四.戦支度をして語り合え

 とりの刻(午後六時頃)、日が暮れて薄闇が迫ってくると、金軍の動きに変化があった。銅鑼の音を合図に砲撃をやめ、投石機や攻城兵器を押したり引いたりして撤退していったのだ。

 趙萬年は安堵し、思わず座り込んだ。

「オレたちの夜襲を恐れて、投石機を持って帰ることにしたんだな。際限なく兵器が湧いてくるんじゃねえかとも思ってたけど、やっぱりそんなわけなかったんだ」

 趙淳が手の甲で首筋の汗を拭い、へたり込む皆に言い渡した。

「作戦変更だ。今夜の奇襲は中止。全員、明日の戦闘に備えてしんや手仕事に勤しんでくれ。城内の仕事は台を作ることと、弩の改造をすること。手先が不器用だってやつは、必要な物資の運搬だな。食事休憩を回しながら働け。横になって休む時間も、必ず作れよ」

 朝から陣頭指揮に立ちっぱなしの趙淳は、さすがに喉がれている。声は相変わらずよく通るが、普段よりいくらか低く、時折かすれた。

 趙萬年は旅翠を手伝い、弩の改造と整備をすることになった。弓を背面に貼った弩はやはり持ち重りがして、を番えるにも力が必要だ。左右の均衡に乱れがないよう、一つひとつ手に取って調整し、懸刀ひきがねなど各部の仕掛けに異常がないことを確認する。

 旅翠は疲れも見せず、生き生きと目を輝かせている。

「阿萬が手伝ってくれて助かるよ。弩や弓の調整は直感がものを言うからね。阿萬はやっぱり弓が得意なだけあって、調整や修理も手際がいい」

「武器ってさ、育てたらそのぶん、きちんと応えて育つだろ。かわいくなってくる。オレは、弓や弩を手に持ったら声が聞こえる気がするんだよな。具合悪いって言ってるときなんかは特に」

「ああ、わかる。あたしの哥哥にいさんは船の声が聞こえるって言ってた」

「うちの大哥あにきえんげつとうだな。すっげえ大事そうに手入れするんだ。襄陽に入ってからは稽古も演武もやってる暇がないけど、大哥あにきが偃月刀を振るったら、かんうんちょうがくほうきょにだって一歩も引けを取らねえよ」

 三国時代に蜀漢随一の武将と名高かったかん、六十年余り前まで対金戦線の筆頭で采配を振るったがくの名を挙げながら、趙萬年は長柄の武器を振り回す格好をしてみせた。

 旅翠はくすぐったそうな笑いを喉の奥で転がした。

 ちょうど大量の箭を担いで城壁に上がってきた王才が、手元の御留守な趙萬年に呆れ顔をする。

「阿萬、なに遊んでんだ?」

「遊んでねえよ! 大哥あにきが本気出して偃月刀で戦うとこ、翠瑛にも見せてやりてえなって話をしてたんだよ」

「ああ、大哥あにきには絶対勝てねえ。べらぼうに強いし、それだけじゃなくて、一つひとつの動きがすげえ格好いいんだよな」

「そうそう、格好いいよな。まあ、残念ながら、襄陽にいる間は大哥あにきが前線に出ることはたぶんないけど」

 旅翠は、そこにまぶしい太陽があるかのように少し顔を伏せて目を細め、ささやいた。

「敵がいる間だけ、伯洌将軍もいてくれる。タコ金軍なんか早くいなくなっちまえばいいのに、それだけを願うことも、何だかできないんだよね」

 趙萬年たちが城内で作業を続ける間、敢勇軍は城外に出て、明日の戦闘に備えた仕掛けをほどこしていた。

 まず旅翠の提案した東南方面である。金軍を足止めしたい地点に、打ち捨てられた木材を積んで鹿ろくかくの代わりとした。

 そしてもう一つ、趙淳と趙こうが発案し、旅世雄とはい顕が役割を快諾した策がある。

 一方的な攻め手ばかりを打つ金軍は、明らかに不測の事態に弱い。動揺が伝播しやすく、ひとたび恐慌が起こればこれを鎮静できないという、大集団ならではの弱点も有する。

 それらの弱点を突くため、旅世雄や裴顕たちは城壁南門のすぐ外側、ようしょうの内側に潜んで、せっせと準備に励んでいる。明日はここに伏兵を置き、敵陣に突入させる作戦だ。

 濠の外に出ていた趙淏が周辺の偵察を終え、城に戻る途中で南門外の作業のしんちょくを確認に訪れた。

「手早いな。見事だ」

 趙淏は切れ長の目を見張り、正直な感想を述べた。

 船大工の主導で敢勇軍がこしらえているのは、幅二丈(約六.二メートル)ほどの浮き橋だった。丸太を組んでいかだにし、筏と筏を結び合わせて道として、濠に渡して浮き橋とする。

