第63話 始まり

高層階からの景色もお料理も、魅惑的な夜でした。食事が後半にさしかかると、なぜだかお互い少しずつ言葉少なくなっていたのは気のせいだったでしょうか。


食事を終えて店を出ると、私達はエレベーターの前に来ました。妙な緊張を覚えていました。先ほど買い物して預けた荷物を再び手に提げていました。


「ちょっと、荷物が多くなってしまったね。タクシーで帰ろう。送っていくよ。」

私がいくつもの紙袋を持っているのを見て、須藤は苦笑しました。


「大丈夫です。電車もある時間ですし、ひとりで帰れますから。」

そう返事をしましたが、須藤は私の手元へ彼の手を伸ばしました。


「持つよ。けっこう重いはずだよ。」


須藤の手が、紙袋を持つ私の手を握りました。どきりとしました。そのまま彼に紙袋を渡せば良かったのかもしれませんが、何故かどうして良いのかわからず私は固まってしまいました。内側で激しく緊張が高まっているのを自覚しました。そのことが彼に伝わっていたのかはわかりませんが、彼はしっかりと私の手を握ったままでした。


やがてエレベーターの扉が開きました。誰もいないその場所へ乗り込むのを一瞬、躊躇ちゅうちょしましたが、須藤に促され私達は中に入りました。


この時妙な息苦しさを覚えたのは気のせいではありませんでした。

扉が閉まると、須藤は私の手を引き彼の腕の中へ抱き寄せられました。手がふさがっていたためか、私はたやすく彼の至近距離の中へ入れられてしまいました。


彼は左手で私の背中を抱き寄せ、右手で私の顔を引き寄せました。キスされる、とわかっていました。彼は目でその意思を告げました。予告を受けたのを承知していましたが、抵抗はしませんでした。拒否もせず、顔をそらすこともしなかった私は彼を受け入れたも同然でした。


彼の唇が近づき、私の唇に触れました。私は目を閉じました。最初は穏やかに、次第にむさぼるように彼の舌が動きました。手の中から紙袋を取り落としてしまっても須藤は意に介しませんでした。ゆっくりと確かめるように互いの舌が絡み合い、やがて激しく求められました。


長いような短いような時間の後、再びエレベーターの扉が開きました。落とした紙袋を急いで拾い集めなくてはなりませんでした。1階でエレベーターを待っていた客はなく、他人にその滑稽な姿を晒さずに済んだのは幸いでした。


「部屋を取るから。」

須藤はそう告げました。


「すぐ戻るから、ここで待っていて。」

私は彼を見返しただけで、なんの言葉も返せませんでした。須藤は足早にフロントへ向かって行ってしまいました。


まだ手遅れではありませんでした。急いでその場から立ち去ることも可能だったはずでした。フロントで手続きする彼を置き去りに走り去ることもできたはずです。でもそうしませんでした。次に起こることを重々承知しながら、少しも動くことができませんでした。


少しばかり言い訳するならば、須藤は初めから私を部屋に連れ込む気はなかっただろうという事です。あらかじめ部屋を予約していたわけではないことが、私の気持ちを救っていました。彼は私の意思を確認してくれました。その違いは私にとっては大きなことでした。


須藤がエレベーターのそばまで戻ると上に行くボタンを押しました。


「31階だよ。眺めは悪くなさそうだ。」

須藤は私の手を引き、再びエレベーターへ乗り込みました。彼を見ることができませんでした。須藤はしっかりと私の手を握りしめていました。


再び扉が開かれるまで、気の遠くなる思いがしました。

31階に到着すると、壁の窓から夜景が見えました。須藤は部屋番号と壁の番号案内を照らし合わせ、予約した部屋へ向かって歩き出しました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る