三.当世の孔明を見出せ

 奇襲部隊が暴れている間、城内に留まった者たちもまた、兵と民とを問わず働き通しだった。

 一晩で金軍の投石機をすべて破壊し尽くせるとは、趙淳は考えていない。翌日、明るくなればきっとまた、襄陽は砲撃を耐え忍ぶだけの苦行を強いられる。ならば守りを固めておこうと、夜を徹しての作業がおこなわれている。

 楼閣を守るれんは、支柱に引っ掛けるだけではなく、頑丈な木枠を作って張り、揺るがぬように土台を楼閣に固定した。皮簾の間に合っていないところには、漁師たちが提供した頑丈な麻縄の網を張る。

 また、ぬかを詰めた袋やのうを、楼閣や城壁の出っ張りに載せた。こうしておけば、着弾しても衝撃を殺せるのだ。壁にひびの入ったところは黄土でふさぎ、皮簾でも戸板でも、目に付いたもので補強する。

 金軍から撃ち込まれた砲弾は集められ、城壁上の投石機のそばへ運ばれた。機をうかがって、再利用した砲弾を敵陣に撃ち返してやるのだ。

 襄陽の投石機は、へきれきほうを主力とする。一台当たりの砲撃の威力を比較すれば、金軍には決して引けを取らない。砲手は熟練が必要だが、襄陽軍はこれを使いこなしている。

 反撃したい。趙淳の胸には焦りがあり、胃が焼け付きそうに痛んでいる。だが、率直な衝動は黙って押し殺す。万全な体勢を整えるまでは、決して勇み足になってはならない。

 濠の向こうでは投石機が燃えていた。炎の明かりと煙の匂いに刺激され、城内で働き回る者たちは神経の高ぶりが収まらない。

 趙淳のもとには、あちらの作業が終わった、こちらはまだ時間が必要だといった報告が入ってくる。四更(午前二時頃)を過ぎる時分になると、手すきの者がぽつぽつと出始めた。

「伯洌将軍、次は何をすればいいでしょうか?」

「ああ、御苦労。仕事が終わったなら寝ておけ。これは命令だぞ。とにかく横になって寝ろ」

 金軍の包囲を打ち破らずには、襄陽は安寧を取り戻せない。撃破の手立てと糸口は、今のところ、日が沈んだ後にしか存在しないように思える。昼に戦い、夜にも戦わねばならぬのだ。眠れるときに眠って力を温存し、きたるべき好機に備えねばならない。

 そして朝が訪れた。太鼓の音と共に動き出した金軍の大兵力は、焼け落ちた残骸の傍らに新たな投石機を運んできて一斉砲撃を開始する。

 守りを固めた襄陽軍にはいくらか余裕がある。ぐるりと城壁を巡った趙こうが、南隅中央の趙淳に報告した。

「昨日より投石機の数が少ない。今日の戦陣に予備もすべて投入した格好だろう」

「だったら、今ここから見えているぶんを破壊すれば、防戦一方の状況を脱することができるわけだ」

「ああ。だが大哥あにうえ、油断はできない。また東南角がやられている。万が一に備えて、人手を東南角に動かしておいたほうがいい」

「わかった。俺が自分で行ってみよう。ちゅうれつ、ここを任せる。何かあれば伝令を走らせてくれ」

 趙淳は十人ほどの兵士を連れ、集中砲火を浴びる東南角へ急行した。

 東南角一帯には、昨日の戦況をかんがみて、力のある者を配置した。趙萬年とおうさいが南側、旅世雄と旅翠の兄妹が東側の指揮を担っている。

 趙淳が駆け付けたとき、後方の補給線を担当する路世忠も、城壁のしんに長けた大工を数人引き連れて東南角にやって来たところだった。

「状況は相変わらずなのか?」

 問うた趙淳に、青ざめた顔で持ち場に就いた兵士たちが一斉にうなずいた。趙萬年と王才、旅世雄は大声を上げて兵士たちを励まし、防御のほころびをつくろっている。繕うそばからまたほころびるが、絶望して手を止める者などいない。

 旅翠は一人、巨大な弩を手にしていた。皮簾のわずかな隙間から狙いを定め、せんを放つ。凄まじい張力の弩から発射され、火薬による噴出力を得たは、三十丈(約九十三.六メートル)を超える距離をほとんど水平に飛んだ。

 火箭はあやまたず、皮簾や木牌たての合わせ目からのぞく敵兵の肉体に、あるいは剥き出しの木材に突き刺さった。火箭が燃え、炎が金軍の攻城兵器をおびやかす。旅翠は既に十台以上の投石機の駆動部分を火箭で焼き、使用不能に追い込んでいた。

 達人芸の一部始終を見届けた趙淳に、旅翠は真剣なあまり怒ったような顔で詰め寄った。

「東南角は、こんなんじゃ兵力が足りません! 敵はここに次々と兵力を投入できる。それに釣り合うだけの兵力を城壁にも置かなけりゃ、押し切られちまいます。特に明日以降の、敵の投石機を破壊してからの戦いです。弩のやり合いになったら、必ずここは苦しくなる」

「そいつは俺も感じている。しかし、どうして東南角だけが?」

 旅翠は、はっと目を見張った。

「伯洌将軍、御存じなかったんですか? 襄陽のまわりは川や山がすぐそばまで迫った地形ですけど、東南だけは違う。八里(約四.五公里キロメートル)向こうのぎょりょうへいまで、さえぎるもののない平野です。一千年前、ここにこうなんしちぐんの教場があったくらい、だだっ広いんですよ」

