四.ジュスティス

 どうそうばんざんを離れ、襄陽より二十五里(約十四公里キロメートル)北方に置かれた金軍本営に赴いたのは、はんじょうの炎上を目撃した翌日のことだった。

 のうごう家やさつ家など、先遣を務めて萬山に入った各家の軍勢は、女真族が率いる本隊のみ漢江北岸へ退いた格好で、漢族歩兵を大量に萬山に残して大規模なさいの造営を始めさせている。

「山を丸ごと一つ軍事基地に造り替える。人手があればこその豪快な戦術だ」

 こまめに記録を付けているかんを見返しながら、道僧は、ほう、と息をついた。今日は息が白い。戦闘で得た捕虜は震えている。寒気に当てられ、早々に病み付いた者もいる。

 道僧の手元をのぞき込んで、しんはすねたように唇を尖らせた。

「無味乾燥の戦場記録でさえ、道僧の手に掛かると、こんなに流麗な作品に仕上がってしまうのね」

「そうおだてるな。ただの走り書きに過ぎない」

「おだてていないわ。走り書きまで見事だと、心から思っているの。わたしは道僧の字が好きよ」

「記録など、読める字であれば十分なのだがな。私は書家ではないのだ」

 多保真はくすくすと笑い、己の眉間を指先でつついてみせた。

「道僧、またここにしわが寄っているわよ。難しい顔をしないで。思い悩んでばかりいたら、体を壊してしまう」

「わかっているつもりだ。いや……心配させて、すまない」

 道僧は笑顔を作り、巻子を巻き直した。

 父のは不在だ。本営の中枢、総司令のかんがんさつそくの帳幕に招かれて慰労の宴に参加している。おそらく今宵は納合家の陣営には戻らないだろう。

 道僧は、父がいないうちにやっておきたいことがある。

 従者に告げて馬を二頭、連れてこさせると、道僧はひらりと鞍にまたがった。従者は不審げに問うた。

「何をなさるおつもりです?」

「我が納合家の陣営の見回りをする。父も頻繁に、あちこちの寨を査察しているだろう。今宵は私が代わりを務める」

「道僧様がそれを為さる義務はございませんが」

 従者の言葉の半ばで、道僧は馬首を返して進み出していた。馬上の人となった多保真が寄り添って付いてくる。

 見回りというのは、嘘ではないが正確でもない。道僧が見に行きたいのは、捕虜をつないだ寨だ。

 両手両足の爪を剥ぐ拷問を受けながらも頑として襄陽軍の情報を漏らさなかったじゅんという男は、統領の地位に就く隊長格だというが、腫れ上がった傷口もそのままに、薄着に裸足の格好で縛られて転がされているらしい。放ってはおけない。

「捕虜とした以上は、死なせたくないのだ。殺す算段なら、なぜ戦場で首級を斬らなかった? 捕虜は奴隷ではない。ましてや、拷問の末になぶり殺すための玩具であるはずがない」

「わたしの父やほかの将軍たちに提案してみようかしら。捕虜はすべて撒速様の本営に送って一括管理をするように、と」

「名案だ、多保真。撒速様の御目が届く範囲なら、捕虜に無体な扱いを為す者もいなくなるだろう。加えて、捕虜が増えるたびに起こる食糧輸送の問題も、その案ならば軽減できる」

 二万の兵力を抱える納合家の陣営には、人だけでなく、馬やといった軍用動物、牛や豚や鶏といった家畜も多い。獣臭い一角に至ると、漢族兵士の数が急に少なくなった。動物の傍らでくつろいだ顔をしているのは女真族ばかりだ。

 女真族の肉体はどうしようもなく獣臭いと、漢族はこれ見よがしの悪口を言う。彼らはなぜ他民族を罵ることがこんなにも好きなのだろうか。

 己の体臭が獣じみているかどうか道僧にはわからないが、森で狩猟をおこなう暮らしを離れてもなお、女真族の衣食住に獣や家畜が不可欠であることは事実だ。

 衣服は動物の毛や皮から作る。先祖代々、穀物の少ない食生活であったから、現在の女真族も、漢族ほどには麦や米を食べない。代わりに家畜の肉や乳をよく摂取する。

 住居に関してもまた、女真族は古い習俗を捨て去ってはいない。首都の中都では漢族風の石造りの家がほとんどだが、皇帝は季節ごとに家臣を引き連れて狩猟に出掛け、木と竹と動物の腱から成る枠に牛の皮と羊のもうせんを張った帳幕で寝泊まりする。

 此度の行軍でも、女真族が古くから狩猟や戦に用いてきた帳幕が活躍している。野に即席のかまどを作る知恵、家畜のふんを燃料として使う方法、つないだ牛の皮で雨や寒気を凌いだりや砲弾を防いだりする技術も、効果を上げている。

