三.火の用心を徹底せよ
水に囲まれた立地のせいだろうか、襄陽の寒さは湿っている。足下から這い上がってくるような寒さだ。
「休むなってことかよ? まあ、休んでる暇ねえしなあ」
趙萬年は愚痴をこぼした。官有の酒蔵から持ち出した
船着き場まで運んだ大甕には水を満たす。たっぷりと水を張った大甕は再び城内に運び込まれ、防火用として各所に配置される。
水汲みに奔走するのは趙家軍ばかりではない。襄陽在住の男衆が率先して仕事をしたいと申し出たので、民家から桶や
城壁と濠で守られた襄陽は、物理的な攻撃を外部から加えられる心配は少ない。ただし、三十丈(約九十三.六
襄陽はごった返している。周回十里(約五.六
食事は配給制となり、城内には東西南北の四箇所の給食所が設けられ、今朝から既に稼働している。北風に乗って、麦飯を炊く匂いが届く。
「やべえ、腹減った」
王才の一言に、皆、めいめいに嘆き節を上げた。昨日は飲まず食わずの動きっぱなしだった。そのくせ空腹を感じられずにいた体が、ようやく調子を取り戻してきたようだ。
「さすがに疲れてるよな。あんまり寝てねえし」
趙萬年は溜め息をついた。
ろくに睡眠を取れなかったのは、時間よりも場所が確保できなかったのが真相だ。
趙萬年や王才ら趙家軍の若手は、襄陽の住民に提供された
いや、趙萬年たちは仮眠を取る時間があっただけましだった。趙淳や魏友諒は疲労を押して働き続けている。趙
趙淳たちと同じくらい忙しげなのは、襄陽在住の地方役人だ。朝廷から襄陽に派遣された官僚は皆、早々に湖北から避難してしまった。残された地方役人が行政から財務、犯罪者の取締や防火の見回りまで、すべての仕事をこなさざるを得ない状況だ。
この非常時に当たって、戸籍の作り直しが必要になった。
人だらけの城内の様子を効率的に把握するため、保伍の法という隣組制度が敷かれることとなった。
寺院や
この保伍の法は、民衆の間で互いに互いの動向を見張らせ、不正や疑惑があれば役人に報告させるための仕組みだ。あまり気持ちのよいものではないと、趙萬年は初めそう思ったが、民衆の受け止め方は異なった。
「独りじゃない。隣組の中で結束できる。集って住めば、暴力に
家族ごとに番号を給付され、所属すべき保や伍が明らかになると、民衆は心底ほっとした顔をした。戦う力を持たないというのはつまりこういうことなのかと、趙萬年は知った。鎖でつながれている。それを彼らは安心と呼ぶ。
船着き場で水を満載した大甕を荷車に積み、城内へ取って返そうとしたときだった。趙萬年は頭上から呼ばれた。趙淏が城壁から身を乗り出し、船着き場を見下ろしている。
「阿萬、ここにいたのか」
「おっ、
「
「
日頃はこざっぱりと身綺麗な趙淏だが、今は戦塵にまみれ、眼下も頬もげっそりと青ざめて凄惨な
兄の趙淳が光なら、趙淏は影の役割を自ら引き受ける。偵察はもちろん暗殺をも為すが、人を
趙淏は趙萬年に言った。
「記録の整理を手伝ってくれ。文字、地図、数字をすべて問題なく扱えるのはおまえだけだ。私が見て調べてきたことを、できるだけ正確に、記憶の新しいうちに、紙の上に写し取っておきたい」
「了解、すぐそっちに行く! 元直、水汲みはよろしくな。みんな、腹が減ってぶっ倒れる前に、飯を食わせてもらえよ」
趙萬年が城壁に駆け上がると、趙淏は立ったまま
仲洌、と呼ぶと、趙淏は目を開けて女牆から背を離した。
「うわあ、やっぱ、すげえ顔色悪い。無理しすぎだって」
趙淏は趙萬年から顔を背け、歩き出した。
「行くぞ。襄陽府知事の庁舎を趙家軍で使ってよいことになった」
「本物の知事は逃げちまったもんな」
趙萬年は小走りになって追い付いた。趙淏の横顔を見上げるが、こういうとき、趙淏は趙淳と違って、相手と目を合わせようとしない。横顔が端正なだけに、冷たい印象はいや増してしまう。
「官僚どもの弱腰は嘆かわしいが、足手まといが多いよりは、身軽に戦えるほうがいい。ところで、南隅で葬儀が執りおこなわれていたな。誰が死んだのだ?」
「呂渭孫ってやつだよ。魏家軍の食客みたいな男だったんだけど、魏
「ああ、呂渭孫か。噂は聞いていた。
「呂渭孫の手下だった連中には
「なるほど。籠城が本格化する前に火種を潰してしまえたことは、悪くない」
「籠城、長引きそうなのか?」
「見当も付かない。敵は五十万の兵力を号しているが、あながち誇張でもないようだ。漢江の北岸一帯は金賊の
萬山とは、襄陽の西十里(約五.六
「もしかして、神馬坡への攻撃は陽動だったのか? 何にしても、やべえじゃん。打てる手は、さっさと打っとかねえと!」
拳を固めた趙萬年は、勢い込んで駆け出した。一拍遅れて、足を速めた趙淏が隣に並ぶ。
「私を置いていってどうするつもりだ?」
呆れたようにつぶやく横顔は、ごくかすかではあるものの、微笑んでいた。
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