七.慟哭せよ

 襄陽には岳飛をまつびょうがある。

 岳飛は、今よりおよそ百年前に生まれた武将だ。農家の子で、父に先立たれ、母の女手ひとつで育てられた。成長した岳飛は金国との戦の中で頭角を現し、せつ使に抜擢され、数々の武勲を立てた。だが、目立ちすぎた。宋国の宰相、しんかいは岳飛を冤罪に陥れ、処刑した。

 四十歳で無実の罪に死した岳飛は、幾度も襄陽を訪れ、ここで戦った。せいこうの恥、すなわち金の侵攻によって宋が国都を奪われて南遷した事件を、岳飛は経験した。人生最大の負け戦だった。華北の大地を奪い返すことが岳飛の悲願だった。

 岳飛が生きた頃、戦火にさらされてばかりだった襄陽は、決して彼の悲願を理解したわけではない。しかし、岳飛の数奇な運命はさながら太古の英雄伝のようで、人々は彼の生き様に憧れて心を惹かれ、彼の死を悲しんで廟を建てた。

 供花の絶えない岳飛の廟は、籠城が始まってからはや砲弾の貯蔵庫として使われていた。箭も砲弾も撃ち尽くして空になった廟には今、戦死した者が運び込まれ、静かに横たえられている。

 一月五日。早朝から夕刻までの激戦の中で、二十二人が命を落とした。一日のうちにこれほどの人命が襄陽からうしなわれたのは初めてだった。

 金軍の死者数は、少なく見積もっても一千を超える。それと比較して二十二という数はきわめて小さいと言うべきだろうか。

 趙萬年は、冷たくなった旅翠の傍らで立ち尽くした。えつで息が苦しかった。引っ切り無しにあふれる涙が邪魔で、旅翠の姿がよく見えない。

 旅翠を殺した幾本もの箭はまだ体に刺さったままだった。顔に苦痛の表情はなく、静かに目を閉じたさまは眠っているようでもあった。

 旅世雄は旅翠のそばに膝を突いた。震える手で妹の頬に触れ、あごをなぞり、額と眉間とを覆うかぶとを外す。美しい顔をよぎる白い傷痕を、ごつごつして大きな指がたどった。

 声にならない絶叫を上げ、旅世雄は旅翠の冑を抱いて、ひそやかに泣いた。

 趙淳は少し離れた場所で、旅翠の部隊に配属された兵士から旅翠の死の状況を聞いた。少年兵を救おうとし、後続の者たちをかばったことは旅翠らしいといえた。だが、御粗末な罠に気付くのが遅れたなど、機転の利く旅翠とも思えぬ過失だ。

 疲れていたのだろう、と旅翠の部隊の兵士は言った。その一言が趙淳を打ちのめした。

 金軍が退却していく様子は見えていた。もう撤兵してもよいと思いながら、趙淳は結局、日が落ちるまで、撤退を告げる銅鑼を鳴らすのを待った。

 もっと早く鳴らせばよかったのだ。誰もが疲労しているのはわかっていた。さらなる疲労を強いて掃討戦を長引かせたことは、趙淳の采配の誤りだった。その誤りが旅翠を殺した。

 旅翠の部隊の兵士は皆、後悔の涙を流している。目の前で旅翠を死なせたことを誰彼なしに謝りながら、絶望している。

 趙淳は彼らに、旅翠をここまで運んできてくれたことの礼を述べた。涙は流れない。流す資格がないと思った。

 廟には人が満ちている。親しい者を喪った人々が続々と訪れ、なきがらに悲しみを訴える。

 趙淳は、まるでこの場にいないかのようだった。兵士を死地へと追い立てるしょうすいなど、亡骸のそばにいてはならないのだ。悲しむ者たちが憎しみをもいだいてしまわないように。

 はい顕が、一陣の旋風のように廟に飛び込んできた。脇目もふらずまっすぐに旅翠の亡骸の傍らに至ると、へたり込んだ。

「翠瑛……」

 ひどく遠慮がちな手が旅翠の肩に載せられる。裴顕はその手で旅翠を揺さぶった。いや、揺さぶることができなかった。硬直した肉体は、足の先まで丸ごと一緒くたに少し傾き、こつんと虚ろな音を立てた。

 とっに引っ込められた裴顕の手に、刺さったままの箭が当たった。裴顕の顔が、怒りに似た表情に歪んだ。

「何で抜いてやんねえんだよ? こんなもん……いかにも他人に打ち負かされましたって証明するみてえなこんなもんが、翠瑛に似合うはずねえだろうが! こいつ、こう見えて結構、服でも髪でもきちっとしてなきゃ外を歩かねえような女なんだぞ!」

 裴顕は箭をつかみ、力任せに引き抜いた。旅翠の体じゅう、あちこちに刺さった箭を抜きながら、裴顕の見開かれた目からぼうの涙があふれて止まらない。

 すべての箭を投げ捨てた裴顕は、打って変わって臆病な手付きで、旅翠の顔に掛かる髪を払った。

「信じらんねえ」

 裴顕は旅翠の頭のそばに手を突き、瞑目した顔をのぞき込んだ。無理やりこしらえてみせた裴顕の微笑から、ぽたぽたと涙の雨が降る。

じゃねえの? 伯洌将軍なら、顔に傷のある行き遅れだろうが人並外れた大女だろうが気にせずに、おまえのこと嫁にもらってくれただろうにさ。死んでちゃどうしようもねえだろ。莫迦だよ、翠瑛。起きろって。莫迦」

 軽口を叩き合う普段よりも、裴顕の口調はずっと優しかった。ささやく声は、切ない唄を紡ぐように、静かでありながら雄弁だった。言葉にし切れない多くの想いを、吐息の内に語っていた。

「わかってんだよ、おまえが俺のことなんか見てねえって。発狂しそうなくらい悔しいときもあったよ。でも、嫌いになんかなれなかったんだよ。ずっと、ずっと、俺は……俺だって、おまえの傷を気にしないし、おまえが俺よりでかいことだってどうでもよくて」

 裴顕は微笑んでいる。言葉の合間に嗚咽が交じる。涙に濡れた声が、伝えなければならない感情を形にしていく。

「なあ、俺の十六年、どうにかしてくれよ。旅家のおっかねえ哥哥にいちゃんにとんでもなくかわいい妹がいるって知ってさ、それからずっと今まで、十六年だぞ。そんだけじゃねえや。一生そばにいてほしかった。そんな幻を描いてた。なあ、俺の一生、どうにかしてくれよ」

 顔を覆って泣く旅世雄が、ついに声を殺し切れなくなって、悲痛な叫びを上げた。趙萬年も立っていられず、床に突っ伏して泣いた。

「なあ、翠瑛……翠瑛……」

 裴顕がどれほど呼んでも、応える声はない。裴顕は旅翠に呼び掛け、語り掛けることを止められなかった。悲しさとむなしさと悔しさが、しんしんと胸に積もっていった。

 そしてやっと、本当に悲しくなった。裴顕は旅翠の名を呼んだ。声はしかし、言葉にならなかった。

 裴顕はどうこくした。応える声は、やはりなかった。

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