第52話 結婚時代
翌日、月曜日の朝、私は鏡の前で躊躇していました。
須藤から贈られたアクセサリーを着けたものかどうか、考えあぐねていたのです。須藤から会社へつけてきて欲しいと言われ、了承したわけですが、いざとなると勇気が必要でした。
恋人でもない人から贈られたアクセサリーを身に着けるのは、まるで付き合っていることを認めたようなものではないかと考えたり、そもそも職場へアクセサリーをつけていくのも慣れないことでした。小さめのピアスをしている方もいましたが、須藤のプレゼントのイヤリングは目立ちすぎてしまうような気がしました。
苦肉の策として、ネックレスだけは着けることにしました。制服のシャツのボタンを上まで留めればそれほど目立たないだろうと思いました。須藤をがっかりさせるかも知れないと思いつつ、約束は果たせるはずでした。朝から変に神経を使ってしまいました。
会社へ着くと須藤の姿はなく、営業先へ直行していたようでした。いく分拍子抜けしましたが、安堵した気持ちもありました。前日にメールのやりとりはしたものの、彼から告白めいた言葉を受け、気まずい思いが消えたわけではありませんでした。
須藤が社内にいないことは気持ちが楽でした。頻繁ではありませんが、社内で時おり視線を感じることがありました。ある程度は慣れましたが、全力で気付かぬふりをしていました。
この週は営業社員登用のための試験が迫っていました。須藤は私以外に応募がなかったと言いましたが、実際のところはわかりませんでした。嘘ではないだろうと思いつつも、試験の当日まではわからないと思いました。
仮に彼の言う事が本当ならば、私は確実に彼の部署の営業職になるのだと想像しました。覚悟のいることでしたが、まずはなんとしてでも正社員になろうと心を決めていました。
どうしても、正社員になりたい。
いつからかその気持ちが強くなっていました。この会社へ入社したのは、もとはと言えば元夫の貴之と距離を置くためでした。
結婚する時、貴之は私が仕事を辞めることを強く望みました。前の会社に勤めていた頃、貴之は私が職場の男性と仲良くなったり、心変わりをしかねないと怖れていました。実際は彼の心配するような状況などなかったのですが、職場の仲間に誘われて出かけることや、忘年会等の飲み会に参加するのも嫌がるほどでした。
当時の彼の嫉妬や束縛は苦になりませんでした。私は貴之だけを愛していました。大学生になるまで異性と付き合ったこともなく、初めて交際した貴之だけが私にとっての男性でした。交際したごく初期の頃から、私は彼と結婚するのだと思いました。私には恋愛と結婚はイコールでした。今となっては幼すぎましたが、貴之からプロポーズを受けた時は幸せでした。
貴之の希望に従い、躊躇なく職場を去りました。いわゆる寿退社でした。なんと安易で浅はかだったと思います。せっかく社員として入社できた職場を、わずか二年と数か月で退職したことは地方から大学まで出してくれた親にも申し訳なかったと痛いほど後悔しました。その結婚生活もわずか数年で破綻させてしまったことは大きな挫折でした。
貴之との結婚生活は交際時代と比べると、どこか歯車が狂ったように
私自身も、自分の収入のないことがひどく不自由に思えました。家事は真面目にこなしていたつもりですが、貴之は満足していませんでした。料理や掃除、その他のあらゆる家事や雑用に時間と労力を費やしても、働きもせずに楽な生活をしていると見なされていた気がしました。
お金のことも非常に窮屈でした。彼の収入から私の趣味や付き合いに費用をかけるのは良い顔をされませんでした。ある程度許されるのは食料や日用品を買う時のみで、渡される生活費はごく限られたものでした。
お金に関するばかりではなかったのですが、口論になると貴之は容赦なく私を痛めつけました。誰のおかげで生活できているのか、嫌なら出て行けと怒鳴られたことは何度もありました。私は傷つき、それでも彼を求めました。私が惨めに泣きはらし許しを請うと、態度は軟化されました。
貴之から離れた今となっては、当時の自分が愚かすぎて腹立たしいのですが、私は彼だけを愛していました。いくら傷つけられても、いつも彼を求めていました。ですが彼が職場の女性と関係していることを知った時、私の心は弾けました。
再就職へ向けて動き始めたのはその頃です。もともとお金のことで文句を言われることが多かったので、家にお金を入れるためだと元夫に伝えました。彼は不倫をしていたわけですし、結婚前のような執着は見せず、私が社会復帰することに大きな反対もしませんでした。
とにかく早く収入を確保し、貴之と別れるために私の行動は早かったと思います。ですが当時は正社員として職を見つけようという心意気はありませんでした。ひとりで生活してゆけるだけの収入を得られるならばと今の会社の契約社員の職へ飛びつくように応募しました。後になって考えてみれば焦りすぎていたのかもしれませんが、少しでも早く貴之から離れようという思いでいっぱいでした。
結婚に失敗し、男性に対する不信が強く心に刻みつけられました。仕事と収入だけは何があろうと安易に手放すべきではないと身をもって実感しました。不安定な立場ではない、正職員のポジションは願ってもない機会でした。迷いもしましたが、この期に及んでは必ず手に入れようと心に決めていました。
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