六.ノブレス・オブリージュ

 湖北の冬は、故郷の華北と違って、ずいぶんと暖かい。どうそうは首筋の汗を拭った。

 夜明けから間もない早朝のことだ。

 道僧は愛馬の歩みに身を委ねて、ばんざんの坂道を登ってきた。切り立った崖の下に漢江の流れを望むまで、四半時ほどの騎行に過ぎなかったが、毛皮の外套を着込んだ体は火照り、汗をかいている。

 金の首都、ちゅうが建つ華北平原は、ここよりもずっと乾いて冷たい。冬十一月ともなれば、強風が吹くたびに耳が千切れるのではないかというほどに寒いから、ふさふさと毛皮をあしらった帽子は、儀礼のためだけでなく実用上も必要不可欠だ。

 道僧は外套を脱ぎ、鞍前に置いた。ついでに、愛馬の汗ばんだ首筋を優しく叩いてやる。愛馬は甘えるように鼻を鳴らした。

 息を深く吸って、しっとりと清涼な朝の風を胸につかまえる。吐き出す息は一瞬だけ白くこごり、すぐに見えなくなった。

「この場所は美しい。はくもうこうねん、唐の詩人がこぞって誉めたのもよくわかる。宋の詩人では、我らが金国のことが大嫌いなりくゆうも、漢江の美しさを詩に詠んでいる。漢族の彼らが愛でる景色を、異民族たる私も全く同じように美しいと感じるのだ。面白いことだな」

 道僧は独りちた。

 眼下を流れる漢江の水は澄み、起き抜けの朝日に照らされて輝いている。山は常緑。どこからか鳥の羽ばたきと鳴き声が聞こえてくる。

 下流を望めば、いくつかの中洲の向こう側に、南岸の襄陽と北岸のはんじょうが静かに向かい合っている。

 漢族の建てるまちは四角い。それが背の高い城壁にぴしりと囲まれているさまは整然として、いかにも取っ付きがたい。

 何千年も昔に初めてあのようなまちを建てようと思い付いた誰かは一体どんな思考の持ち主だったのだろうか、と道僧は思う。

 まちの造りに限らない。文字だとか学問体系だとか歴史書だとか、もっと砕けたところで言えば、何百種類もの調理法をそろえた料理だとか、漢族が持つ文化や習俗は何もかもが膨大で圧倒的だ。学んでも学んでも、全く以て追い付かない。

 道僧は、女真族でも十指に入る名家、のうごう家のちゃくだ。年は十八。

 久方ぶりの、ただ一人での騎行だった。従軍してからというもの、父であり上司でもあるに付いて回らねばならず、そうでないときも副官や従者が常にそばにいる。息苦しくてかなわない。

「やはり私には、栄えある納合家の次期当主など似合わぬのだ」

 声に出して吐き捨てる。朝の風に揺らされた木の葉ばかりが、さやさやと応える。

 道僧はぼうこく、つまり漢語では百騎長と意訳される女真族特有の役職に就いている。謀克は、平時には三百戸の家を治め、戦が起これば、麾下三百のうち百戸から一人ずつ戦士を選抜して己の軍とする。それが原義だ。

 謀克の治める家が三百戸、率いる兵が百騎であったのは、約百年前の金創立の時代にまでさかのぼる。今では、そうした数字は目安にもならない。

 ただし、謀克は世襲制だから、若くしてその役職に就くとあらば、女真族の高貴な血筋であることが一目瞭然だ。謀克に十倍する兵力を持つと定められた千騎長、女真語でいうもうあんもまた、家柄を示す指標となっている。

 道僧の父である吾也は、猛安に十倍する権勢をつかねるばんの地位にある。また、漢族風の制度を採る朝廷ではていてんけいごくの官を兼任する。小さな不正をも見逃さない厳格な法の番人と呼ばれ、検挙者の絶望する顔を何よりの好物とする人でなしとも噂される。

 納合家の領地には漢族が多く居住している。吾也は彼らにべんぱつを結わせ、服属者であるとして、帽子の着用を認めない。女真族よりはるかに高い税率に文句を言う漢族は、祖父から父へ代替わりして以来いなくなった。皆、吾也が怖いのだ。税の上がりはすこぶるよい。

 今、納合家の率いる兵力は二万。大半は漢族の歩兵だ。その全てを吾也が掌握している。道僧には一兵も与えられていない。道僧の副官や従者でさえ、吾也の命令しか聞かない。道僧の異母兄弟たちも同様か、あるいは、無能の烙印を押されれば一般の兵卒へ降格される。

 道僧の父、納合吾也とはそんな男だ。道僧は十八にもなって、父に手足を封じられ、行軍中には己の愛馬の手綱を取ることさえできない。

 こうなるだろうと予想できていた。だから、従軍などしたくなかった。

道僧ぼうずなどという辛気臭い漢字を当てた名を付けるのではなかった、か。私の方こそ、好んで納合吾也のもとに生まれたわけでも、道僧の名を選んだわけでもない。父という立場を振りかざす暴君め。それで漢族文化を体現しているなどと気取るな」

 女真族は古来、自然の中で狩猟と採取をおこなって生きてきた民だ。狩猟と戦は男の仕事だが、手に入れた獲物や戦利品を管理し、家を維持するのは女の仕事だった。子に対する母の影響力、ひいては、社会に対する女の存在意義は大きかった。

 ひるがえっては、漢族が尊しとする儒学である。男は女より偉い、父は子より偉い、年長者は年少者より偉いのだと説かれる。これを信奉することが最近、女真族の名家の間で流行っている。

 どんな思想への信奉も勝手にすればよい、と道僧は思う。ただし、己の信奉を他人に押し付けないのならば。

 道僧は左の肩に触れた。服の内側、えりを留めるぼたんのちょうど下のあたりに、吾也に打たれたあざがある。打たれたのは三日前。腫れと痛みは引いたが、吾也への怒りと不信は消えることもなく道僧の胸に渦巻いている。

 父に盾突くな! 何様のつもりか!

 まず背中を蹴られ、地面に転がされた。素早く向き直りながら身構えようとした途端、穂先を布で包んだ槍で、したたかに肩を打ち据えられた。

 吾也に背を向けたのは、捕虜の傷を診るためだった。そうようを攻め落とした際に捕らえた兵を三十人ばかり、納合家が管理している。

 捕虜のうちに二人、それなりの地位に就く者がいた。道僧が知らせを受けてさいに駆け付けたとき、吾也はちょうど捕虜への拷問を中断させたところだった。両手の爪を剥がれた捕虜が泡を吹いて気絶したためだ。

 拷問など御止めください。ようなことを為せば、宋国人はまた、我々女真族のことを未開な蛮族とおとしめましょう。

 口答えを重ねた道僧に、吾也は再び槍を振り下ろした。一打目と同じ箇所だった。

 身じろぎ一つでもすればせっかんが激しくなることを、道僧は経験的に知っている。吾也の左右の者が時を見計らって止めに入るまで、道僧は黙って耐えた。

 ふと、人馬が近付いてくる気配がある。馬蹄の響きは二つ。女真族の騎行に特有の軽やかな足取りだ。

 道僧は振り返って待った。果たして、思い描いた通りの相手が木立の陰から姿を見せた。

「ああ、ここにいたのね」

しん

「探したわ。わたしにまで黙って寨を抜け出すこともないでしょう?」

 多保真は鈴を転がすような声で抗議した。ただ、本当に怒っているわけではないらしく、白く美しい顔には笑みがある。

 道僧は、多保真につられて頬を緩めた。さつ家の姫武人と名高い多保真は、道僧の許嫁いいなずけである。

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