六.初陣に出でよ

 その朝、急遽、作戦が変更された。

「夜を待たず、敢勇軍はただちに出撃せよ! 昨日に引き続き、今日もまた金賊が渡河している。敢勇軍はこれを討て!」

 実は昨日、趙家軍の一部が陸路をせ、渡河中の金軍を押し返そうと試みたのだが、あまりに兵力差がありすぎて撤退せざるを得なかった。

 だが、敢勇軍は趙家軍よりも多くの兵力を有している。また、水陸の地形に精通してもいる。

 ゆえに敢勇軍ならば一定の戦果を上げられるだろうと、趙淳は判断した。水に慣れていないために反撃のおぼつかない渡河中の金軍は、こちらの兵力が十分ならば、決して手強い相手ではないのだ。

 敢勇軍の中核である船乗りの旅世雄と用心棒のはいけん、そして茶商のせいちゅうは、偵察部隊が持ち帰った金軍の現状を耳に入れるや、同じ地名を口にした。

あんようたんだ。ここを突く」

 趙淳と趙こうを筆頭に、趙萬年や王才など趙家軍の主立った者たちは、敢勇軍の面々が指差す地図上の一点をのぞき込んだ。

 安陽灘は襄陽の東南東のかた、およそ十三里(約七.三公里キロメートル)の位置にある。襄陽と樊城の間では西から東へ流れている漢江が、白河口の付近で支流を巻き込みながら南へ折れ、いくらか下った先の一地点が安陽灘だ。地図には細かな中洲が多く描き込まれている。

 茶商の元締めである路世忠が説明役を担った。

たんとは、水の難所を示す言葉ですが、襄陽近辺の水系で灘といえば浅瀬と暗礁の多い一帯を指します。船で漢江を行くならば難所、陸路を行く者が漢江を渡るならば絶好の地点、というわけですな」

「数ある灘の中でも、三人そろって安陽灘の名を出したのはなぜだ?」

「伯洌将軍、安陽灘はちょいと風変わりな特徴があるんですよ。水が川底の土の下に潜っちまうらしくてね、えらく浅いんですわ。今の時分なら、どんなに深くとも腰までの水量でしょう。徒歩で渡河できるんです。金軍はこの安陽灘に密集するはずです」

 なるほど、と趙家軍から声が漏れた。

 趙淏は昨日、偵察を兼ねて出撃し、金軍が徒歩で渡河する光景も確かに目にしたが、地の利のある敢勇軍のように正確に狙うべき地点を指摘することはできなかった。趙淏はすかさず路世忠に敢勇軍から偵察部隊への人材抜擢を提案し、了承と推薦を得る。

「そうだ、子誠殿、もう一つある」

「何でしょうか、仲洌将軍?」

「廃棄しても惜しくないほどの古い船と干し草を茶商たちから供出していただきたい。できれば、油や薪などもあるとよいのだが」

 趙淏が皆まで言わずとも、路世忠は、何の策略がその裏にあるのかを察したようだった。常に細い弧を描く両目と唇の形はそのままに、ゆるりと柔和な仕草でうなずいた。

「すぐにも集めてみせましょう。泳ぎの得意な水夫も選んでおきますのでな、必要と判断なさいましたら、御随意に使ってくだすって結構ですよ」

 路世忠はのらりくらりとしてつかみどころのない男だ、と趙萬年は思った。三十代半ばというが、仮面のような笑みのせいか奇妙に丁寧な言葉遣いのせいか、老けているようでもあり、若いようでもある。

 趙淳は一同を見渡して告げた。

「今日が敢勇軍の初陣だ。旅永英と裴益明、両名は今から安陽灘へ出撃せよ。率いる兵力は敢勇軍五千三百と趙家軍七百、合わせて六千だ」

「承知!」

「御任せあれ!」

「路子誠は夜、襄陽より西のとうざんへ出撃せよ。ここに多くの捕虜や家畜が囚われたさいがあると報告が上がっている。これを奪還すべく、夜襲をかけてほしい。率いる兵力は一千、敢勇軍八百と趙家軍二百だ」

