六.城外にて激闘せよ
初めに金軍の機先を制して
城壁上で弩や投石機を操る者も城外に突出した者も、一瞬たりとも気を抜くことはできなかった。攻め手にわずかでもほころびが生ずれば、大兵力がその一点に押し寄せ、人海戦術で以て襄陽軍を引き裂きにかかるのだ。
幾度も優劣が入れ替わった。襄陽軍は劣勢に追いやられる都度、
これが決定打となった。折しも強烈な北風が吹き付けて炎を
東南方面には多大な兵力が投入されている。炎に巻かれながらも後退の叶わぬ者が続出し、あたり一帯が阿鼻叫喚の大混乱と相成った。炎は人体と兵器とを問わず次々と燃え移り、恐慌を撒き散らしながら金軍を
むろん、北風は東南方面のみに吹いたわけではない。他方面でぐずぐずとくすぶっていた炎も、乾いた北風の助けを得て勢いよく立ち上る。
怒号と悲鳴に満ちた戦場の喧騒が表情を変えたことを、趙萬年は感じ取った。風の音の向こうに
趙萬年は顔をしかめ、舌打ちをした。
「煙が邪魔で、どうなってんのか見えねえ。おい、弩兵部隊、いったん手を止めろ! ここにへばり付いてても、もう効果が上がんねえ。
旅翠もまた弩を下ろし、兵に攻撃の中断を命じて、南隅中央の趙淳のもとへ伝令を走らせた。
趙淳は、金軍の投石機の無効化に成功した西隅から順に、城外へ兵を送り出し、及び腰になった敵に直接攻撃を仕掛けさせている。東南角からの報告を受けると、趙淳はすかさず伝令に指示を持たせて東南角に応答した。
「城外への突出を命ず! 東南角の防御のため二百の兵を残し、旅翠瑛は八百の兵と共に城西の援護に回れ! 趙阿萬は東隅より一千の兵を連れ、城南の戦線に加われ! 敵は
この戦闘で金軍との決着をつけようという心算が、趙淳の頭にある。趙萬年と旅翠を出撃させれば、城内には一千余りの兵力しか残らない。城外の九千の兵力はすべてが遊撃である。数百人単位で一団となり、臨機応変な戦術で金軍の分厚い兵力の層を削いでいく。
趙淳は、じりじりと胃の腑が焼ける思いだった。本当は
伝令が飛んでくるたび、冷たい汗が噴き出す。朗報への期待など、かけらも胸に浮かばない。誰かの戦死の知らせではないかとおののき、しかし恐怖心は決して表に出さず、疲労も苦痛も呑み下し、熱した気迫を声に込めて、伝令に用向きを問う。戦況を確かめる。
勝てるぞ、と必ず励ましてから伝令を見送る。勝てるかどうかわからないと、本当のところを理解しているのは趙淳ひとりでいい。
「俺は名将でなければならない。一挙手一投足まですべて、力に満ちた存在でいなければ」
湖北に趙家軍ありと、わずか兵力三千の軍閥を慕い、信奉し、随従してくれる者たちがいる。趙家の兄弟はこの国を建てた男の落とし
一人ひとりを己の背に
そうであるのに、将帥である趙淳が為すべきことは、守ってやりたい彼らに、死地に赴けと命ずることだ。なんと恐ろしく、おぞましい矛盾だろうか。
「考えるな」
趙淳は自らに命じ、感傷を断ち切った。悔いも
南門のすぐ下を旅翠の部隊が駆けていく。先頭で
襄陽軍は皆、黒と赤の布を縫い合わせ、簡略に意匠化した「襄」の字を刺繍した徽章を身に付けている。城内から供出された古着や端切れを使い、女衆が作ったものだ。
旅翠は城南から城西へと転戦しながら、そこここに転がる死体の腕や胸に徽章がないことを確かめた。
「みんな、襄陽は勝ってる! あたしたちは勝てるよ!」
