二.狂犬を駆除せよ

 呂渭孫はもともと襄陽近辺を縄張りとする無頼漢だった。裕福な商家の生まれで、苦労も不自由もせず育ち、十五になる頃には付近の不良少年の頭領の座に収まっていた。

 自身の率いる軍団を忠勇軍と名付けた呂渭孫は、仕事に就くでもなく遊び、暴れ、酒を飲み、時に武器を執って他の無頼漢の集団を狩った。忠勇軍は、残虐という言葉がそのまま剣術の形を取ったかのような戦い方をする呂渭孫を筆頭に、腕の立つ軍団ではあった。

「残虐な剣だって?」

 趙萬年はしかめっ面で宣良顕を見上げた。呂渭孫が屯所として陣取った、城内でも南にある寺院へと向かう最中である。呂渭孫という人物について、趙萬年は襄陽常駐軍の二人に尋ねたのだった。

 髪にも髭にも白いものの交じる宣良顕は、小走りのために軽く息を切らしながら、言葉を続けた。

「弱き者をなぶる剣、と言えばいいだろうか。呂渭孫は確かに強い。魏すいが、呂渭孫の悪評判を知りつつも自軍の戦力として迎え入れるほどに強い。しかし、歪んだ強さだ」

「しょうもねえ話だな。そいつに嬲られねえくらい強いやつが抑え込みゃいいんだろ。オレと元直なら、簡単にやられることなんかあり得ねえ。好き勝手にさせるもんか」

「頼もしいものだ。私や章哥は襄陽の常駐軍として役割を担っているとはいえ、それが専業ではなく、武門の家柄でもない。常駐軍はほとんど皆、私たちと同じだよ。宋の城に住む者は、人頭税を国家に納めるのと同じように、軍役を務めなければならないからな」

「おっさんたちじゃあ、小子がきの頃から剣を振り回して暴れるのが日課だった呂渭孫には、場数の差で勝てねえわけか。まあ、安心しなよ、宣哥に章哥。オレたち趙家軍の強さは、考えなしに暴れるだけの無頼漢とは比べものになんねえんだぜ」

 先頭を行く章時可が、太っているのに機敏な動きで前方を指差した。赤々と灯火のともされた門があり、そこが呂渭孫ら忠勇軍の屯所だ。

「様子がおかしい。いやに騒々しいぞ」

 異常の理由はすぐにわかった。

 仰々しい二本の大剣を腰の左右にいた男が門から飛び出した。取り巻きらしき集団がぞろぞろと続く。両剣の男は集団を振り返り、声を張り上げた。

「魏友諒が戻ってきやがった! 勝手に野垂れ死んでくれりゃあ印章を奪うだけで事が済んだのに、手間を掛けさせる老頭子じじいだ。だが、実力を示すには、直接やっちまうのが一番いい。おまえら、付いてこい! 俺はやるぞ!」

 存外、若い声だった。趙萬年といくらも離れていないだろう。

「あいつが呂渭孫?」

 趙萬年の問いに、宣良顕と章時可は同時にうなずいた。

 呂渭孫が引き連れた手勢は三十名ほど。いきり立った呂渭孫を核とするその集団は、襄陽の南門のほうへと駆け去っていく。

 王才が足を踏み鳴らした。

「くそッ、ちっと遅かったか。追っ掛けて取っつかまえるぞ!」

「ああ、力ずくで止めてやる。宣哥と章哥は安全な場所にいろよ!」

 趙萬年と王才は勢いよく駆け出した。街路は人の往来がある。二人は城壁の上を走ることにした。

 襄陽は北面を漢江に接しているが、東、南、西の三面もまた水によって守られている。幅三十丈(約九十三.六メートル)ほどの濠が設けられているのだ。

 濠に架けられた浮き橋の上には、今まさに入城せんとする魏家軍の姿がある。彼らの掲げる灯火が、波立つ濠に映り込んでいる。疲れ切った仲間と互いに励まし合う声が聞こえてくる。

「阿萬、魏帥はどこだ? 見えるか?」

 目のよい趙萬年に、王才が尋ねた。趙萬年は鋭い視線を巡らせ、濠とは反対側、城壁南門の内側にある広場を指した。

「ちょうど入城したところだ。ほら、今、かぶとを取った」

 魏友諒と魏家軍と、それを迎える襄陽側の軍勢が広場に集い始めている。喜びに沸き立つ人々の体温が、明け方近くの冷え込んだ空気をも暖めるかに見える。

 そこへ割って入る一団がいた。先頭に立つ呂渭孫が声を張り上げ、魏友諒の名を呼ぶ。呂渭孫の人となりを知る者も知らぬ者も、両剣を帯びた荒くれ者の気迫にたじろぎ、道を空ける。

 魏友諒が呂渭孫の姿を認めた。弟分の出迎えに、魏友諒が微笑んだ。

「危ねえ、魏帥ッ!」

 趙萬年の声は魏友諒には届かなかっただろう。場はにぎわっている。

 しかし魏友諒は、はっと笑顔をこわばらせた。次の瞬間、呂渭孫に冑を投げ付けながら跳びのく。

 鈍い金属音が響いた。両剣が冑を叩き落とした音だ。呂渭孫は、分厚い両刃の左右の剣を振り立て、腰を落として身構え、何事かを吠えた。

 趙萬年は城壁の縁に足を掛け、跳んだ。民家の蔵の屋根に降り立ち、瓦を踏み鳴らして走る。屋根から屋根へ、さらに土塀の上へと飛び移り、人混みの頭上を越えて南門広場へ急行する。

