七.フランム

 どうそうが知らせを受けて跳ね起き、ばんざんから南東の方角を見晴らすと、虎頭山は既に赤々と炎上していた。

 空を仰ぐ。昇り始めたばかりの細い残月が白く光っている。

な。一更(約二時間)と経たぬ間に何があったというのだ?」

 就寝する直前には何の異変も見出せなかった。虎頭山に置かれたさいにも、虎頭山と萬山とを結ぶ道沿いにも不寝番のかがりがともされ、黒々と冷えた夜のとばりにささやかなぬくもりを加えていた。

 それがどうだ。今や炎は凶暴な姿を剥き出しにして虎頭山に覆いかぶさり、猛り狂っている。あのままでは山ごと全焼するのもまぬかれ得ないのではないか。

 虎頭山にはのうごう家の軍の一部が駐屯している。日が落ちるぎりぎりまで、道僧は虎頭山の寨におり、攻城兵器製造のしんちょくを確認したり、捕虜をつないだ帳幕群の様子を見回ったりしていた。

「火災による被害の状況は?」

 道僧は虎頭山から急行した伝令に問うた。伝令は、身震いをするように小刻みにかぶりを振った。

「兵は順次避難しておりますが、物資や食糧、攻城兵器等をどれほど運び出せたか……どれほど失われてしまったか、すべては把握できておりません。申し訳ありません!」

「よい。私の問い方が悪かった。火元はどこだ?」

「北面のさんろくから火が起こり、風にあおられて一気に燃え広がったようです」

「失火か?」

「いいえ! 失火ではありません、宋賊に襲撃されたのです! 北麓のあちこちでほぼ同時に火の手が上がったかと思うと、宋賊が我らの混乱に乗じて寨に侵入し、破壊と略奪をほしいままにしております!」

 道僧は、ああ、と嘆息した。やはり、ついに襄陽軍が本格的に動き出したのだ。

 籠城を決めた民から兵を募って義勇軍を結成した、という報告が届いている。襄陽はきわめて士気が高いとも聞く。

 それらの情報は真実だろう。日中には、安陽灘で渡河中の三万五千の軍勢が側面から襄陽軍の船に襲撃された。金軍は対抗するすべもなく、三千に届かんとする死傷者を出した。食糧や軍馬なども奪われ、船に積んで持ち去られた。

 そう、船だ。虎頭山を襲った襄陽軍も船によって接近したに違いない。火の手が上がったという北麓は、漢江の畔から一里(約五百六十一.一メートル)と離れていないのだ。

 道僧は手早く身支度を整え、父のの帳幕へと駆けた。

 吾也とその側近は、虎頭山方面を見晴らす崖の上に陣を張っていた。主立った士官へ火急の指令を次々と下す吾也は、道僧の姿を認めるや一喝した。

「遅い!」

「申し訳ございませぬ」

「おまえもすぐに虎頭山へ向かえ。騎兵五百を付ける。南麓より迂回して、東の斜面に置いた捕虜どもを確認してこい」

「はっ。心得ました」

「宋賊と遭遇するやもしれぬ。彼奴きやつらは捕虜の奪還を目指しておろう。おまえはこれを見逃してはならぬ。必ずや戦い、頭目をとらえ、ほかはすべてちゅうさつせよ。我が納合家の寨を侵した罪、しかと償わせるのだ」

「はっ。今すぐに出立いたします」

 きびすを返すと、吾也の声がすかさず道僧の背を鞭打った。

「道僧」

「……何でございましょう?」

「こちらを向き、顔を上げよ。かたくなに父と目を合わせようとせぬとは、不孝の極み。あるいは、よからぬことでも考えておるのか?」

 道僧は体ごと振り向き、吾也の顔を正面から見つめた。眉間とあごと背筋がこわばるのが自覚できた。

「やましいことは、ございません。一つも」

「真に何もくわだてておらぬのなら、申し開きなどせぬだろう」

 極端にまばたきの少ない、向き合う相手をがんがらめにするかのような吾也のまなざしは、篝火の光を映し込み、闇の中で爛々らんらんとしている。道僧の動悸が激しくなる。乱れ始めた呼吸を、道僧は懸命に押し隠す。

 人々は皆、道僧の顔かたちは吾也と似ていると言う。自分もあのまなざしを持っているのだろうかと思うと、鏡さえも疎ましい。

「父上、御信用くださいませ。私は……」

「やかましい。もうよい、行け」

「はっ」

 漢族のように拱手の礼をして去る。従者が手綱を取る愛馬にまたがると、道僧は喘いだ。冷たい汗が全身に噴き出している。

 十一月の初旬にしんなどの拠点を落とし、萬山に駐留を始めてから二十日ほどになる。この間、吾也がを統率し陣寨を運営する手腕を、道僧は目の当たりにしてきた。

 吾也がいかに有能であるかを知った。冷徹で抜け目がなく、采配の行き届かぬところなどありはしない。

 恐怖と暴力を用いること、それ自体が吾也の目的であると道僧は思っていたが、違った。束縛も折檻も、吾也にとっては支配を強めるための手段に過ぎなかった。

 父を直視できない弱さが、あれはただの暴虐な匹夫であると、情けない虚言を道僧に吐かせていた。臨機応変の判断が問われる軍事の現場において、ようやくのことで、道僧は己の見識が遠く父の経験に及ばないことを理解しつつある。

