五.奇襲の露払いをせよ
「犬がいるんだ。襄陽や
旅翠の言葉に、ようやく趙萬年も趙淳も膝を打った。
「そっか、人に懐いた犬だから、人が近寄ったら喜んで吠えるんだ。そういや、どこからともなく犬の声が聞こえることがあるよな」
「奇襲に繰り出そうというときにそれをやられると、かなりまずいぞ。金賊にこちらの動きを悟られちまう」
旅翠はきっぱりと趙淳を見つめた。
「伯洌将軍、奇襲に先立って、出撃を認めてもらいたく存じます。あたしの弩は百発百中です。騒ぐ犬を狩ってきます。犬の肉は貴重な食糧になるでしょうし、奇襲の露払いもできる。行ってきていいでしょうか?」
抜け駆けだ、と趙萬年は思った。思うのと声を上げるのは同時だった。
「オレだって、弓の腕なら誰にも負けねえ! 百発百中なんだ! 犬狩りの任務、オレも加わる!」
趙淳は即断した。
「両軍から射撃に優れる者を選んで、犬狩りに行ってもらう。今日明日の明るいうちに済ませておかねえと、後が面倒だ。阿萬は趙家軍、翠瑛は敢勇軍から弓や弩の名手を募って、船着き場に集合させてくれ。船を出す者には、俺が話を付けておく」
趙萬年と旅翠は威勢よく返事をして、まずは東大門に詰めた仲間たちへ話を広めるべく、人垣の中央へと突き進んだ。
それが
冬の太陽はずいぶんと低く傾いている。悠長に構える余裕のないことは、かえってよかったかもしれない。だらだらと時間をかけてしまえば、犬は危機を察して逃げたり隠れたりするだろう。
趙萬年が乗り組んだのは、旅世雄が操る軽舟だった。笹の葉のように細長い形をして、
船には三十人ほどの射手が乗っているが、その中に旅翠がいる。趙萬年は何となく気まずくて別の船がよかったのだが、旅翠が笑顔で駆け寄ってきて、あたしの
あまつさえ旅翠は、わざわざ趙萬年の隣に腰を下ろした。旅翠が少し身を乗り出して話し掛けてくるたび、肉感的な体の柔らかさや男とは違った体臭が趙萬年を刺激する。
女とは本来、こういうものなのか。男の格好をしていても、旅翠は確かに女なのだ。
旅翠は、頬にこぼれ落ちた髪を指ですくって耳に掛けた。
「あんたのことは、阿萬って呼んでいいんだっけ?」
「いいけど」
「船酔いはしないよね?」
「平気だよ。趙家軍も移動や作戦で船を使うことがあるから、水にはそれなりに慣れてる。船酔いするやつはいねえよ」
「それを聞いて安心した。これから先の戦いでは、揺れる船の上から射撃することも多くなるだろうからさ」
趙萬年は、
「何でいちいちオレに構うわけ?」
「年下には構いたくなっちまうんだよ。阿萬が趙家軍で一番若いんじゃない? 伯洌将軍から特別に認められるくらい優秀なんだろうけど」
「趙家軍にもオレより年下はいるよ! 今回従軍してる面子には十六、七のやつらが何人もいるし、白波鎮で留守番してるちびたちもいるし」
「えっ、阿萬って、十八?」
「そうだよ。悪かったな、
「まあ、それでもあたしより四つ年下だね。困ったことがあったら、何でも御言い。力になるよ」
言えない、と思った。趙萬年は旅翠から顔を背けた。
茶賊なんて嫌いだと、ぶちまけてしまいたかった。敢勇軍を認めたくなかった。けれども、それを口にして何のためになるのか、誰が喜ぶのか。
「オレ、人と仲良くなるのにけっこう時間かかるから」
ひねくれた言い訳だけ、ぽつりとつぶやく。
旅翠は軽やかで華やかな笑声を喉のあたりで転がした。
「だったら、御節介を焼くよ。無理やりにでも仲良くなってもらうわ」
吹きっ
舟に乗り込む前に、趙萬年は一枚余分に服を着込み、軽く走り回って体を温めてきた。おかげで、寒さを感じはしても、弓を引くのに支障が出るほどではない。
しかし、寒さによって縮こまるのは人間の体だけではない。弓や弩に張った弦もいちじるしく硬くなるので、
