二.投石機を焼き払え

 束ねた干し草を背負い、持ち回りのしやすい短い武器を携え、城壁北門から出て二手に分かれ、ひそかに軽舟を漕いで濠を進む。兵の数、およそ一千。

 一月三日、夜。春正月とはいえ、日が落ちるのは相変わらず早い。しかも今日は西の空に雲が立ち込めていたから、地上が夜に包まれるのが一際早かった。

 趙萬年は敢勇軍に交じって、奇襲の船に乗っている。時折、頭上を金軍の砲弾が飛んでいく。日没後にも金軍の前衛は撤退せず飽きもせずに、断続的な砲撃をおこなっているのだ。

 奇襲の標的は投石機だ。背負った草を火付けに使い、れんもろとも投石機を燃やす。

 一千人の兵士に草を振り分けながら趙淳が盛大に溜息をついたのを思い出し、趙萬年は下を向いてこっそりと笑った。趙淳の悩みは深刻なのだが、一軍のしょうすいが口にするにはいささか行儀が悪く、兵士たちの苦笑や失笑を誘ったのだ。

「まずいなあ、草が足りねえ。馬に食わせるぶんも料理するときに使うぶんもひっくるめて、とにかく草が足りてねえってのに、こうしてクソ金軍にくれてやらなけりゃならねえのは、本当に苦しい。くれてやったぶんは連中のさいからかっぱらってこねえと」

 旅翠が、いたずら小僧をたしなめるような呆れ顔で笑って提案した。

「草なら生えてますよ。タコ金軍を追い払ってからでないと、手が出せませんけれど」

「城内に草が? どこに? 俺は知らんぞ」

「細かく言えば、城内じゃあないですね。城壁の外側でようしょうの内側、あの場所は草だらけですよ。そこに馬を放つんです。しばらくは飢えさせずに済むでしょう」

 虚を突かれた表情の趙淳に、旅翠は、今度は自分がいたずらを成功させた子供のような顔で笑った。

 そう、襄陽にはまだ笑顔がある。人々は知恵と機転を持っていて、それを発揮できる場が損なわれずに保たれている。決して追い詰められてはいない。

 奇襲部隊は東と南に分かれ、声を上げず音を潜めて濠を渡り切り、ひたひたと金軍の前衛に迫った。金軍は、襲撃されるその瞬間まで、奇襲に気付かなかった。

 最初に、火の番をする兵士を打ち倒した。灯火を奪うと、皮簾の内側に飛び込んで、投石機や洞子に火を放つ。

 旅翠が低く鋭く指示を飛ばした。

「効率よく燃やすんだ! かまどの火と同じだよ。大きな薪は最後に燃える。まずは干し草、それから縄や枝が燃えて、ようやく薪に火が移る。火の回る順番を考えて、うまくやりな!」

 三台、四台と投石機の火付けに成功していくうち、金軍も異変を察知し始める。炎が大型の投石機を、さらに巨大な洞子を丸ごと包むようになると、金軍の間に動揺と混乱が広がった。

 とはいえ、初めは失火と思われたようだ。

「土を掛けて火を消せ! 皆、消火活動を手伝え!」

 指示を飛ばす上官らしき者の声が聞こえた。金軍兵士がわらわらと、燃え上がる投石機のほうへ集まっていく。その隙に奇襲部隊は次の標的へと移動する。

 なるほど、とせいちゅうはほくそ笑んだ。奇襲に気付いて仲間を呼ぼうとした金軍兵士を素早く斬り殺すと、部下と共に周辺一帯に火を放ち、北方の訛りを真似しながら叫ぶ。

「こちらも失火だ! 助けてくれ、早く消火しないと類焼してしまう!」

 金軍兵士が集まってくる。路世忠たちはすかさず、手薄になったところへ走り、また火を放つ。

 奇襲の標的はいくらでもあった。襄陽軍は職人じみた正確さで破壊を為していく。

 連続して上がる炎に、ついに金軍も真相を悟り出した。

「まさか今夜も出たのか? これこそがあの襄陽の奇襲なのか?」

 ごとに寨をおびやかす神出鬼没の襲撃の噂は、金軍の隅々までも届いていた。相次ぐ火災で動揺しているところへ、容赦がなく残忍だと悪名高い襄陽軍の影が目の前で見え隠れする。動揺は今まさに恐怖へと変貌しようとしていた。

 趙萬年はその空気を感じ取った。

「こいつら、まともに応戦する気がないんじゃねえか?」

 人間の集団ははとの群れと似ている。一羽をあおって飛び立たせると、残りも一斉に飛び立つのだ。

 今、金軍を煽るべきだろうか。わずかの間だけ考え、趙萬年は答えを出した。大きく息を吸い込み、偽りの悲鳴を上げた。

「襄陽軍の奇襲だ! 殺されちまう、逃げろーっ!」

 効果は絶大だった。動揺が上り詰めて恐怖に変わり、恐怖はたちまち弾けて恐慌が起こる。

 投石機の防衛も消火活動も放り出して、金軍が逃げ散り始めた。制止する声もあるが、ひとたび巻き起こった騒ぎの前では無力なものだ。夜の闇と炎の赤が人の恐怖心を掻き立てる。混乱はなおさら加速する。

 はい顕が、敵から奪ったとおぼしき斧を振り回し、楼閣のようにそびえ立つ洞子の支柱を叩き折った。

「さあさあさあさあ、ぶっ壊せッ! 夜襲となりゃあ俺たちの天下! 昼間にやられたぶん、十倍にして返してやるぜッ!」

 裴顕の斧が唸る。やけっぱちのように歯向かってきた敵兵が、ただ一合で沈む。

 風が襄陽軍を後押しした。密集して配置された投石機と攻城兵器は、風に煽られた炎に次々と呑まれる。

 やがて襄陽軍は火勢の暴れるままに任せ、死傷者もほとんど出さずに城へと引き上げた。

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