 吾也のようにあれと、幾度、幾人から言われただろうか。初めはこの胸にあったはずの嫌悪と反発は、今では既にえ、畏怖と絶望に置き換わっている。

「私は、あのようにはなれない……」

 足りないのは能力か、覚悟か、その両方か。戦場を取り仕切ることの責任、つまりは大量の人間の命を指先ひとつ言葉ひとつで操れることの重圧に、顔色も変えずに耐えるなどできようはずがない。

「道僧様、何をしておいでですか」

 馬上で動けなくなった道僧を、従者が叱咤した。いや、従者という肩書の、父が付けた見張り役である。

「わかっている」

「ならば、く御進みください。事態は一刻を争います」

 吾也が道僧の配下として選んだ五百の騎兵は、もう支度が整っている。道僧は背筋を伸ばして馬を進め、声を張り上げて出立を告げた。

 夜道の騎行でありながら、灯火を掲げる必要もなかった。虎頭山を取り巻く炎は星をも舐めんとする勢いだ。

 木の燃える匂いがする。馬蹄の隙間から耳を澄ませば、生焼けの枝が爆ぜる音さえ聞こえる。夜風が炎に熱せられて生ぬるい。

 虎頭山の東の側面に回り込んだとき、道僧は思い掛けない人物と合流した。

とく寿じゅ! なぜこんなところに?」

「ああ、道僧さん。よかった、御無事だったのですね。もしや虎頭山の寨にいらっしゃるのではないかと懸念して、慌ててこちらへ駆け付けたのですが」

 さつ家の本陣は納合家と同じく萬山に置かれているが、徳寿は数日前から叔父と共に別働し、虎頭山から三里(約一.七公里キロメートル)ほど南にある華泉殻の高台に駐屯している。

 徳寿は身軽な出で立ちだった。同道する兵も五十騎に満たないだろう。道僧は眉をひそめた。

「襄陽軍の動きが急に活発になった。どこに敵が隠れているかわからない状態だ。軽率な振る舞いはよしたほうがいいぞ」

「心得ています。僕なら大丈夫ですよ。このあたりの地理に精通した道案内もいますし」

 徳寿が振り返る先には、漢族の痩せた男がいる。かつて納合家の寨につながれて拷問を受けていた捕虜、おうである。

 負傷による発熱で弱り切っていた王虎を、徳寿は吾也に頼み込んで引き取り、懸命に介抱した。その甲斐あって回復すると、王虎は徳寿に忠誠を誓い、病み上がりを押して間諜や水先案内人の任を買って出ている。

 兵を合した道僧と徳寿は、王虎の先導によって東麓から虎頭山に入った。拓かれたばかりの軍道をいくらも行かぬうちに、負傷者の一群と出会った。全員、べんぱつだ。まぎれもなく納合家所領の兵士たちだ。

 誰よりも素早く、徳寿が馬から降りた。

「蒲察家より救援に参りました、徳寿です。あなたがたの味方です。道僧さんも一緒です。話を聞かせてください。何が起こったのです?」

 道僧も下馬し、徳寿の隣に立った。負傷した兵士の中に顔見知りの者はいないが、道僧の服に施された刺繍と木牌たてに朱書きされた紋様、従者が携えた軍旗が道僧の身分を証明している。

 先頭の兵士がつたない女真語で挨拶をして名乗り、それから漢語でまくし立てた。

「これより先に行ってはなりません! これより先は何もありません。寨は奪われ、破壊されました。私どもが撤退したときより炎が広がってもおりましょう。これより先は危険です」

 道僧は問うた。

「敵の動きは?」

「ここでこうして生き延びた者は誰も、しかとは見ておりません。最初にせんが飛んできました。消火や避難に駆け回るうち、捕虜と家畜が奪われたとの報が入り、そちらへ向かう最中、軍道に出た途端に側面から射撃され、命からがら撤退した次第です」

「敵の軍勢の規模は? 何かわからないか?」

「申し訳ありません、つかみどころがありませんでした。せめて敵が弩を用いていれば、弦音から軍勢の規模や私どもとの距離などがわかったはずですが」

「そうか、弓か。奇襲の混乱の中では、弓の弦音を聞き分けることは不可能だな」

「敵は手慣れております。まだこの山中に潜んでいるやもしれません。道僧様、徳寿様、ここにいては御身が危のうございます。撤退なさってください、今すぐに!」

 額から血を流す兵士に鬼気迫る勢いで説かれ、道僧はうなずくよりほかになかった。配下の騎兵に命じ、負傷者を保護させる。

 前後左右を護衛されて虎頭山を後にしながら、道僧の胸はあんたんとふさがった。

 吾也の命令を果たせなかった。自分は罵倒されるだろうか、殴打されるだろうか、監禁されるだろうか。いずれにせよ、散々な目に遭うに違いない。

 だが、道僧はまだよい。虎頭山から撤退してきた者たちは命脈を保てるだろうかと考えると、胃の底が冷え冷えとする。

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