「どれくらい飛ばせるかな、今日は」
愛用の弓を軽く引いてみる。弦はやはり硬く、かすかに軋む。
湿気の多い川面ではまた、弓をつかんだときの馴染み具合、箭を射放つ手応えの切れ具合が違う。弓も箭も、何となく持ち重りがするように感じられる。早く慣れなければならない。
「御出ましだぞ。弓や弩を用意しろ」
旅世雄の言葉が終わらぬうちに、打ち捨てられた民家の土塀の陰から犬の群れが現れ、こちらに向けてにぎやかに吠え始める。
船上のあちこちから嘆息が漏れた。薄汚れた野犬ならば心も痛まないが、人懐っこい飼い犬の群れである。ふかふかした冬毛も愛くるしく、笑顔を見せるかのように舌を出して白い息を吐くのが、どうにもかわいらしい。
動いたのは、趙萬年と旅翠だった。ぱっと立つ。趙萬年は箭を番えながら弓を起こし、旅翠は既に箭を装填した弩を水平に持ち上げる。一瞬の目配せ。そして同時に射た。
犬が二頭、倒れた。共に、眉間に箭が刺さっている。他の犬たちは気付かない。
趙萬年は第二、第三の箭を番え、立て続けに射た。狙いは
「この距離なら、連射の利く弓を使うのが正解だね。弩じゃあ数が稼げない」
「言っただろ、オレは百発百中だって。でも、翠瑛の弩ほどの破壊力は出せねえよ」
旅翠の放った箭は犬の眉間に突き立つだけにとどまらず、脳を穿って後頭部へと貫通している。
もともと弩は弓の数倍の張力があるものだが、剛力の旅翠が扱うそれは通常より二回りほども大きく、左右にせり出した翼もそこに張られた弦もまた太い。
旅翠は巨大な弩に手早く新たな箭を番える。趙萬年ならば、きっと全身の力を込めて引っ張っても、弦を発射前の状態に戻すことができないだろう。それをちらりと横目に確認しながら、趙萬年はなおも弓で箭を射る。
ようやくのことで、船上の他の射手たちも狩りに加わった。
射られて即死しなかった犬が悲鳴を上げる。傷付いて苦しみ、もがく仲間が出たことで、犬の群れが異変を察知し始める。
「
悪態をつく趙萬年に、艪を置いて弩を構えた旅世雄が言った。
「苦しませた上で締めたほうが、犬の肉は味がよくなる、と聞くが」
「そんな悪趣味は嫌いだ。こっちの都合で狩るんだぞ。せめて苦しませねえように、一発で仕留めてやりてえ」
「賛成だ。その心意気、俺はいいと思うぞ、阿萬」
「ああ、そうかよ!」
茶賊みたいな連中に気に入られたって嬉しくない。と突き放せるほど、生きることは単純ではない。
敢勇軍は腕利きだ。得物を扱う仕草を見ればわかる。趙萬年が気に入ろうが気に入るまいが、今の趙家軍には敢勇軍の力が必要だ。
群れの頭目とおぼしき黒い毛の大きな犬が牙を剥き、唸りを上げる。船で近付いてきた人間どもが敵であると、ついに判断したのだ。逃げ去らないのは見上げた根性だが、愚かだった。
趙萬年の放った箭が黒犬の右目を、旅世雄の箭が左目を射抜いた。打たれたように弾け飛ぶ黒犬の胸に、旅翠の箭が突き立った。
犬の群れが惑う。箭の雨が襲う。趙萬年たちの船だけでなく、あちこちで弦音と命令と怒号、犬の威嚇と苦痛と断末魔の声が飛び交っている。接岸し、網を投げて犬の動きを封じてから確実に仕留める船もある。
日が落ち、あたりがすっかり暗くなる頃、濠の畔で動く犬は一頭もいなくなった。
狩りは大成功だった。運び込まれた肉は早速、保存の効く燻製へと仕立てられる。いがらっぽくも香ばしい匂いが、門を閉ざした襄陽に満ちた。
夜が更けると、はるか遠くのどこかから、命からがら逃げ延びた犬の遠吠えが聞こえてきた。翌朝には襄陽近辺で犬の姿を見掛けることはなかったと、趙
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