八.モール

 襄陽軍の猛攻はとどまるところを知らない。連日、甚大な被害の報告がもたらされる。

 かんがんさつそくが一度、襄陽守将の趙淳宛てに書をしたため、降伏と開城、金国への帰順を説いたが、ね付けられた。返信を手にした撒速は大いに笑った。

「見事だ! くも流麗な文章で斯くも手酷く罵ってくれるとは、趙伯洌、粋な男よ。このような男であればこそ、ますます手元に置きたくなるのだが、彼奴きやつかんの虫はしばらく収まりそうにもない。殴り合わねばなるまいな」

 夜が更け、闇のとばりが下りると、襄陽軍は神出鬼没に金軍のさいを襲撃する。

 歩兵の間では襄陽軍の恐ろしさがまるで怪談のごとく知れ渡っている。昼間に威勢のいいことを言い放つ者たちも、いざ夜襲の火の手が上がると誰もが悲鳴を上げて逃げ散るばかりだ。

 最も凄まじい被害が出たのは、十一月二十九日、とうしんでのことだ。

 東津はその名の通り、襄陽の東にある優良な渡し場だ。漢江は断崖絶壁の下を流れるために近寄りがたいのが常だが、東津の一帯では両岸ともに、広くなだらかな傾斜が川面にまで続いている。

 これは夜襲ではなかった。白昼の猛火によって、東津に浮橋を架ける作業中の二万の軍勢が壊滅的な打撃をこうむった。

 いかだを大量に浮かべて並べ、つなぎ合わせて水上に道を築く。この浮橋が完成すれば、に引かせる荷車や大型の攻城兵器を漢江の北から南へと渡すことができるようになるはずだった。

 浮橋の開通は目前だった。北岸には食糧や軍需品が荷車に積まれてずらりと並び、輸送の時を待ち構えていた。

 そのとき漢江上に突如として現れたのが、薪と干し草を満載した古い軽舟の群れだった。軽舟は上流から浮橋のほうへと、猛然と突き進んできた。

「あれは何だ? まさか敵か?」

「いや、あんなに堂々と向かってくるんだ。味方だろう」

 橋上で交わされた会話はあまりに呑気だったと、わずかの後に判明する。

 軽舟が一斉に燃え上がった。と同時に、軽舟の漕ぎ手は漢江へと飛び込み、またたく間に泳ぎ去った。橋上の金軍が唖然としているうちに、炎の塊となった船は川の流れに押されて迫ってくる。

「敵襲、敵襲だ!」

「このままでは炎に巻かれて死ぬぞ、逃げろ!」

 避難が始まるや、橋上は阿鼻叫喚の大混乱へと転じた。浮橋の両端へと殺到しようとするも、前がつかえて押し合いになり、弾き飛ばされた兵士が次々と漢江にこぼれ落ちる。泳げる者はほぼいない。落水すれば、沈んで二度と浮き上がらない。

 燃え盛る船が浮橋に到達する。まず筏をつなぎ合わせる縄に、次いで筏の木材に、さらに筏の上で右往左往する人間の体に、炎が移る。冬の乾いた風にあおられ、またたく間に炎は拡大した。

 火勢に呑まれた橋上へは救援の出しようがなく、溺れゆく者を引き上げたくとも金軍は操船に難がある。大惨事となった。

 この日、溺死した者と焼死した者は数千に上った。漢江北岸で輸送を待っていた食糧や軍需品も、気付いたときには襄陽軍に奪われ、影も形もなかった。

 金軍の間で、襄陽軍憎しの声は日に日に高まる。初めはただの標的であったものが、今では仇敵へと相成ったのだ。

 そんな気風の只中にあって、独自の信念を貫こうと宣言する者もいる。道僧の身近なところでいえば、徳寿がそうだ。

「和議の道が閉ざされてはならないと思います。憎しみから事を起こしても、よい結果は生まれません。襄陽に講和を呼び掛け続けるべきです」

 道僧は懸念を口にした。

「徳寿の理想は尊い。だが、襄陽に和議の意志がないことは明らかだ。撒速様の書状でさえ、突き返されてしまうのだぞ。歩み寄りは難しいだろう」

「道僧さんまでそんな非人道的なことをおっしゃるのですか。僕は、人と人はわかり合えると考えています。生まれた国が違っても、民族が違っても、必ず和平は成し遂げられるはずです」