 三十人ばかりの捕虜をぎゅうぎゅうに押し込めた帳幕は、家畜を放した柵のすぐそばにあった。

 帳幕の表では、吾也から見張りを言い付かった女真族の士官が渋面をこしらえている。多保真の弟のとく寿じゅが、捕虜の様子を見せてほしいと、しきりに訴えかけているためだ。

 道僧は馬から降り、徳寿に駆け寄った。

「先に到着していたのか。蒲察家が管理する捕虜の様子はどうだった?」

「ああ、道僧さん。姉上も。我が蒲察家のほうでは、子供や若い女もとらえていますから、見張りを信用できる人物に任せてきました。帳幕の数も増やし、暖も取らせてあります」

「ならば、ひとまずは安心だな。問題は、我が納合家のほうだ」

 道僧は見張りの士官に詰め寄った。吾也の腹心の一人である士官は、迷惑そうに鼻を鳴らした。

「問題ですと? 勝手なことをしていただいては困りますな」

「何とでも言うがいい。捕虜の扱いを誤れば、宋との関係がますますこじれることになる」

「敵軍の御機嫌などうかがってどうするのです?」

「まさか此度の侵攻で宋の都、臨安までも攻め落とせると考えているわけではあるまい? どの時点かで和議を結ぶはずだ。我が陣営から宋へ戻った捕虜が惨憺たるありさまであれば、和議に異論が出るやもしれぬ。それは金国のためにならない」

「捕虜は客ではございません。納合家のちゃくたる道僧様が御気に掛けなさる必要はないのです」

「ここなる捕虜は我が納合家の財産だ。さすれば、損なわぬよう管理するのが吾也の嫡子たる私の務め。そこをどけ。父には好きなように告げ口をしろ」

 道僧は見張りを押しのけ、帳幕の出入口に掛かる牛皮のすだれをくぐった。多保真と徳寿が付き従う。見張りが小声で吐き捨てるのが聞こえた。

「十八にもなって、子供の遊びのような正義を振りかざすとは、なんとのんな」

 多保真が眉を逆立てた。道僧は多保真の肩をそっと叩いてなだめた。

 帳幕は、家畜よりもずっと不潔な匂いに満ちていた。道僧は捕虜たちの敵意と不安の視線の中を進み、奥に転がされた二人の男のそばで、剥き出しの地面に膝を突いた。

 男の一人は李遵だ。話に聞いていた通り、ぼろぼろに傷付けられた肉体は襤褸ぼろを巻いただけの格好で転がされ、冷え切って震えている。漢族の大丈夫おとこらしく見事に整えられていたひげはすべて引き抜かれ、毛穴は血をにじませて無残に腫れ上がっている。

 縛られた李遵は起き上がることもできないまま、しかし、苛烈な目で道僧を睨み付けた。道僧は漢語で李遵に語り掛けた。

「父があなたに無体なことをした。申し訳ない。私はあなたの治療をしたい。湯を持ってきて傷口を洗い、薬をつける。体の冷えない服も提供する。敵意を向けるなと言えた立場ではないが、どうか薬や服を受け取ってほしい」

 多保真も道僧の隣で膝をかがめ、痛ましげに顔を曇らせた。

「帳幕の中に敷物すらない、火を焚く構えもしていないなんて、あんまりだわ」

 徳寿が、李遵の隣でぐったりと倒れていた男を抱き起した。右の手足の爪を剥がれたところで、統領のおうだと名乗って気を失った男だ。

「道僧さん、こちらの捕虜は熱が高いようです。寒邪にやられたか、あるいは、服の下に大きな傷があるのでは?」

 徳寿の言葉に、捕虜の一人がわっと泣き出した。

「王統領の命を救ってください! 王統領と自分はそうようからの撤退戦の最中、捕虜となりました。王統領は部下をかばい、肩にきずを負いました。ここに連行されてからは胸や腹を何十回も殴られ、おそらく肋骨が折れています。このままでは死んでしまいます!」

 徳寿は痛みを我慢するような顔をして道僧を見やった。道僧は徳寿にうなずき、帳幕の捕虜の一人ひとりと目を合わせ、そして言った。

「あなたたちは捕虜だ。釈放することはできない。だが、待遇は必ず改善する。あなたたちを死なせはしない。兵士を取りまとめることと同様に、捕虜を適切に管理することもまた、しょうすいの務めだ」

 唐突に背後から、深みのある男の声が聞こえた。

「なるほど。これは検討せねばならぬ案件だな」

 道僧は、はっとして振り返った。

 思い掛けない人物がそこに立っていた。

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