第43話 口実
「俺はただ、友人としてユリちゃんに運転を教えているだけだよ。そんなにまずいことがあるのかい。」
彼の言い方は少し意地悪く思えました。確かにこの時点で私たちは友人関係と言っても差支えなかったのでしょうが、もしこのようなレストランでふたりきりで会っているところを誰かに見られたら?車に乗っているのを、手をつないでいるところを誰かに目撃されたら・・・?そんな事が起こらないとも限らないのです。
「冗談だよ。俺とユリちゃんが友人だったとしても、誰かに会ったら誤解されるだろうね。俺も、それが誤解じゃない関係になりたいと望んでいるしね・・・」
彼の気持ちは既に何度も伝えられていてわかっていました。私はその言葉から逃げるように目を伏せました。
「でも俺は、ユリちゃんに会えない時間が辛くてね。週末ユリちゃんに会えることだけが生き甲斐と言って良いほど楽しみにしているんだ。たとえユリちゃんにそんな気持ちがなかったとしてもね。俺がユリちゃんを社員にできるから、会ってくれているだけだとしても。」
須藤の言ったことは的を得ていたのに、自分でも思いがけないほど、彼の言葉が突き刺さりました。
「違うんです。私も本当は、須藤部長と会うのは楽しいんです。お食事へ連れて行って頂いたり、運転を教えて下さることもすごく感謝しています。だんだん運転できるようになって面白いのですが、どこかで誰かに会ってしまわないか心配なんです。」
思わずそう告げてしまいました。
「俺と会っていて楽しい?ユリちゃんが?そう言ってくれたのかい?」
須藤に聞き返されてうろたえました。言うべきではなかったと思い顔を逸らしました。恥ずかしくなってすぐに返事ができませんでした。
「・・・でも、甘えっぱなしではいけないと思うんです。須藤部長にはご家庭もあることですし。」
彼が既婚者であることを強調すべきだと思いました。彼の立場で、彼の望んでいることは道徳に反しているのだと認識してもらわなくてはなりませんでした。
「会社の誰にも会う事さえなければ、ユリちゃんは俺と会ってくれるのかい?もっと遠くへ出かけたら問題ないということかな。」
「ご家庭のある方とそのように親しくしてしまうのはいけないと思うんです。私はもっと遠慮すべきでした。甘えすぎてしまって、申し訳ないと思っています。」
ほとんど必死で答えていました。須藤は黙って私を見つめました。
「ユリちゃんの気にしていることはわかった。明日の練習は控えることにしよう。」
須藤は静かな声で言いました。安堵したような、少しだけ残念なような気もしました。
「会えない時は、メールをしても良いかな。電話したい時もあるかもしれない。」
「それは構わないです。」
ささやかな願いのように思えて、了承しました。
「今日プレゼントしたものを、会社にも着けて来てくれるかい。イヤリングか、ネックレスか、どちらかだけでも良いから。」
須藤は強い眼差しで私を見据えました。
「・・・わかりました。そうさせて頂きます。」
断るための理由も言葉も思い浮かばず、また私は従ってしまいました。
「ユリちゃん。試験を受ける前に人に見られるのがまずいのなら、社員になった後なら良いという事だね。明日も、次の週末も会えなくても俺は我慢しようと思う。でもその週明けはとうとう試験だ。社員になることが決まったら、君は俺の部下になるから、打ち合わせ等の用事で会う機会も多くなると思う。運転も早く慣れた方が良いから、練習に力を入れたい。それは構わないね?」
彼の言う事はどこまでもっともらしかったのでしょうか。どちらかと言えば、私の事を諦めてはいないような気がしました。
「お仕事に関わることでしたら、構いません。」
なぜかそんな答え方をしてしまいました。きちんと断るべきだったのだと思います。ですがその時はそう返事をしてしまったのです。
「わかったよ、ユリちゃん。」
須藤は静かに笑いました。この時の、須藤の不思議な笑顔を忘れることができません。何故だか自信に満ちているようで、少し怖い気がしました。私はこの人から逃れられなくなるのだろうかと予感したのかもしれません。
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