八.オペラシオン
火を放たれ、打ち捨てられた
「落とせぬのう。しぶとい城だ」
撒速と共に城壁上にあるのは、腹心と名指される七人と護衛の任に就く十数人。腹心の一人が
腹心も護衛も皆、落とせぬと言った撒速の述懐に平伏した。撒速はそれに目をくれることもなく、城壁に物々しげな赤と黒の軍旗がひるがえる襄陽を見ている。
「初めに、対話による和議を模索して失敗した。引き続き、投降を試みて失敗した。城壁に寄り付こうと攻め込んで失敗した。刺客を送り込んで失敗した。そして
撒速の言葉に苛立ちや怒りの類が交じっていないことに、道僧は困惑した。周囲に
「攻めて失敗しただけはない。奪おうとした矢先にこの樊城は抜け殻となり、橋も落とされた。
撒速はついに喉を鳴らして低く笑った。撒速の楽しげな様子に気付いていなかった者たちが愕然とした顔を上げる。
吾也は表情を動かさなかった。
「次は
ざわりと、どよめきが走った。腹心の一人がおののく様子で吾也の肘をつかんだ。
「差し出がましいことを言うな。あの戦闘からまだ三日しか経っておらぬのだ。被害状況の把握すら十全ではない者もおるのだぞ」
吾也は鼻で笑った。
「これは失礼。被害状況を把握したくもないほど壊滅的な敗走を喫した者といえば、まさにおぬしがそうであったな」
「貴様……!」
「負けて、戦う意欲が失せたとでも申すか? 女真族の男は皆、生まれながらにして戦士だ。先祖の森を離れ、華北に住まうようになった今でも、我らの体に流れる血は戦士のそれであるはず。怖じ気づくとは、だらしない」
吾也に罵倒された男は顔を赤くし、顔を引きつらせながらむなしく口を開閉した。
道僧は気の毒に思った。吾也と同年輩である彼のことは昔から知っている。なぜ吾也と親交があるのかと幼心にも不思議になるほど、彼は優しくて親切なおじさんだった。久しく会っていなかったが、従軍して初めて現在の彼の地位と序列の高さを知った。
しかし、吾也の言う女真族の血とは一体、何なのか。
森の民だった頃の女真族は、時たま氏族間で抗争が起こったり、森の外に住む別の民族と衝突したりと、男であれば生涯に幾度かの戦を経験するものだった。
女真族の戦は、敵を殺し尽くすことではなかった。敵を打ち負かして降参させ、己の支配下に置く。破壊ではなく略奪を、つまり獲得を為すのが、女真族の戦だった。それは狩猟にも似た、一種の産業だった。
だが、時は流れた。漢族を呑み込んだ金国の女真族がひとたび戦を始めれば、数十万の兵力が動く。一度の会戦で数千人が死ぬ。一日の戦火がまちを一つ焼き滅ぼす。道僧の目に映る今次の戦は、産業ではなくただの破壊だ。
破壊のために戦うのなら、それは果たして女真族の戦と呼べるのか。
そもそもこの戦は何のために起こされたのだったか。度重なる宋の国境侵犯に耐え兼ねたことがきっかけだった。だが、道僧たちが実際に戦っている相手は、国境侵犯を為した罪人ではない。
歪んでいるのではないだろうか。戦を続けることに意味があるのだろうか。
逡巡する道僧の腹に、撒速の低く深い笑声がずんと響いた。
「吾也よ、同胞をいじめるでない」
「御意」
「おぬしはよくやった。指揮官を討ち取ったのは、おぬしひとりだったのだからな」
「撤退の最中、遠方から弓で仕留めましたので、首級を刈るには至りませんでしたが」
「
「男と大差ない体格でしたが、声が女でした。殺さず、生け捕りにすべきでしたかな。おそらく、東南角の弩兵部隊を指揮しておった女でしょう」
東南角の弩兵部隊と聞いて、幾人かが
撒速は誰にともなく問うた。
「
漢江の川風が一陣、吹いた。
吾也が進み出て、答えるのではなく問うた。
「屈服させるのですか?」
「おぬしはあの男を撃ち滅ぼしたいか?」
「撒速様に歯向かった大罪人でございます」
「儂に歯向かってみたい者なら、いくらでもおるだろう。実際に歯向かってみた者も、昔はおった。だが、歯向かおうと試みてこれを成功させた者は、趙伯洌が初めてだ。愉快ではないか」
「愉快ですか。私にはわかりかねますが。歯向かう者など罰してしまえばよろしゅうございましょう」
「罰か。では、あやつを宋から引き剥がし、我が国の朝廷で厚く遇して、二度と故国に帰れぬ身とする。儂の直参として使うてやるのだ。宋の建国者、
七人の腹心が一斉に抗議の声を上げた。撒速は、にやりと笑い、軽く手を挙げて腹心たちを制する。
撒速の両手が弓を引く格好に動いた。ありもしない
「一里(約五百六十一.六
撒速はもう一度、見えない箭を放った。老いを少しも感じさせない美しい所作だった。それから撒速は、見えない弓をなげうつようにして両腕を広げ、ぎらりと光る目で一同を見渡した。
「さあ、策がある者は申すがよい。愚策も下策も聞こう。おぬしらが何を言うても罰しはすまい」
息を呑む者がおり、身を硬くする者がおり、平伏する者がおり、眉間にしわを寄せる者がいた。ためらいが蔓延するかに見えた。
曖昧な間を、吾也が断ち切った。
「
「なるほど。続けるがよい」
「襄陽を難攻不落たらしめる要因は、あの濠であります。濠を無力化できれば、たかが一万の兵力しか持たぬ趙伯洌など恐るるに足らず」
「では、濠をどうする?」
「埋めてしまいましょう。洞子に兵と資材を積んで濠に接近し、埋め立てるのです。此度の会戦で数千の兵を
道僧は、ぞっとした。濠を埋め立てようとすれば、襄陽の城壁から雨あられと箭が降ってくるだろう。吾也もむろんそれを理解した上で、漢族歩兵を使い捨てればよいと提言しているのだ。
撒速は、なるほど、とだけ言った。吾也が言葉を重ねた。
「もう一つ、これは私事も
「ほう、誰のことを申しておる?」
「我が血を分けた息子、
撒速が道僧を見た。その視線につられて、皆が道僧をうかがった。吾也だけが道僧に
道僧は喉が干上がっていくのを感じた。呼吸の通り道が狭まり、たちまち苦しくなった。唇がわななくのを抑えるため、
李通古が襄陽戦線にやって来れば、道僧の立場はどうなるのか。
道僧は吾也を憎んでいる。好きな学問ばかりに打ち込んだのは、父の示す出世の道を遠回しに拒むためだった。いっそのこと出家してやろうかと思ったこともある。
しかし、いざ本当に父から捨てられるかもしれないとわかると、怖くなった。見捨てないでほしいとすがり付きたい衝動を、道僧は、じっと拳を固めて押し殺した。
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