金軍はゆっくりと崩れていく。後陣は離脱を始めているが、中陣よりも前はまだ戦場から退く流れに乗れず、指揮系統の乱れるままに混沌としている。
やけを起こしたのか発狂したのか、奇声を上げて襲ってくる金軍兵士がいる。が、そのたびに襄陽軍は、群れを為す狼が獲物を狩るように数人がかりで敵を追い詰め、危なげなく打ち倒す。
北風は依然として強く、投石機や攻城兵器を包む炎は壁のように立ちはだかっている。黒煙を吸い上げる空は、いつしか濁った色に染まった。煙の匂いや血の匂いは北風に渦巻きながら戦場に満ちている。
旅翠の目は、それらの匂いがここにあることを見分けた。嗅覚は既に麻痺していた。働かないのは鼻だけではない。髪の毛一本、爪の一枚に至るまで熱のほとばしる肉体は、疲れを感じ取ることを忘れてしまった。
時の流れ方がおかしい。もう何日も何十日もぶっ通しで戦い続けているように思う。煙にかすんだ空を仰げば、たった今まで昼間の青色をしていたのが、いつの間にか夕暮れ間近の橙色に熟れている。
城西に残る民家の土塀の間を駆け回り、戦場に取り残された金軍を狩り立てる。西へと後退していった者は萬山に立て
戦場を赤く照らす西日が
旅翠は目をすがめた。人の目が最も惑わされる時間帯だ。そろそろ兵をまとめるほうがよい。じきに撤退の合図も鳴らされるだろう。
ふと、敢勇軍の若い兵士が廃墟のほうを指差した。
「そこに敵がいる!」
半壊した土蔵の陰から三人、男が走り出ていくのが見えた。後ろ姿に
旅翠より年下の、まだ少年と呼んでよい兵士は、俄然勢いづいた。手にした
悠長に観察などせず、とにかく制止すべきだった。
少年兵が駆けていく。逃亡する金軍兵士は怪我でもしているのか、足運びが遅い。少年兵は追い付こうとして速度を上げる。一人きりで味方から離れていってしまう。
「ちょいと待ちな!」
旅翠は叫び、左右に合図して走り出す。壊れた土塀に身を潜ませながら、低い姿勢で少年兵の後を追い、そして察した。
罠だ。
逃亡する金軍兵士が振り向くと、弓を構えていた。少年兵が立ち尽くす。旅翠は脚を速める。
「伏せろッ!」
旅翠は土塀の陰から飛び出した。少年兵の位置まであと数歩。
弦音が鳴った。二十か三十か、聞き分けられないほどたくさんの弦音が一斉に鳴った。
旅翠は反射的に頭を庇った。いくつもの激痛が左半身を襲った。掲げた腕の下に、数本の
正面と側面から箭を受けた少年兵が声もなく倒れる。
旅翠は視線を巡らせた。正面の三人と、西の丘の端に数十、弓を構える影がある。
「来るなッ!」
旅翠は味方の軍勢を振り返りざま、矛を投じた。矛は数歩の距離を飛び、後続の兵士の目の前で地面に突き刺さる。後続が立ち止まる。
背中に箭が刺さった。小さな衝撃と、直後に、灼熱するような激痛。旅翠は膝を突く。
どくどくと耳元で心臓の鳴る音が聞こえる。痛みが脈拍に同調している。
ああ、死ぬのだ、と思った。
幾十もの弦音が聞こえた。心臓の音がこれほどうるさいのに、箭が空を切る音まで聞こえた。
旅翠は目を閉じた。
箭が刺さる。幾本も、幾本も刺さる。衝撃が体を突き抜ける。
覚悟した痛みは訪れなかった。痛いと感じるより先に心臓の音が消えた。
旅翠の体が地に倒れ伏したとき、襄陽の城壁で銅鑼が打ち鳴らされた。撤退の合図である。
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