「私だって、人と人が争わずに済むなら、それが最善の道だと思っている。宋との間に開かれたたびの戦端も、できる限り早く収束すべきだ。戦いたくないのは、誰もが同じだろう」

「それならば、なぜ誰も自ら進んで講和を為そうとしないのです? 名立たる将帥たちは皆、寨を築いて土塁を固め、兵器を造り、時に捕虜を虐げる。襄陽との対立を深めようとするばかりです」

 徳寿は子供のように澄んだ目をしている。悲しげに顔を曇らせる有り様は痛ましい。なぜこの美しい少年が戦場にあらねばならないのかと、道僧はひそかに嘆いた。

 しんが徳寿の肩に手を添え、優しく微笑んだ。

「あなたの理想は正しいと思うわ。わたしと道僧はいつも徳寿の味方よ。道僧はこんなふうに厳しいことも言うけれど、あなたの志を否定しているわけではないの。ねえ、道僧?」

 道僧はうなずいてみせたが、胸に広がる苦味に耐えるため、きつく顔をしかめなければならなかった。

 対襄陽戦線に激震が走ったのは、十二月二日のことだ。

 徳寿がわずかな供回りだけを伴って襄陽へ向かったという知らせを受け取ったとき、道僧は多保真の剣術の練習相手を務めていた。道僧とも顔馴染みの、蒲察家に古くから仕える家令は青ざめた顔で告げた。

「坊ちゃまを御止めすることができませんでした。目を離した隙に、寨を出てしまわれたのです。道僧様、どうぞ御力添えを御願いいたします。坊ちゃまの御身が危険です。一刻も早く連れ戻していただきとうございます」

 多保真は、鹿じかのように大きくつぶらな目を困惑した様子で潤ませながら、道僧を見上げた。

「徳寿は危険にさらされているの?」

「危険だ」

「なぜ? 徳寿は戦いに行ったのではないのよ。和平を説きに行ったの。あの子の正しさは、きっと襄陽にも届くはずよ。すぐにはわかり合えなくても、いずれ必ず話に応じてもらえるはず」

 道僧は多保真の両肩をつかみ、真正面に向き合った。

「徳寿が襄陽に向かうと知っていたのか?」

「知っていたわ。相談されたもの。襄陽と和議を結ぶためにどう動いたらいいだろうか、と。父や叔父に相談しても、まるで相手にされなかったと言っていたわ。わたしだけは徳寿の味方になってあげないと、と改めて感じて……」

「徳寿の思う通りにすればいいと言ったのか?」

「だって、徳寿の考えは正しいと道僧も思うでしょう?」

「理想が正しいことと行動がふさわしいことは別問題だ。襄陽との間には毎日、戦闘が起こっている。白河口で撒速様が襄陽守将と対談した頃とは状況が変わった。徳寿が不戦の意志を示したところで、相手がそれをむとは限らない」

 多保真はなおも、がんない子供のように小首をかしげていた。

 道僧は従者に命じ、今すぐにも出立できる騎兵を可能な限り多く集合させ、自身の武器と馬の用意を急いだ。吾也には後ほど申し開きをせねばなるまい。それを考えると胃の腑がすくんだが、今は友の無謀を止めることが最優先だ。

 およそ百騎の兵と共に、道僧は襄陽へ馳せた。多保真には萬山で待つよう言ったが、聞き入れられなかった。多保真は道僧と並んで騎兵の先頭を駆けた。

 襄陽の西側は、濠のほとりの近くまで丘陵地が迫っている。ごつごつと岩がちの、崖と呼んでも差し支えない急斜面の上に立つと、徳寿がただ一人で襄陽の城壁に向かい、旗を掲げているのが見えた。

 道僧の背筋が粟立った。城壁上には幾多の弩兵の姿がある。城壁から徳寿の位置まで、三十丈(約九十三.六メートル)しかない。弩の射程内であり、巧みな使い手ならば狙い撃ちにできる距離だ。