「どけーッ!」

 唐突な乱刃騒ぎに身動きを奪われた群衆の只中へと、趙萬年は飛び下りた。忠勇軍兵士を蹴り飛ばし、群衆の真ん中に躍り出る。即座に剣を抜く。

 呂渭孫が両剣を振り回していた。魏友諒は左腕を負傷しているらしい。剣を手にしつつも、完全に押されている。

「オレが相手だ、呂渭孫!」

 叫びながら斬り込む。呂渭孫が向き直り、左の剣で趙萬年の攻撃を受ける。勢いを載せた一撃だったが、完全に止められた。

「非力なちびが何の用だ?」

「てめえを止めに来たんだよ! 魏帥に手出しすんじゃねえ!」

 呂渭孫は右の剣を振り上げた。片手持ちとしては長大な剣だ。体格も悪くない。剛力自慢といったところか。

 だが遅い。そして甘い。

 のんびりと振り下ろされる剣を、趙萬年は待たない。呂渭孫の防御の剣をするりと外し、小手を切り裂きながら懐に飛び込む。

 呂渭孫はのけぞった。間合いが近すぎる。

 趙萬年にとっては近すぎない。非力という弱点を補うために編み出した、先手必勝の超接近戦術だ。

 抱擁しそうなほどの、あるいは吐息が掛かるほどの近さで、趙萬年は剣を振るう。

 趙萬年の剣は薄く軽く、刃の鋭利な、切り裂くための剣だ。鎧甲よろいの継ぎ目から腕の関節を断たれた呂渭孫が、重厚な両剣を相次いで取り落とす。

「この、ちびが……ッ!」

 呂渭孫は趙萬年につかみ掛かった。一瞬早く、趙萬年は蜻蛉とんぼ返りで逃れている。

 王才が人混みを押しのけながら到着した。趙萬年と背中合わせの格好で、忠勇軍を睨む。

「阿萬、怪我してねえな?」

「かすり傷ひとつねえよ。あれが噂の残虐な剣? 重てえ得物をぶん回すのが好きらしいが、元直との稽古のほうがよっぽどやべえよ。あいつは弱い」

 呂渭孫が、自らの血に濡れた手で剣を拾おうとする。しかし、両腕ともに肘から先がだらりと脱力し、手指がまともに動かない。腱も神経も既に切り裂かれているのだ。

「痛えよ、ちくしょうッ! くそったれ!」

 わめき散らす呂渭孫の傍らへ、剣を提げたままの魏友諒が歩み寄った。

小呂おとうとよ、なぜ私の前で剣を抜いた?」

 静かな声だった。その声があたりじゅうに聞こえるほど、広場はしんとしている。夜明けが近い。一呼吸ごとに夜の闇が薄れていく。

 呂渭孫は魏友諒に吠えた。

「てめえを殺して、俺がてめえの軍の頭領になる!」

「なるほど。正直によく言った」

 魏友諒はうなずいた。そして呂渭孫の首をぎ払った。

 連戦によって剣の刃は鈍っていた。呂渭孫の首は完全には切断されず、傷口からは、絶叫になりそこねた空気が血と混じりながら噴き出した。

 忠勇軍が動いた。剣を抜き、声を上げ、呂渭孫に殺到する。

 魏家軍兵士も我に返り、魏友諒を囲んで守りを固めた。だが、その必要はなかった。忠勇軍の標的は、魏友諒ではなかった。

「死ね、呂渭孫! このけだものめ!」

 忠勇軍兵士は次々と、瀕死の呂渭孫に剣を振り下ろした。幾ばくもなく呂渭孫は絶命しただろう。だが、忠勇軍は止まらない。かぶと鎧甲よろいも剥ぎ取りながら、呂渭孫の肉体を破壊し続ける。

「どういうことだよ、これ」

 趙萬年は愕然としてつぶやいた。

 側近に守られた魏友諒がいつしかそばにいて、惨劇から目をらしもせず、沈鬱に告げた。

「忠勇軍が一枚岩だと思っていたのは、呂渭孫だけだったのだ。忠勇軍に組み込まれた者たちは皆、呂渭孫を恨んでいた。恐れてもいた」

「ぐずぐずのにくかいにしてやりてえほどの恨みかよ?」

「殴る、蹴る、刃物で脅す、そんなのは日常茶飯事だった。姉妹や恋人や妻、果ては母親までも呂渭孫に奪われ、玩具にされた者もおるらしい」

「そんな非道なやつを、魏帥は軍中に抱えてた。人としての罪を犯すのを見過ごしてたのか?」

「更生させようと試みた。排除すべきかと悩んだ。あの呂渭孫の一派だったと知れれば、忠勇軍の者たちの今後も明るいものではなくなる。それを考えると、放逐することもできずにいた。そのままずるずるとここまで来てしまった」

「でも、だからって、忠勇軍は、自分たちの大将を、あんなふうに……」

 忠勇軍兵士は、激怒の涙を流しながら、笑っている。細切れになった呂渭孫の肉を引っつかんでは口に放り込み、噛み締めて飲み込む。

 死体を損壊するだけでは飽き足らず、その肉や骨をむさぼり食らってみせるのは、憎むべき仇敵への最も苛烈な仕打ちの一つだ。忠勇軍は自ら進んで狂い、人でなしの行為に赤く手を染めている。

 魏友諒はそれを止めなかった。だから、趙萬年も王才も黙って見ていることしかできなかった。

 血みどろの復讐の饗宴は、朝日が差す頃、趙淳が駆け付けて忠勇軍を取りなすまで、にぎやかに続けられた。

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