第25話 説得
本当にこの人の車に乗って良かったのだろうかと少し不安を感じ始めていました。私が黙りがちになっていると、須藤はもうすぐ着くから、と言いました。
やがてある駐車場へ車は入ってゆきました。広めの駐車場でした。家紋らしき模様のついたのれんが見えて、和風な建物がありました。着いた場所はやはりお寿司屋さんのようでした。少しばかり彼を疑ってしまったのを決まり悪く思いました。
「ここ、美味しいんだよね。結構有名だけど、来たことはある?」
そう尋ねられましたが、回転寿司以外のお寿司屋さんは知りませんでした。そう伝えると、須藤は笑って、それはそれで美味しいと思うけど、と答えました。
須藤の後についてのれんをくぐると、いかにも高級感のある、和風の洗練された空間がありました。このようなお店には、元夫の貴之とは来たことがなかったと思いました。元夫とは学生時代に知り合い結婚しました。互いに若い頃からの付き合いなので、主な外食先はファミレスでした。それすらだんだんと行かなくなったものでしたが。私は少し気後れしながらあたりを見回しました。
「カウンターにする?小上がりもあるけれど。」
須藤に尋ねられ、小上がりをお願いしました。カウンターでは余計に緊張してしまいそうでしたし、須藤とカウンターに並んで食事をするのは違和感を覚えそうでした。
半個室のようになっている小上がりに落ち着くと、須藤はメニューの説明をしたり、彼のおすすめのお料理を教えてくれました。私は慣れない雰囲気に戸惑ってしまい、彼に任せました。須藤は慣れた様子で注文していました。
「遠くまで連れてきてしまって悪かったね。美味しいものが良いと思って。」
注文を済ませ、お店の方が下がってゆくと須藤は私を見つめました。彼にじっと見られると、服を着ていても恥ずかしい気持ちになりました。
「ユリちゃんに知らせたいことがあって。ユリちゃんのことも聞きたいし。このところ、どういう感じ?」
須藤に尋ねられ、私は斉藤課長や他の同僚、別の部署の人達と話したことや、転職も視野に入れつつ正社員での職を探し始めていると伝えました。
「そのようだね。先日斉藤課長と話したよ。飲みに誘ったんだけどね。ユリちゃんのこと話していたよ。どうにかしてやりたいけど・・・って残念そうだった。」
「そうだったんですか。」
須藤が斉藤課長から、すでに私について聞いていたことに驚きました。
須藤はこのところ社長や役員、人事部長、統括部長など上の人達へ声をかけ、飲み会の席で女性の営業社員のポストを作りたいと話したそうです。感触は悪くなかったとの事でした。彼は社内でやりたい事がある場合、会議等の場でいきなり話すのではなく、雑談や飲み会の場でまず周囲の反応をうかがうのが常套手段のようでした。カジュアルな場の方が伝わりやすく、上手くいくことが多いとのことでした。
「斉藤課長に女性の営業社員の職ならうちの部で作れるかもしれない、と伝えておいた。でも良い顔はしなかったよ。桜井さんが営業をするとは考えにくいって。まあ予想通りの反応だったけど。あの人も内勤だからね。」
須藤はあっさりと言いましたが、私にとっても営業職とは非常にハードルが高く映っていました。当然やりたい仕事ではありませんでした。先日は須藤に対して前向きに考えてみますと伝えたものの、まだ私の気持ちは定まってはいませんでした。
「須藤部長、その件なのですが・・・」
私のために動いてくれている彼には言いにくかったのですが、やはり自分の中にある不安を口に出さずにはいられませんでした。うまくいくかはわかりませんが、他の会社へ、事務職として転職するという選択肢もないわけではありません。須藤は女性の営業職を新設しようとしていますが、そこへ私がうまく入り込めるのかどうかも、やはり疑問でした。私は車の運転すらできなかったのですから。
「ユリちゃんは、やはり事務職を希望しているんだね。」
須藤は一通り私の話を聞き終えて言いました。
「確かに女性の営業は、うちの会社では初の試みになるし、いろいろ不安もあるとは思うけど。」
須藤は強い視線で私を見据えました。
「初めは事務と並行で仕事を覚えてもらうから、営業にはゆるやかに移行していくつもりだよ。最初から無理な数字を持たせたりはしない。」
「そうかもしれませんが・・・やっぱり、怖いと感じてしまいます。」
須藤は黙って私を見つめました。少し居心地の悪い気がしました。
「ユリちゃん、このところ転職も考えていたようだが、行きたい会社や良い求人のあてがあったのかい?」
そう尋ねられると、その時点で惹かれる会社や職種はありませんでした。事務の正職員の求人数自体がきわめて少ない状況でした。
「うちの会社で正社員になれば、給与水準や待遇は悪くないはずだよ。営業職なら手当もつくから、今より確実に給料は上がる。社員なら家賃補助もあるし。」
もちろんそういった点は魅力でした。私も給料に関してだけではなく、全体としての社風や、人の雰囲気の良いところが好きでした。
「ユリちゃん、もっと俺のことを頼りにしてくれないか。うちの部にくれば、いろいろ教えられる。俺の取引先を紹介するから、ユリちゃんの売上にすることもできる。今まで部署は違ったけれど、ユリちゃんの人柄や仕事ぶりを信頼している。決して悪いようにはしないから。」
私は須藤を見返しました。彼の気持ちは有難くもあり、悩ましくもありました。正社員になりたい気持ちは強いのですが、それが営業職で、須藤の部下になってしまうとしたら。難しい選択でした。
「ユリちゃん。女性の営業職はもともと外部から募集する方向だったけれど。」
須藤は再び話し始めました。
「このところユリちゃんの話を聞いていたから、外部で募集する前に、まずは契約社員さん達へ打診してみるのはどうかと提案しようと思っている。」
須藤は私を見つめました。
「仮に何人かの契約社員さんが手を挙げても、俺はユリちゃんを選ぶつもりだから。」
彼に見つめられ、少々息苦しさを感じるほどでした。いつの間にか、だんだんと逃げ場を失っているような感覚でした。
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