「了解いたしました」

 趙淳は矢継ぎ早に指示を出した。指示の一つ一つは短く具体的で、復唱して確認する各人に迷いの生ずる隙もない。またたく間に作戦案が立体的な形を現し、出撃の準備が整っていく。

 王才は旅世雄たちと共に安陽灘へ向かうこととなった。趙萬年は夜目が利くので、路世忠の奇襲作戦に加わる。

 敢勇軍を中心とする六千の軍勢が戦船を駆って出陣するのを、趙萬年は城壁北隅から見送った。全長十丈(約三十一.二メートル)を超える戦船の群れが、舷側に設けられた四対の外輪で水を掻き、しぶきを蹴立てて猛進する様は、まさに勇壮の一語に尽きる。

「あんないかつい船、ただの茶商が何十艘も持ってるわけねえだろ。完璧に茶賊じゃねえか」

 趙萬年は毒づきながらも、水上の情景に目を奪われた。

 戦船には一艘あたり百五十人の兵士が乗り組んでいる。兵士は船の動力となる水夫の任を兼ねる。船体には亀甲のような格好で屋根が掛けられ、舷側に矢間やざまがずらりと設けられている。

 平らになった屋根の上に弩兵や投石機を配置すると、それはさながら動く砦だ。機敏に水上を走りながらと砲弾の雨を降らせるのみならず、鉄を仕込んださきから突っ込めば、敵船に致命的な大穴を穿うがつことができる。

 いつの間にか趙萬年の傍らに路世忠の姿がある。

 路世忠は、武人のまとうじゅうではなく、上等そうなほうの長い裾をひらひらさせている。装いばかりは戦いの心得のない商人だが、その実力をあなどることはできない。足音の立たない身のこなしは、熟達した武人のそれだ。

「戦船の走る姿は武骨で雄々しく、同時に美しゅうもありますな。これほどの数の戦船が一度に出陣することなど、滅多にありますまい。私どもの夜襲には戦船は使えませんしな」

「使わねえのか?」

「外輪船は水を大いにね上げて走ります。ゆえに音がしますからな」

「そっか、確かに奇襲には向かねえ。手漕ぎで行くのか」

「左様です。さて、ところで私が耳に入れたところによると、御嬢さんは弓の名手だとのことですが」

 趙萬年は一瞬、耳を疑った。次の瞬間、かっと頭に血が上る。

「御嬢さんってオレのことかッ? ふざけたこと言ってんじゃねえぞ、こら!」

 趙萬年は戦船の走る音に負けないよう声を張り上げ、路世忠を睨み据えた。

 路世忠は涼しい顔だ。

「非常にかわいらしい御顔をしておいでですからな。御気に障りましたか?」

「むかっ腹が立つに決まってんだろうが! 二度とオレを女扱いすんじゃねえッ! 次に御嬢さんなんて言いやがったら、問答無用でてめえのタマ蹴り上げて泣きっ面かかせてやんだからな!」

「おやおや、それは御遠慮願いたい。では、阿萬さんと御呼びしましょう。阿萬さんは弓が御得意だという話ですが」

「得意だよ! 趙家軍じゃあ一番の腕だ。それで? オレが弓の名手だったら何だ?」

 路世忠はあくまで穏やかに言った。

「今宵の奇襲、阿萬さんに一番槍を務めていただきましょう。いえ、槍ではなく、箭ですがね」

「敢勇軍が手柄を独占しねえでいいのかよ?」

「そのような些末なこと、いちいちこだわっている場合でもございませんな。阿萬さんにはぜひ、今宵、御活躍いただきたい。金賊の寨に火炎と驚愕と恐怖を降らせてほしいのですよ。たがうことなく、無駄を為さず、ただ正確にね」

 趙萬年は愛用の弓の柄を握り締め、威勢よくたんを切った。

「やってやらあ。任せとけ。このオレ、趙家軍の趙阿萬が、おっさんの想定するよりずっとすげえ戦果を上げてやるよ! とくと見やがれッ!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る