席を入れ替わり、私は運転席に座りました。本当に、何をどうして良いのかわかりませんでした。ですが須藤は丁寧に、車を発進するための手順を説明しました。ギアをドライブの位置にして、恐る恐るアクセルを踏み込みました。車はゆっくりと動き出しました。


ああ、動いた、と思うと怖くてすぐにブレーキを踏みました。


「ユリちゃん、それでいいよ。右がアクセルで、真ん中がブレーキ。あとはハンドルを回せば曲がるから、公園の周りを1周してみよう。」


私はちらりと彼を見て、またそろそろとアクセルを踏みました。少し走ると、公園の端まで来たのでハンドルを左へ切り、曲がりました。


「うん、ユリちゃん。ちゃんとできてるよ。公園に沿ってそのまま走ってみて。」

ゆっくり車を走らせながら公園を1周し、元の場所へ戻りました。


「はぁ・・・なんとかですね。」

ほっとして一息つこうとすると、須藤はさらに言いました。


「簡単だったろう?あと5周してみようか。」


抗議の気持ちで彼を見ましたが、須藤は満足そうに笑っていました。私は諦めて、再びアクセルを踏みました。車がこのように簡単に動くことに内心興奮していました。公園の周囲をぐるぐる回るのは、確かにそれほど難しいことではありませんでした。


「ユリちゃん、もう慣れたみたいだね。もっと練習したいところだけど、時間があまりないようだからこのぐらいにしようか。」

5周したところで、須藤はそう言いました。


「無理させて悪かったね。」

謝られると、かえって申し訳ない気がしました。私のためにしてくれたのはわかっていました。


「こちらこそ、大切な車を私なんかに預けて下さってありがとうございました。びっくりしましたが、少しだけでも運転してみることができて良かったです。」

素直に感謝を伝えたいと思いました。


「もう戻ろうか。普通の路上は俺が運転しないとね。」

私達は席を入れ替わりました。


「次はもっと、きちんと時間を取って練習しよう。ユリちゃんが社員になるまでに運転をマスターしよう。」


熱のこもった口調でした。いつの間にか彼のペースに巻き込まれそうで、有難いような、困ったような気持ちでした。


帰り道、須藤は運転の練習を続けることを強く勧めてきました。毎日練習することが望ましいけれど、無理ならば週に1、2回でも構わないので、彼が運転を教えてくれるとの事でした。


私は戸惑っていました。教習所へ通っていた頃から7~8年ぶりに車のハンドルに触れ、それだけでも気持ちがいっぱいだったのです。自分が運転をするなどとは、まだイメージができませんでした。


「この機会に、運転を覚えた方が良いと思うよ。ユリちゃんが営業職になるかどうかは別としても、運転自体はできた方が絶対に良いはずだから。そのせいで応募できる求人も少なくなってしまうんだよね?」


須藤の言うことはもっともでした。ですが今後も、彼が私に会うための口実であることもわかっていました。そこまで甘えてしまうのもどうかと思いましたし、彼と会い続けることのリスクは常に感じていました。


「ユリちゃんは営業職になることをまだ迷っているようだけど、運転ができれば他の可能性も広がるから、まずはもう一度練習してみようか。苦手な気持ちがもう少し消えるかもしれない。運転なんて、慣れれば本当にそう難しいことじゃない。これから雪が降ると気持ち的にも練習しにくくなるだろうから、今のうちに少しでもやってみるべきだよ。」


本当にこの人はあの手この手で私を引っ張り出そうとするのだなと思いました。ですが、前向きに考えられないわけではありませんでした。もし本当に運転できたとしたら・・・?今までは非現実的な夢のような話でした。でも須藤は熱心に教えようとしてくれていました。確かに悪い話ではありませんでした。正社員になり、安定した職と給料を得られるなら・・・運転もできたなら・・・これまでとは別の人生になるだろうと思えました。


「次の週末はどうかな。迎えに行くよ。同じ場所でもっとゆっくり練習してみようか。さっきの公園の周辺は車も人通りも少ないから、公園まわりだけでなく、少しだけ路上でも練習しよう。住宅街のようだったから、それほど怖くないと思うよ。」


目的はどうあれ、彼は私に役立つ提案をしてくれていると認めました。


「日曜日の11時頃でも良いでしょうか。また同じコンビニで待ち合わせしましょうか。」


そう口にすると、須藤の目から喜びがあふれました。この人が私のためにすることは全て受け取ろうと思いました。お返しについては考えないことにしました。この人は私といられることが嬉しいのだから。お金だろうと、時間だろうと、労力だろうと、彼は私に尽くすだけ尽くせば良いし、疲れれば諦めるかも知れないと思いました。


「次回も昼時だから、どこかで昼食を取ろうか。ユリちゃんの好きそうな場所を考えておくよ。」


次の約束ができたからでしょうか。須藤は嬉々としていて浮かれているようにすら見えました。この人が欲しいものを私は与えようとは思っていませんでした。私は静かに彼に笑顔を向けていました。

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