 作業は夜通しかかるかもしれないと趙淏は考えていたのだが、浮き橋は既に完成間近だった。敢勇軍は力を合わせ、じゃばら折りになった浮き橋を羊馬牆越しに濠に投げ入れた。

 旅世雄が誇らしげに分厚い胸を張った。

「特殊な縄の通し方をしてあるんですよ。縄を引っ張るだけで一直線の浮き橋に早変わりする、って寸法です。もう一つ造る余裕がありまさあね。夜中のうちに、ぱぱっと架けちまいましょう」

「すごいものだな。船乗りの知恵か?」

「茶賊の悪知恵かもしれませんぜ」

「どちらであってもかまわん。趙家軍にはできないことを、敢勇軍はやってのける。その能力と技術が頼もしい」

 裴顕がひょっこりと話に入ってきて、馬の手綱を取る格好をしてみせた。

「趙家軍は騎兵隊が格好いいじゃないっすか。城壁の防衛も、伯洌将軍っていう要がしっかり留まってるから、俺みてえに脳味噌まで筋肉でできてるような下っ端が全力で暴れられるわけでしょ。偵察担当の仲洌将軍のそつのなさも、もう想像を絶してますって」

大哥あにうえの指揮が回るのは、襄陽の皆が信頼してくれているおかげだ。私に関しては、認識が間違っている。そつがないなど、まさか。私など、自分の感情や意志を人に伝えられず、誤解されてばかりだ。そつがないのは、裴益明、あなたのほうだろう」

「俺が? どこが? いや、何というかそれこそ誤解で、俺、頭悪いんで、やらかしたりやりそびれたりしてばっかりっすよ。まわりに尻拭いさせまくり。たぶん、仲洌将軍の直属の部下だったら、一瞬で首にされますわ」

 違いねえな、と旅世雄が茶化し、周囲からも冷やかしの声が飛ぶ。

 連日の激戦を忘れさせるのんな様子に、趙淏は呆れつつ頭を振り、同時にまた少し愉快な気分にもなって、唇の端を小さく持ち上げた。

 敢勇軍の中でも路世忠のように帳簿に強い者は、城内に留まって机を囲んでいた。人員配置の変更や物資運搬の指示を箇条書きに著し、案が固まると清書し、図に描いてまとめて趙淳に提出する。

「伯洌将軍、御確認を。弩兵を増やし、城外に伏兵を置くとなると、やはり全兵力を戦闘に突っ込むことになりますな」

「後方で補給を担う人員が足りねえってことか」

「心配には及びますまい。今日の昼間、私どもが補給線を担っておるときにさえ、女衆に少年たち、老人たちまで加勢を名乗り出ておりました」

「城壁に上れば、流れ箭にあたる危険性もある。城壁からの光景も、普通に生活していれば見なくて済む悪夢だ。そいつをわかっていて、戦う力のない者たちが、戦の加勢をするってのか?」

「覚悟の程は確認しましたよ。むしろ私が叱られましたがね」

「叱られた?」

「城内にいたって、さんざん恐ろしげな音を聞いているし箭も弾も飛んでくる。今更、何を言っているのだ。少々前に出ていったところで大差はない。いや、窮屈なところで縮こまっているより、体を動かして時をやり過ごすほうがずっと怖くない」

「道理だな。籠城を決めた時点で、俺はたくさんのの民を戦に巻き込んじまった。窮屈な思いや不便な思いをさせて、まちの生活を引っ掻き回して、建物でも橋でも壊しまくって、怪我人や病人も出しちまったし、戦死した兵士の家族に大した恩賞も渡せずにいる」

 路世忠は笑い飛ばした。

「伯洌将軍や趙家軍を責めるほど、襄陽の民は卑屈でも貧弱でもありませんわ。私ども茶商がこれほど強力に武装しておるような、そんな土地柄ですよ。襄陽は、まさにきんじょうとうの城壁と濠を持つ一方、民もまた湖北一の、いや宋国一のしたたかさを持っておりますれば」

 趙淳は、何か気の利いたことを言おうとした。だが、どうも疲れている。謝罪の言葉が口を突いて出ようとするばかりだ。勝てなくて申し訳ないなどと、路世忠たちは聞きたくもないだろう。

 人員の配置図を確認するふりをして手元に目を落としながら、趙淳は当たり障りのない言葉を見付け出した。

「敢勇軍が味方でよかったよ」

 路世忠が頭を下げた。

「そう言っていただけると嬉しゅうございますな」

 城内の明かりが消えることのない夜更けだった。空の隅で白い星が一つ輝きながら流れ、堕ちた。

 鮮やかなほうきぼしに、ふと顔を上げた旅翠は気が付いた。わずか一瞬の小さな純白の輝きが、奇妙に強く胸に焼き付いた。

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