三.火の用心を徹底せよ

 水に囲まれた立地のせいだろうか、襄陽の寒さは湿っている。足下から這い上がってくるような寒さだ。

 日向ひなたに出て駆け回っているうちに温まったはずの体は、立ち止まると、あっという間に冷えてしまう。

「休むなってことかよ? まあ、休んでる暇ねえしなあ」

 趙萬年は愚痴をこぼした。官有の酒蔵から持ち出したおおがめを王才らと数人がかりで抱え、城壁北隅の外にある船着き場へと運んでいる最中だ。

 船着き場まで運んだ大甕には水を満たす。たっぷりと水を張った大甕は再び城内に運び込まれ、防火用として各所に配置される。

 水汲みに奔走するのは趙家軍ばかりではない。襄陽在住の男衆が率先して仕事をしたいと申し出たので、民家から桶やたらいを供出させ、それに水を汲んで城壁上に運ぶようにと趙淳から指示が与えられた。無論、防火の備えである。

 城壁と濠で守られた襄陽は、物理的な攻撃を外部から加えられる心配は少ない。ただし、三十丈(約九十三.六メートル)程度の濠ならば、弩や投石機の射程圏内だ。火薬を搭載したや砲弾を撃ち込まれ、城内で火災が起こることが、襄陽にとって一番怖い。

 襄陽はごった返している。周回十里(約五.六公里キロメートル)の城内に、趙家軍三千と魏家軍四千、襄陽内外の兵と民が合わせて二万三千五百と、三万を超える人口がひしめいているのだ。

 はくしんの祭よりずっとにぎやかだ、と趙萬年はいささか不謹慎なことを思う。八つの頃から住んでいる街道沿いの農村では春と秋に祭がおこなわれ、行商人や大道芸人も訪れて華やぐのだが、城門を閉ざした襄陽の喧噪はその比ではない。

 食事は配給制となり、城内には東西南北の四箇所の給食所が設けられ、今朝から既に稼働している。北風に乗って、麦飯を炊く匂いが届く。

「やべえ、腹減った」

 王才の一言に、皆、めいめいに嘆き節を上げた。昨日は飲まず食わずの動きっぱなしだった。そのくせ空腹を感じられずにいた体が、ようやく調子を取り戻してきたようだ。

「さすがに疲れてるよな。あんまり寝てねえし」

 趙萬年は溜め息をついた。

 ろくに睡眠を取れなかったのは、時間よりも場所が確保できなかったのが真相だ。

 趙萬年や王才ら趙家軍の若手は、襄陽の住民に提供された襤褸ぼろを着込めるだけ着込み、城壁上のに築かれたれんがやぐらの中で火を焚いて、寄り添い合って眠った。束の間、泥のように熟睡したが、寒さで目覚めた。

 いや、趙萬年たちは仮眠を取る時間があっただけましだった。趙淳や魏友諒は疲労を押して働き続けている。趙こうも偵察から戻らない。

 趙淳たちと同じくらい忙しげなのは、襄陽在住の地方役人だ。朝廷から襄陽に派遣された官僚は皆、早々に湖北から避難してしまった。残された地方役人が行政から財務、犯罪者の取締や防火の見回りまで、すべての仕事をこなさざるを得ない状況だ。

 この非常時に当たって、戸籍の作り直しが必要になった。はんじょうを始めとする近隣の城市から避難してきた者を収容して、襄陽の人口は大いに膨れ上がっている。

 人だらけの城内の様子を効率的に把握するため、保伍の法という隣組制度が敷かれることとなった。

 寺院やびょう、役所に仮住まいする群衆がどこから来た何者なのか、家族連れか、戦力となり得るのか、傷病者や老人を抱えているのか、妊婦や幼児がいるのか。そうした諸々の情報を勘案しながら、五家族を「伍」、十家族を「保」として隣組を作る。

 この保伍の法は、民衆の間で互いに互いの動向を見張らせ、不正や疑惑があれば役人に報告させるための仕組みだ。あまり気持ちのよいものではないと、趙萬年は初めそう思ったが、民衆の受け止め方は異なった。

