第55話 試験当日
翌日、なんとなく早めに出社しました。須藤の贈ってくれたネックレスを身に着けていました。イヤリングもしたかったのですが、部署が変わってからの方が良いような気がしました。
更衣室で制服に着替え、自分のデスクまで行きました。
先に出社していた斉藤課長に挨拶をしました。
「おはよう、桜井さん。今日はちょっと早めだね。試験、緊張しているのかい?」
斉藤課長はいつものように優しく声をかけてくれました。これまで彼のもとで快く仕事をさせてもらえたことを思うと、少し感傷的な気持ちになりました。
「はい・・・試験もそうですが、仮に受かっても営業のお仕事なんて、本当はまるで自信がないんです。今の部署の方達も、仕事も好きなので、複雑です・・・でも社員になれるチャンスは滅多にありませんから、結果はともかく、チャレンジするだけしてみようかと。もしだめだったら、引き続きお世話になると思いますが。」
重くならないよう、最後は明るい調子で言いました。斉藤課長は少し考える風な顔になり、やがて口を開きました。
「桜井さんね・・・本当はまだ言ってはいけないんだけど、すぐわかることだから。ここだけの話ね。例の試験を受けるのは桜井さんだけらしいよ。だから受かるはずだよ。先日須藤部長に言われたから。引継ぎしやすいようよろしくってね。」
私は少し驚いて斉藤課長を見ました。須藤から聞いていた話と一致していましたが、それを斉藤課長があらかじめ教えてくれたことにもびっくりしました。
「だから試験は、安心して受けたらいいよ。他の人がいても、桜井さんなら絶対受かってたと思うけど。でもね・・・」
斉藤課長は何か言いたげに言葉を切りました。私は彼を見つめて次の言葉を待ちました。
「俺、前に須藤部長に桜井さんのこと話したことがあってね。桜井さんから社員になるにはどうしたら良いのかと前に聞かれたときね、俺は力になれなかったのが残念で。須藤部長にどうかして欲しいと言ったわけではないんだけど。」
斉藤課長は複雑そうな、いくぶん後悔しているかのような口ぶりでした。
「そうだったんですね。斉藤課長は私のことを須藤部長にもお話していて下さったんですね。いろいろご心配おかけしてすみませんでした。」
以前、須藤からも聞いたことのあった話でした。斉藤課長が私のことを気にかけてくれたと知ってありがたく思ったものでした。
「それから間もなく、女性の営業社員募集の話が持ち上がったらしくてね。普通は外部から募集しそうなものなのに、まず社内の契約社員さんへ案内するという流れになってね。」
「案内をいただいた時、そのようにおっしゃっていましたね。」
私は相槌をうちました。
「でも、営業というのがね・・・桜井さんが本当に受けることになるとは・・・桜井さんが社員になれるなら俺も本当に嬉しいんだけど、もしあちらの部署に行って、いろんな苦労をするかもしれないと思うと、これで良かったのかって心配なんだよね・・・」
複雑そうな面持ちで斉藤課長は言葉を切りました。
「いつも気にかけて下さって、本当にありがとうございます。」
斉藤課長へ頭を下げながら伝えました。
「実際、試験を受けたものか悩みました・・・怖い気持ちはすごくあります。営業なんて、何をどうしたら良いのかさっぱりわからないので・・・でも、社員になれるのでしたら頑張ってみようと思います。契約のままでは、いつ切られるかわかりませんし、将来的に心配なので、転職活動をしなければと思っていたんです。」
そう伝えると、斉藤課長は少し驚いた顔で私を見なおしました。何か言いたげな表情でした。
「でもまず、営業をしてみてダメだったら就職活動すればいいって友達にアドバイスをもらって。私も単純なので、それもそうかと思って。」
笑って伝えると、斉藤課長は安堵したような顔になりました。
「そうか。最初からやり直すよりもまずはチャレンジしてみて・・・ってことだね。桜井さんは本当に勇気があると思うよ。」
斉藤課長は静かな口調で、温かい眼差しを向けてくれました。
「もしあちらの部署に行って、困ったことがあったら聞くからね。というかまだ、試験前か。まあ、きっと受かるだろうから・・・何かあったら相談して。」
「いつもありがとうございます。きっと、そうさせていただきますね。」
私はもう一度斉藤課長へ頭を下げました。元夫の貴之から離れるために再就職をして、私を受け入れてくれた会社。そして、今の部署で、斉藤課長のもとで仕事ができたことを本当に感謝していました。業務的にも、人間関係にも恵まれたことを実感していました。この環境で正社員になれたらと、いつしか願うようになっていました。
営業職になるのは怖いけれど、正社員にさえなれば、部署や業務が変わるチャンスにも恵まれるかもしれない。男性も女性も、社員の方達は部署移動や転勤もありました。当面は須藤のところでお世話になるとしても、その後はわからないことでした。
まずは正社員になること。それが新たな第一歩でした。この組織の中で様々な経験を重ねるのは悪くないことだと考えていました。
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