第13話 トラウマ

平静を装ったつもりでしたが、周りには妙に思われてしまったようでした。

桜井さん、大丈夫?まだ体調悪いんじゃないの?同僚の女性に声をかけられました。

すごく顔色が悪いよ、早く帰った方がいいよ。他の人にも言われました。

誰にも何も気づかれたくなかったのに、私はおそろしく動揺していました。

なんとか適当な言葉を返し、仕事を早々に切り上げ、ほとんど定時で会社を後にしました。


まるで平気ではいられませんでした。あの人の姿を目にするだけで、言い難い恐怖に全身が苛まれました。まだ私は大丈夫などではなかった。まだ、こんなに怖い。

なぜ彼はもう少し遅く帰社してくれなかったのか。自分の不甲斐なさと、彼の無神経さに怒りと情けなさでいっぱいでした。


自宅に戻ると不安と焦りに気が遠くなりました。彼の姿を見てしまっただけで、こんな風になってしまうのでは、この先どうしたら良いのか。彼がオフィスにいる日だってあるはずです。


その夜、須藤からのメールがありました。

領収書、確かに受け取りました。同じ封筒にお金を入れて、ユリちゃんのデスクの引き出しに入れておきます。


それから、デスク近くで出くわした件についても書かれていました。


なるべく会わずにいたいと言われていたのに、早めに帰ってしまって申し訳ありませんでした。ほんの少しだけでもあなたの姿を見たいと願っていましたが、自分の我儘でした。あなたの顔を見て、自分がどれほどあなたを傷つけたのか、改めて思い知りました。もう、苦しんで欲しくありません。こんな事を言う資格もありませんが、私にできることがあれば言って下さい。


本当にごめんなさい。


このような内容だったと思います。

彼のメールを読みながら、また涙が溢れてきました。彼に謝って欲しかった自分がいたことに気付きました。私の傷を知って欲しかったことも。


彼に返信をしました。

取り乱してしまったことを詫びました。まだ気持ちのコントロールが難しいこと。あんな風になりたくはなかったが、考えていた以上に会うのは負担であったこと。


恨むつもりはないこと。なかったことにして、いずれは前のような関係に戻りたいと思っていること。今はまだ難しいので、できるだけ会社で会わずに済むようにしたいこと。


ほとんど嘘でした。本当はあの人がどこかで勝手に死んでくれたらいいのにと願っていました。ですが言葉だけでも、彼を憎んでいないように装いました。その方が、須藤は私の言うことを聞いてくれると思ったのです。


須藤からは、そのようにします、と返事がありました。朝は早めに出社し、夕方5時半から6時頃に戻るので、その間に私には帰って欲しいとのことでした。どうしても急な用件があって会社にいる可能性があることや、私が早めに帰れない日もあった場合は許してもらいたい、できるだけ努力します、とありました。


私は感謝を伝えました。


翌日会社へ行くと、昨日と同じく、須藤の席に彼の姿はありませんでした。デスクの引き出しの中に前日彼に病院代を請求した封筒が入っていました。中身も確認せず、すぐにデスクの引き出しを閉めました。


その日は仕事によく集中できて、時間はすぐに過ぎてゆきました。定時は過ぎましたが、5時半前には会社を後にしました。オフィスでは問題なく過ごせて、約束通り姿を見せなかった須藤に感謝しました。


ですがこのような状態をいつまで続けられるかは別の問題です。いずれは社内で顔を合わせる機会も来るはずです。その時、どう備えたら良いのか悩みどころでした。


家で須藤から戻された封筒の中を見ると、10万円入っていました。病院で支払った金額は2万円代でした。多めの額が入っていたのは慰謝料のつもりだったのかもしれません。


私はその封筒を目につかない場所へしまいました。彼なりの誠意だったのかもしれませんが、妙にいらいらした気持ちになりました。


この程度では許せない。こんなお金程度ではない苦しみを彼に味わわせたい。

頑なな怒りと憎しみがまだずっしりと自分の中に居座っていました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る