第20話 打診

中心街のある通りでタクシーを降り、知らないビルに入りました。地下へ降りる須藤の後をついてゆくと、和風で上品な雰囲気の看板が見えました。


「ここは食べ物も美味しいし、個室になっていて話しやすいから。」

須藤はお店の従業員の方と言葉を交わすと慣れた様子で奥のスペースへ向かいました。彼と個室的な場所で過ごしたくありませんでしたが、ついてゆくしかありませんでした。


4名用の個室を案内され、須藤は私に奥へ座るように促しました。彼と二人きりで向かい合わせに腰をおろすと、彼の強い感情が伝わってきました。


嫌でも考えずにはいられませんでした。あの日二人の間に起きたことが思い出されて気の遠くなるような恥ずかしさに襲われました。彼も思い出しているのか、私を見つめる視線が強く絡みつくようでした。何もされていないのに犯されているかような気がしました。


「教えて下さい。須藤部長の考えたことというのは・・・」

変なことを思い出したくなくて切り出すと、須藤にまた遮られました。


「慌てないで。まず注文しようか。お茶か、ジュースか、ノンアルコールの飲み物だね。」

温かいお茶をお願いしました。須藤はいくつかの食べ物を注文しました。


ようやく須藤が話し出しました。

「ユリちゃん、やはり、契約社員から正社員になるというのは簡単ではない。そもそも、まずは数年ほど働いて、その仕事ぶりしだいで上司の推薦を受け、プレゼンや筆記試験を上手くこなして、それなりの倍率を勝ち抜いてようやく正社員に登用されるという流れになる。ユリちゃんはまず、勤続の期間が短い。」


「そうですね。それでは、私が正社員になるためには、何か方法があるのでしょうか。どこか良い会社を紹介して下さるのでしょうか?」

私はいくらか期待し、半ば諦めながら尋ねました。


「ユリちゃんがしたい仕事ではないかもしれないが、営業の仕事ならば、正社員になることもできると思う。その場合は、俺でもなんとかできる。」

須藤は真面目な表情でそう告げました。


「営業、ですか・・・」

その後の言葉が出ませんでした。とても無理だと思いました。営業職は、私にとってあまりにも別世界でした。少し考えれば、須藤は営業部長なわけですから、そういったポストならば用意することも可能であったのでしょうが、私などが務まるとは思えませんでした。


今でこそ女性の営業職は珍しくもないことですが、その当時は普通のことではありませんでした。怖くて辛そうな、大抵の人はやりたがらない類の仕事という風にしか思えなかったのです。


「せっかくですが・・・私には無理だと思います。全く経験したことのない仕事です・・・うちの会社に、営業職の女性はいませんし・・・男性でも、入れ替わりの多いところですよね。内勤でしたら、経験のない仕事も頑張って覚えるつもりですが・・・」

私は歯切れ悪く答えました。


「営業を敬遠する人は多い。多くの人が嫌な、きつい仕事だと決めつけている。確かに大変な部分もあるが、やってみたら悪いことばかりではないことに気付くはずだ。」

須藤は静かに私を見つめながら話しました。


「営業職は、他の内勤社員よりも手当がつくから、給料も上がる。外回りはあるが、日中も時間の融通をつけやすい。出張の機会も多いから出張手当ももらえる。ユリちゃんが想像するより良い部分もたくさんあるんだよ。」


そのように説明を受けても、やってみたい仕事とは思えませんでした。営業というのは、セールスをして売上の数字が明らかになってしまう仕事です。自分が何かを売り歩くことなど、まるで想像がつきませんでした。私の表情を察して、須藤は続けました。


「言っておくけど、ユリちゃんに飛び込み営業のような真似はさせないよ。うちの会社はディーラー営業だから、営業社員が何かを直接売るわけでもない。取引先に信用してもらえれば、後は自動的に仕事を回してもらえる場合もある。まずは俺や他の営業社員に同行して、少しずつ顔を覚えてもらう。研修的な期間は十分に設けるつもりだし、しばらくは事務の仕事も並行してやってもらう。いつも頼んでいるような資料の作成や、飛行機や宿の手配などをお願いすることもあると思う。」


「事務の仕事は以前勤めていた会社でも経験があります。ですが、営業の仕事ができるとは思えないんです。私は車の運転もできませんし・・・それで、求人情報を見ても、応募できる仕事が限られてしまうんです・・・」


須藤は静かに頷いて私を見つめました。

「免許は持っていないのかい?」

「いいえ、あります・・・でもずっとペーパードライバーなんです。身分証明書にしかなりません。」


営業の仕事以前に、車の運転もハードルの高い問題でした。

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