 徳寿の掲げる旗には、ほっそりと優雅な筆遣いで「請以城降、與吾講和(城を以てくだり、吾と講和せんことを請う)」と書かれている。

 静かだった。道僧の軍勢の人馬が息せき切っている、その荒い呼吸の音のほかには、徳寿が襄陽へと呼び掛ける声が聞こえてくるだけだ。

 多保真が眉をひそめた。

「あの子の護衛はどこ?」

「ずいぶん離れたところに下がって、控えている。徳寿は己の正しさと潔さを証明するために、えて一人になってみせたのだろう」

「武器を向けられているのに」

「言ったはずだ。不戦の意志を襄陽軍と共有できる状況ではなくなっているのだ。徳寿を止めねば」

 道僧は、率いた騎兵に「命を懸けて私に続け!」と告げ、先陣を切って崖を駆け下りる。

 濠の上に一艘の軽舟が漕ぎ出していた。船には戦士が一人と漕ぎ手が一人、乗っているだけだ。戦士は小柄で線が細く、少年に見えた。あるいは、女に見えた。

 徳寿が何かを言い、船上の戦士がそれに応じる。徳寿の声は少年らしく細く、戦士の声はさらに幼い。二人の語調が次第に激しくなる。

 道僧は二人が声を発しているのはわかるが、己の呼吸と鼓動の音、馬蹄の響きに邪魔されて、会話の内容まではわからない。ただ胸騒ぎに駆り立てられて急いだ。徳寿の斜め後ろへと回り込む。

 崖を下り切ったとき、風の裂ける気配がした。道僧はとっに手綱を引き、馬を止めた。数歩先のあたりにが降ってくる。襄陽の城壁上から射られたのだ。

 声が聞こえた。

「争いたくねえってんなら、おとなしくさっさと北に帰れッ! こちとら迷惑しまくってんだよ! 何でオレたちがてめえらに頭下げて降伏だの講和だのやんなけりゃなんねえんだ! 上から物を言うのもいい加減にしろ、ダボ金のぼんぼんめ!」

 侮辱を受けた徳寿が黙り込む。相手の罵倒は止まない。

 徳寿が拳を固めるのが、道僧にも見えた。

 わかった、と徳寿が言った。相手の言葉をさえぎって、常にない大声で告げた。

「もう結構! それほどまでに罵るのならば、わかりました。あなたでは話にならないことがよくわかりました。別の誰かと代わりなさい!」

「御断りだ! どうせ代わったところで、結果は同じだしな」

「なぜ理解してもらえないのですか! あなたがたは野蛮だ!」

「おう、野蛮だぞ。だったら何だ? まさかてめえ、自分は違うって言いてえのか? 腰に弓も剣も提げて、えらく上等そうなかっちゅう木牌たてまで身に付けといてさあ!」

「身を守る備えをすることと暴力を振るうことは違います」

「違わねえよ! てめえはその手を汚さねえからわかんねえんだろうが、実際に自分の手で人を殺す下っ端にとっちゃあ、守るも攻めるも同じなんだよ。戦は戦だ。どんな言葉で飾り立てようと、戦はどの道、野蛮なもんに過ぎねえんだ!」

 船上の戦士は、笑った。場違いにも、ひどくあでやかだった。

 その瞬間から道僧の記憶は間延びしている。一挙手一投足はもちろん肺の動きや血の流れさえもきわめて重く鈍く、馬上で目を見開いていることしかできなかった。

 徳寿が怒りもあらわに、ついに腰間の弓を握り、箭筒から一本の箭を引き抜く。

 船上の戦士は徳寿より後に動き出した。弓をつかみ、構え、箭を番え、放つ。

 徳寿の動きには迷いがあった。戦士にはなかった。それが刹那の勝敗を分けた。

 箭を射た格好のまま、徳寿は立ち尽くしていた。眉間に一本の箭が突き立ち、箭羽を震わせている。傷口から細い血の筋が流れ出す。

 ぴしゃん、と水音がした。徳寿の箭が的をれて濠に落ちたのだ。

 第二の箭が船上から飛来した。徳寿のわずかにのけぞったあごの下、鎧甲よろいで覆い切れぬ白い喉を、箭は貫いた。

 徳寿の体がくずおれる。降伏を乞う旗が倒れる。

 船上の戦士が、既に番えた次の箭の先端を、道僧へと向けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る