五.先手を打て

「構え!」

 旅翠の号令に合わせ、兵は弩を仰角に持ち上げ、懸刀ひきがねに指を掛ける。

 早朝だ。東南角に配列された三層の弩兵部隊から小さな呻きが上がった。今まさに昇ろうとする太陽の光がまぶしい。

 再び旅翠の声が響いた。

「あと少し、そのまま待て! 太陽に目をやられないように、まぶたを閉じてもいい。弩の角度は体で覚えてるだろう? そう、角度さえ合わせれば、目をつぶっていたって必ずあたる!」

 硬く張り詰めていた空気が、ふわりとわずかに緩む。

 それくらいでちょうどいいと、趙萬年は思った。旅翠の隣で弩を下ろしたままの趙萬年は、誰より優れる視力で敵陣の様子を観察している。

 視界をさえぎっていた防弾のれんは、楼閣の頭上を除いて、すべて取り払われた。襄陽は今日、攻勢に転ずる。

「翠瑛、やっぱりあいつら、油断しまくってるよ。あの位置なら弩の射程から外れてると思ってるんだ」

 金軍の兵士が木牌たても持たずに、洞子の中からわらわらと現れて、昨夜のうちに敢勇軍が仕掛けた障害物を撤去し始めた。

 一台の洞子には八十人から百人程度が潜んでいる。それが十台、二十台と前線に到達して兵士を吐き出し、吐き出された兵士が障害物に取り付く。黒山の人だかりが出来上がる。

 趙萬年と旅翠は目配せをし、うなずき合い、弩を掲げた。旅翠が凛と声を張り上げた。

「撃てッ!」

 機械仕掛けの弦音が一斉に鳴る。一千本のが弧を描いて飛ぶ。雨のように金軍に降り注ぐ。

 朝日が差した。金軍の動揺と悲鳴が白々たる光に照らし出される。

 がしゃがしゃと音を立てて一千の弩に箭が番えられる。その音に重ねて、南門中央の楼閣で太鼓が打ち鳴らされた。太鼓は戦の始まりを告げ、襄陽のすべての兵と民とを鼓舞する。

 一拍遅れて金軍でも太鼓が鳴らされ、怒号が発せられた。障害物のある東南角を除く他の方面では、防御を固めながらの前進が始まる。

 城壁東南角の三層の弩兵部隊は矢継ぎ早に射た。ただ射るだけで的に中る。こんな好機は今しかない。ひたすら射る。

 趙萬年は人一倍の手早さで弩を操作しながら吐き捨てた。

「オレはヘボ金の歩兵じゃなくてよかったよ! 箭の雨が降ってくるってわかってても、障害物を取っ払うのが兵の命より優先されるんだ」

 旅翠が箭を放つ。

「守るべきものを守るために、御互い容赦はしていられない。あたしもね、こっちでよかったと思ってる。だって、襄陽は必ず勝てるんだから!」

 城壁各偶で攻撃開始の号令が発せられた。金軍が配置に就くのを待たず、へきれきほうが唸りを上げる。

 二日間の戦闘で金軍から撃ち込まれた石弾は一千を数えた。これに加え、城内に貯蔵していた砲弾が三百、襲撃に怯えながらも民衆が急遽製造したものが一千五百。襄陽軍の猛烈な砲撃は、これらの砲弾を今日一日のうちに尽くさんとする勢いだ。

 砲弾が金軍の前衛に牙を剥く。木牌たてを掲げた歩兵の一団がその格好のまま弾き飛ばされ、押し潰される。砲弾の当たり所が悪かった洞子は支柱をへし折られ、内部と周囲の兵士を呑み込んで倒壊する。

 早くも前衛から逃げ出す兵が現れる。上官がこれを怒鳴り、斬り殺す。前衛に動揺が走る。後続部隊がさらに後ろに押され、前衛になだれ込む。

 趙家軍と敢勇軍、二つの旗がひるがえる南隅中央の楼閣で、趙淳は気迫のこもった雄叫びを上げた。

「先制が効いている! 行けるぞッ! 襄陽全軍、このまま押しまくれッ!」

 南隅中央の兵が咆哮して応える。咆哮は城壁の東西へと伝播する。噴き上がるような熱気が波紋のように広がり、襄陽を押し包む。

 襄陽軍の圧倒的な気勢に当てられながらも、金軍はにじり寄るように前進した。金軍の放つ箭や砲弾がぱらぱらと城壁に届き始めたのは、既にしっかりと日が昇った頃だ。時は飛ぶように過ぎ、刻々と戦況が変化している。

 趙淳は第二の策を繰り出すこととした。自ら軍旗をつかむと、楼閣から身を乗り出し、南門のすぐ下に控える一千八百の伏兵に合図を送る。

 一千八百のうち、一千二百は旅世雄とはい顕が率いる敢勇軍、残る六百は趙こうが率いる趙家軍である。伏兵部隊が手にしているのは武器ではなく、おのつちくわなど、破壊を為すための工具や農具だ。干し草と火打石も携えている。

 合図を受けた伏兵はようしょうに殺到した。昨夜のうちに薄く削ってあった羊馬牆は、たちまち破れる。濠の上には二道の浮き橋が架けられている。一千八百の軍勢は二手に分かれ、疾駆して濠を渡る。

 先頭を走る趙淏、旅世雄、裴顕が吠える。

「突撃するぞッ!」

 後続の兵が一斉に吠える。

 金軍の前衛は伏兵の出現を予測だにしていなかった。忌々しい城壁を睨んで頭上からの攻撃に意識を向けていたところ、突然、低いところから凄まじい咆哮が聞こえ、気勢が突進してきたのだ。

シャアッ!」

 襄陽軍は金軍に襲いかかった。最前列で木牌たてを並べる歩兵をまず蹴散らし、投石機に群がるや工具を打ち振るい、またたく間に駆動部分を破壊して機能を奪う。

 趙淏は精鋭を引き連れ、洞子の内側に飛び込んだ。驚愕する金軍兵士に反撃の隙を与えず、ものを振り回して当たるを幸いぎ倒し、車輪や支柱を損壊しながら火を放つ。皮簾をはりにくくり付ける縄を切って覆うものを取り払い、風を呼び込むと、火は急速に大きくなった。

 調子外れに叫びながら趙淏に弩を向ける金軍兵士がいる。趙淏が振り向くより先に、旅世雄がこれを打ち倒す。

 命懸けの伏兵作戦は劇的な効果を上げた。拮抗しつつあった両軍の勢力は再び襄陽軍の優勢へと傾いた。

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