六.ノブレス・オブリージュ
湖北の冬は、故郷の華北と違って、ずいぶんと暖かい。
夜明けから間もない早朝のことだ。
道僧は愛馬の歩みに身を委ねて、
金の首都、
道僧は外套を脱ぎ、鞍前に置いた。ついでに、愛馬の汗ばんだ首筋を優しく叩いてやる。愛馬は甘えるように鼻を鳴らした。
息を深く吸って、しっとりと清涼な朝の風を胸につかまえる。吐き出す息は一瞬だけ白くこごり、すぐに見えなくなった。
「この場所は美しい。
道僧は独り
眼下を流れる漢江の水は澄み、起き抜けの朝日に照らされて輝いている。山は常緑。どこからか鳥の羽ばたきと鳴き声が聞こえてくる。
下流を望めば、いくつかの中洲の向こう側に、南岸の襄陽と北岸の
漢族の建てるまちは四角い。それが背の高い城壁にぴしりと囲まれているさまは整然として、いかにも取っ付きがたい。
何千年も昔に初めてあのようなまちを建てようと思い付いた誰かは一体どんな思考の持ち主だったのだろうか、と道僧は思う。
まちの造りに限らない。文字だとか学問体系だとか歴史書だとか、もっと砕けたところで言えば、何百種類もの調理法をそろえた料理だとか、漢族が持つ文化や習俗は何もかもが膨大で圧倒的だ。学んでも学んでも、全く以て追い付かない。
道僧は、女真族でも十指に入る名家、
久方ぶりの、ただ一人での騎行だった。従軍してからというもの、父であり上司でもある
「やはり私には、栄えある納合家の次期当主など似合わぬのだ」
声に出して吐き捨てる。朝の風に揺らされた木の葉ばかりが、さやさやと応える。
道僧は
謀克の治める家が三百戸、率いる兵が百騎であったのは、約百年前の金創立の時代にまで
ただし、謀克は世襲制だから、若くしてその役職に就くとあらば、女真族の高貴な血筋であることが一目瞭然だ。謀克に十倍する兵力を持つと定められた千騎長、女真語でいう
道僧の父である吾也は、猛安に十倍する権勢を
納合家の領地には漢族が多く居住している。吾也は彼らに
今、納合家の率いる兵力は二万。大半は漢族の歩兵だ。その全てを吾也が掌握している。道僧には一兵も与えられていない。道僧の副官や従者でさえ、吾也の命令しか聞かない。道僧の異母兄弟たちも同様か、あるいは、無能の烙印を押されれば一般の兵卒へ降格される。
道僧の父、納合吾也とはそんな男だ。道僧は十八にもなって、父に手足を封じられ、行軍中には己の愛馬の手綱を取ることさえできない。
こうなるだろうと予想できていた。だから、従軍などしたくなかった。
「
女真族は古来、自然の中で狩猟と採取をおこなって生きてきた民だ。狩猟と戦は男の仕事だが、手に入れた獲物や戦利品を管理し、家を維持するのは女の仕事だった。子に対する母の影響力、ひいては、社会に対する女の存在意義は大きかった。
ひるがえっては、漢族が尊しとする儒学である。男は女より偉い、父は子より偉い、年長者は年少者より偉いのだと説かれる。これを信奉することが最近、女真族の名家の間で流行っている。
どんな思想への信奉も勝手にすればよい、と道僧は思う。ただし、己の信奉を他人に押し付けないのならば。
道僧は左の肩に触れた。服の内側、
父に盾突くな! 何様のつもりか!
まず背中を蹴られ、地面に転がされた。素早く向き直りながら身構えようとした途端、穂先を布で包んだ槍で、したたかに肩を打ち据えられた。
吾也に背を向けたのは、捕虜の傷を診るためだった。
捕虜のうちに二人、それなりの地位に就く者がいた。道僧が知らせを受けて
拷問など御止めください。
口答えを重ねた道僧に、吾也は再び槍を振り下ろした。一打目と同じ箇所だった。
身じろぎ一つでもすれば
ふと、人馬が近付いてくる気配がある。馬蹄の響きは二つ。女真族の騎行に特有の軽やかな足取りだ。
道僧は振り返って待った。果たして、思い描いた通りの相手が木立の陰から姿を見せた。
「ああ、ここにいたのね」
「
「探したわ。わたしにまで黙って寨を抜け出すこともないでしょう?」
多保真は鈴を転がすような声で抗議した。ただ、本当に怒っているわけではないらしく、白く美しい顔には笑みがある。
道僧は、多保真につられて頬を緩めた。
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