第36話 催告

「ユリちゃん、だいぶ上達したね。大抵の場合は自分で判断できるようになったし、もう一人でも運転できそうなぐらいだよ。」


ある週末、助手席にいた須藤が言いました。


「いえ、それはまだ怖いです。駐車もまだ苦手ですし・・・二車線、三車線の広い道路も苦手です。」


ですが確かにその頃は、閑散とした場所のみではない普通の道路を走れるようになっていました。前後左右に他の車も走っていました。


「だけどもうすぐだよ。よく頑張ったね。それから、例の件もそろそろだよ。大体まとまりかけている。」


「例の件、ですか・・・?」

よくわからずにいると、須藤ははっきり言いました。


「女性営業社員の正規採用の件。上の了承も取れたから、近々斉藤課長からユリちゃんや他の契約社員の方達へ案内されるだろう。まずは社内で募集をかけ、希望者がいなければ外部から募集するという手はずになっている。何人受けようが、俺はユリちゃんを選ぶから、必ず応募して欲しい。」


うかつなことに、私は忘れかけていました。ここしばらくの間、運転できるようになるのが目的になっていて、正職員になるという重要な目的を忘れつつありました。その点について、そこまで本気で須藤へ期待せずにいたのかもしれません。


急に言われて少し動揺していました。運転に集中しなければと思いました。


「ユリちゃん、その話もしたいし、そろそろお昼にしようか。ちょうど近くに美味しい店があるから行こう。案内する通りに走ってくれればいいから。」


私はまだ心落ち着かないままでしたが、須藤がナビをする通りに車を走らせました。


「駐車も上手くなったよ。後ろから入れるのも慣れてきたし。」


着いたのはコンクリート造りで洗練された外観の和食店でした。見るからに高級な雰囲気で、味にもこだわる須藤の好みそうなお店でした。


「ここの駐車場、広めでしたから・・・隣に車がないので、挑戦してみました。まぐれですけど。」


「ユリちゃんは覚えが良いから教えがいがある。うちの部に来ても頼りになりそうだ。」


私を褒めようとしていたのでしょうが、心もとない気持ちになりながらお店へ入りました。


須藤といることで、上品で大人びた雰囲気の店にも慣れつつありました。でもやはり私のような者が気軽に入れる店ではないのはよくわかっていました。個室に通され、須藤のすすめる料理をいくつかお願いしました。


「ユリちゃんと来るのは初めてだよね。こちら方面では美味しくてかなり気に入ってるから、ユリちゃんを連れてきたいと思っていたよ。」


須藤は楽しそうに言いましたが、私は営業職の件が本格的に進んでいたことで心もそぞろになっていました。


「ユリちゃん、緊張している?まだはっきりしていなかったから言わずにいたけど、女性の営業社員についての話は俺なりに進めていたからね。もうすぐだよ。」


須藤は私を真っ直ぐに見つめて告げました。彼が私のために用意したポストでしたが、私は心もとない気持ちでした。


「ユリちゃん、あまり嬉しそうには見えないね。まだ営業が怖いのかい?ユリちゃんのそういう顔、久しぶりでなんだか懐かしい気もするけど・・・」


すぐに言葉が出ませんでした。運転の練習を続けてきたのも、もとはと言えば、運転もできずに営業社員になれるわけがないと私が言ったからでした。営業職が怖い気持ちはもちろん残っていましたが、ここまでしてもらって、もはや辞退できるものではありませんでした。


「俺のところに来るのが怖い?ユリちゃんの望んでいた正社員になれるんだよ。」

須藤は穏やかに尋ねました。私の表情を探っているようでした。


「いいえ・・・そうではありませんが・・・少し、びっくりして。」

なんとか言葉を返しましたが、怖いというのが本音でした。


「ごまかさなくてもいいよ。まだ、心の準備ができていなかったようだね。でも俺はここまで準備をすすめて来た。正社員になりたいと言ったユリちゃんの願いを叶えたかった。俺のところで、今よりもっと良い環境の中でユリちゃんに働いて欲しい。」


彼の気持ちはよくわかっていましたが、かと言って簡単に受け入れられる自信もありませんでした。


「正直に言えば、ユリちゃんのためだけじゃないけれど。俺もユリちゃんと仕事がしたい。もっとユリちゃんの近くにいたい。」


須藤は熱っぽく語りかけてきました。ある種の圧力に覆いこまれてしまいそうでした。私は努めて平静を保とうとしながら、彼を見返しました。須藤はふと笑顔になり、私を眺めました。


「ユリちゃん、前から美人だったけど、最近はもっと綺麗になった。笑顔が多くなったし、会社に入った頃よりずっと明るくなったよ。最近のユリちゃんは輝いている。」


須藤は照れもせずに言い放ちました。


「運転もできるようになった。自分はやれると自信がついたはずだよ。仕事も俺がちゃんと教えるから、何も怖がらなくていい。」


そのように言われても、私は臆していました。彼はいま、私自身を収穫しようとしているのだと思わずにはいられませんでした。


「そろそろ良い頃合いだと思う。営業職に応募してくれるね。」


須藤は決めつけるように言いました。さすがにもう、逃げるわけにはいかない気がしました。彼は忍耐強く、ここまで付き合ってくれたのですから。


こうなることは、お互い暗黙の了解だったかもしれません。それをいつまで引き延ばせられるのか。避けられないことから、いつまで逃げ続けられるのか。


「俺ならユリちゃんをもっと輝かせられる。

今よりもっと、俺はユリちゃんを輝かせたいんだよ。」


いつしか私は、須藤の巧みな罠に絡め取られていたのでしょうか。私を輝かせたいという彼の言葉は思いがけず、私の中に響きました。


それも悪くないかも知れない。七光りであっても。私はもっと輝きたい。


須藤がエネルギーを費やして私を輝かせたのなら、これからはさらに輝けるだろうか。これまでとは別の自分になれるのだろうか。そんな思いがよぎりました。


「これまでいろいろと、ご尽力下さりありがとうございました。営業社員の件、応募させていただきます。よろしくお願いいたします。」


私はとうとう心を決めました。遅かれ早かれ、もはやここまで来てしまったのですから。

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