 江南七軍とは、開禧三年(一二〇七年)からさかのぼって約一千年前の三国時代、そうそうが派遣した武将、きんの配下にあった軍勢のことだ。一万二千五百人を一軍とし、これが七軍まであった。

 于禁配下の総勢八万七千五百人の軍勢が教練をおこなったと伝わるのが、襄陽の東南に広がる平野だ。八里(約四.五公里キロメートル)向こうから漢江のほとりまで続く漁梁平も、川や沼を擁するものの、ぽかりと開けている。山手よりは攻城兵器を運搬しやすい地形だ。

 趙淳は頭を抱えてうめいた。

「そういうことか。だから東南角ばかりが狙われる。なんて単純な話だ。俺もだな。地図を睨むんじゃなく、この場所に立って外を見晴らせば、平地か丘か崖かなんて一目瞭然じゃねえか」

「莫迦でも何でもいいですから、伯洌将軍、あたしの話を聞いてもらえます?」

「ああ、聞こう」

「もしも敵の投石機を何とかできたら、明日はこっちからも箭と弾を飛ばして攻撃できるでしょう? でも、さっき言った通り、東南角は敵兵の層の厚さに対して、今のままじゃあこっちの弩兵の数が足りません。弩兵を三倍に増やしてください」

「しかし、三倍に増やしたとしても、じょこうに配置できる人数は今の体制でぎりぎりだろう?」

 城壁上、外に面して設けられた壁はじょしょうといい、女牆の上辺は凹凸の形を呈している。その凹んだ部分は女口といい、弩兵は女口から身を乗り出して射撃する。凸した部分は、抜きん出て大柄な旅世雄が背伸びをしても外をのぞけないほどに高い。

 旅翠はかぶりを振った。

「女口に配置しなけりゃあいい。女牆に張り付く第一層の弩兵の後ろに台を置いて、第二層と第三層を並べるんです」

「なるほど。それなら三倍の弩兵を配置できるが、台なんてどこから持ってくる? 造るわけにもいかねえぞ」

「襄陽府知事の庁舎に頑丈そうな机がたくさんあるでしょう。高さや強度を増すために改造が必要かもしれませんけど」

「役所の机を踏み付けにするってのか?」

「御行儀が悪い女で、すみませんね。ほかに、寺やびょうからも持ち出してこられるでしょう。使えるものは何でも使わなきゃ。格好なんて気にしている場合じゃあない」

 いつしかそばで話を聞いていた路世忠が、ここで口を挟んだ。

「私の店の倉庫にも、使っていない机や棚をしまってありますよ。茶の染みはなかなか落ちませんので、木材自体にがたが来ていなくとも、汚れを理由に御払い箱にしたものがたくさんありましてね。同業者にも声を掛け、使えそうなものを供出させましょう」

 旅翠がさらに話を引き継ぐ。

「女牆の防御を捨てて弩兵の攻撃を採るためには、別の方法で安全を確保しないといけません。あたしが考え付くのは、こちらの弩の射程を長くすることと、タコ金軍を連中の弩の射程内に入らせないことです」

 趙淳はうなずいて話を促す。旅翠は続けた。

「弩の射程を長くする、つまり弩の威力を高めるのは簡単です。弩の翼の部分に弓を貼り合わせるんです。今は寒い季節で弩の張力が落ちていますけど、弓の張力を足し合わせてやると、いい具合に威力を上げられる」

「なるほど。濠を挟んでの攻防じゃあ、弓は射程が足りなくて出番がねえ。武器庫に放り込んだままになっているのが山程あるから、そいつを使えばいい」

「もともと城壁の上から射るあたしたちのほうが、下から射るタコ金軍より有利です。加えて弩の威力を増せば、こっちのほうが明らかに射程が長い。こっちの箭は届くけれどあっちは撃ち返せないっていう領域にタコ金軍を留め付けて、そこで勝負をかけます」

「今夜も昨日と同じように奇襲の兵力を城外に出す。そのとき、東南角は接近されすぎないよう、木柵か拒馬を設置すればいいわけだ」

「壊した投石機や攻城兵器で場所をふさぐだけでもいいかもしれませんね。そういうことだから、弩兵を三倍に増やすこと、机を利用して弩兵の台を作ること、弩に弓を貼り合わせる改造をすること、敵陣に障害物を置くこと。これを夜のうちにやっちまいたいんです」

 趙淳は、ほう、と息をついた。顔には晴れやかな笑みがある。

「大したもんだ。すいえい、おまえさんには完敗だ。襄陽は一千年越しに、またしても名軍師を輩出したな」

 趙淳の言う一千年越しの名軍師とは、言わずと知れた三国時代のしょかつりょうである。襄陽の西三十里(十七.二八公里キロメートル)にあるりゅうちゅうざんに隠れ住んでいた諸葛亮を、しょくかんりゅうが三顧の礼の後に迎えた逸話は、ゆかりのある襄陽ではよく親しまれている。

 旅翠は花のほころぶように、また同時に、野生の獣が目を輝かせるように、笑った。白い傷痕を伝って汗が流れる。

 白昼の太陽はそろそろ南中に到達する。まずは日没まで敵の攻勢を耐え忍び、そして後、当世のおんなこうめいが案じた一計を実行に移すべく、全軍こぞって準備に取り掛かるのだ。

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