第12話 出社
その日は日曜日でした。
明日は会社へ行こうと思います、と彼に返信しました。
でもあなたに会うのが怖いです。会うとどうなってしまうかわかりません。
できればなるべく顔を合わさないようにしたいです。
できるだけ関わらないようにしたいことを伝えました。そして私への恋心を隠そうともしない須藤の気持ちを冷やしてやりたく、現実的なことも書きました。
あの夜の翌日、病院へ行ったこと。検査や緊急避妊ピルの処方に数万円の費用がかかったこと。警察に被害を届ければ負担せずに済んだけれど、そうしなかったこと。診察の代金を支払ってもらいたいということ。
淡々と、冷ややかな気持ちで、事務的に書いて送りました。
須藤から、承知しました、と返事が来ました。
私は早めに出社して、早めに営業先へ出かけ、遅めの夕方に帰社するので、極力顔を合わさないように努めます。
どうか会社を辞めないで下さい。話すような機会があれば、私は普通に接しますので。
手短な内容でした。彼もいくぶん熱が冷めたようでした。
私は翌日の月曜から出社しました。体調不良で3日休み、土日をはさんで5日ぶりの出社でした。家から出ることは少し勇気がいりましたが、自分を奮い立たせて玄関のドアを開けました。幸い外は晴れていました。外を歩き、現実に戻ってくると、この数日間のことは夢のように思えました。
きっと大丈夫だろう。私はもう大丈夫。須藤のせいで、世の中すべてを怖れるようになるなんて馬鹿げている。そう自分に言い聞かせて歩きました。
5日ぶりのオフィスは、私におかえりと言ってくれているようでした。
自分のデスクまで行き、恐る恐る須藤の席をうかがうと約束通り彼の姿はありませんでした。ほっとして、そのことを彼に感謝しました。
上司や同僚たちは温かい言葉をかけてくれました。すこし痩せたのでは、とか、病み上がりなのだから無理しないように、などと気遣ってくれました。
私はこの会社が好きでした。結婚生活に悩んでいた頃、無力な自分を嘆いていた頃、自分を変えたいと勇気を振り絞って踏み出した私を受け入れてくれた場所でしたから。
再び社会に出て働けたことや、仕事仲間や取引先の人など、新しい人間関係を築けたことも私に自信を取り戻させてくれました。
かつて大学を卒業後に、新卒で働き出した頃はこのような気持ちにはなれませんでした。初めての社会的なルールや常識、話し方など、わからないことばかりで戸惑い大変な思いをしました。
ですが結婚して退職し、収入をなくし、自由は限られ、狭い家の中で元夫が中心である環境にいると、少しずつ自分が卑屈に病んでいったように思います。その経験を経たうえで再び社会へ出られたことは、幸せな有難いことだと思えるようになりました。以前も事務職をしていましたが、この会社の方が風通しがよく上司や同僚にも恵まれていました。
もちろん辞めたりなんかしない。自分でお金を稼いで、自立して生きてゆこうと決めていました。
ただやはり、私は少し変わってしまいました。
須藤が私に告げた、性的な対象であるという言葉が、胸に深く突き刺さっていました。
いまとなっては、私は年齢の割に、男性に疎すぎたのだとわかりますが、以前は男性に対して警戒心などほとんどなく過ごしていたように思います。
男性から自分が性の対象として見られているということは、冷静に考えればごく当然のことですが、それを意識しないではいられなくなりました。
以前は気付かずにいられたものが、須藤との件を通して、自分はそういう目で見られていたこともあったのだと、過去にも遡ってよくわかるようになりました。
私にとって綺麗だった世界が、なにやら薄汚く濁って見えてしまうようになった気分でした。ですがそれが本物の世界ならば仕方ありません。よく見えていなかったのは私自身の目であり、須藤は私の目を開かせてくれた、よく言えば私をかつてより賢くしてくれた、旧約聖書で言うなら蛇のような存在にも思えました。
近づくのも嫌でしたが、須藤の席まで行き、病院の領収書を入れた封筒をデスクの引き出しに忍ばせました。すでに夕方近くなっていて、この日は定時で帰るつもりでした。
帰り支度をしようと自分の席に戻ろうとした時です。間の悪いことに、営業先から戻った須藤が、こちらへ向かって歩いてきました。彼の眼は私の姿をとらえました。
不意打ちで、心の準備ができていませんでした。全身の毛が逆立つような心地がして、何も言えず、逃げるように自分の席に戻りました。須藤の席から私の席は見える距離にあります。私の席からも。ですがあまりに恐ろしくて、彼のいる方向を見ることができませんでした。全身から血の気が引いて涙が出そうになるのを必死でこらえていました。
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