「独りじゃない。隣組の中で結束できる。集って住めば、暴力にさらされる可能性も低い。火事の危険にも一早く気付ける」

 家族ごとに番号を給付され、所属すべき保や伍が明らかになると、民衆は心底ほっとした顔をした。戦う力を持たないというのはつまりこういうことなのかと、趙萬年は知った。鎖でつながれている。それを彼らは安心と呼ぶ。

 船着き場で水を満載した大甕を荷車に積み、城内へ取って返そうとしたときだった。趙萬年は頭上から呼ばれた。趙淏が城壁から身を乗り出し、船着き場を見下ろしている。

「阿萬、ここにいたのか」

「おっ、二哥にいちゃん! 戻ってたんだ」

二哥にいちゃんはやめろ。兵の前で、それでは締まらないだろう。ちゅうれつと呼べ」

大哥あにきは、大哥あにきでいいって言うのに。で、仲洌、オレに何か用?」

 日頃はこざっぱりと身綺麗な趙淏だが、今は戦塵にまみれ、眼下も頬もげっそりと青ざめて凄惨なありさまだ。

 兄の趙淳が光なら、趙淏は影の役割を自ら引き受ける。偵察はもちろん暗殺をも為すが、人をあやめるたびにあの凄惨な顔をすることに、趙萬年は気付いている。

 趙淏は趙萬年に言った。

「記録の整理を手伝ってくれ。文字、地図、数字をすべて問題なく扱えるのはおまえだけだ。私が見て調べてきたことを、できるだけ正確に、記憶の新しいうちに、紙の上に写し取っておきたい」

「了解、すぐそっちに行く! 元直、水汲みはよろしくな。みんな、腹が減ってぶっ倒れる前に、飯を食わせてもらえよ」

 趙萬年が城壁に駆け上がると、趙淏は立ったままじょしょうもたれ、うつむいて目を閉じていた。女牆とは、城壁上の縁に設けられた壁のことだ。女牆の上部は凹凸を呈するが、凸状の部分は長身の趙淏の背丈よりも高い。

 仲洌、と呼ぶと、趙淏は目を開けて女牆から背を離した。

「うわあ、やっぱ、すげえ顔色悪い。無理しすぎだって」

 趙淏は趙萬年から顔を背け、歩き出した。

「行くぞ。襄陽府知事の庁舎を趙家軍で使ってよいことになった」

「本物の知事は逃げちまったもんな」

 趙萬年は小走りになって追い付いた。趙淏の横顔を見上げるが、こういうとき、趙淏は趙淳と違って、相手と目を合わせようとしない。横顔が端正なだけに、冷たい印象はいや増してしまう。

「官僚どもの弱腰は嘆かわしいが、足手まといが多いよりは、身軽に戦えるほうがいい。ところで、南隅で葬儀が執りおこなわれていたな。誰が死んだのだ?」

「呂渭孫ってやつだよ。魏家軍の食客みたいな男だったんだけど、魏すいちゅうさつされて、手下から切り刻まれて食われて、すげえ状態の死体になった」

「ああ、呂渭孫か。噂は聞いていた。大哥あにうえはその一件に対して何と?」

「呂渭孫の手下だった連中にはとがめなし。ただし、現場の状況はとにかく凄まじかったから、襄陽の平民を安心させるために、自分らの手で葬式をやるようにって。朝廷への報告では、呂渭孫はアホ金と戦って討ち死にしたことにするらしい」

「なるほど。籠城が本格化する前に火種を潰してしまえたことは、悪くない」

「籠城、長引きそうなのか?」

「見当も付かない。敵は五十万の兵力を号しているが、あながち誇張でもないようだ。漢江の北岸一帯は金賊のさいだらけだ。少数だが、ばんざんにまで入り込んだ先遣隊もいる」

 萬山とは、襄陽の西十里(約五.六公里キロメートル)ほどの距離にある山だ。漢江の南のほとりにそびえ、しんから襄樊両城の一帯に至るまでの複雑な中洲の連なりを見晴らすことができる。

「もしかして、神馬坡への攻撃は陽動だったのか? 何にしても、やべえじゃん。打てる手は、さっさと打っとかねえと!」

 拳を固めた趙萬年は、勢い込んで駆け出した。一拍遅れて、足を速めた趙淏が隣に並ぶ。

「私を置いていってどうするつもりだ?」

 呆れたようにつぶやく横顔は、ごくかすかではあるものの、微笑んでいた。

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