五.ジェネラル

「なぜ、さつそく様が……」

 道僧は愕然としてつぶやいた。傍らの多保真も、王虎の体を支えた徳寿も、身じろぎすらできずに固まっている。

 帳幕の出入口に立つ大柄の男は完顔撒速といい、漢名では完顔きょうとして金国外にも広く知られる。金軍における湖北方面の総司令だ。

 その撒速がこんな場所を訪れるなど、誰が想像しただろうか。

 撒速は、帽子をかぶって髪を編み、羊の毛から作られたじゅうをまとい、腰に弓だけを帯びた気軽な軍装でそこに立っている。

 中都の宮廷で遠目に拝んだとき、撒速は、日の光をきらきらと反射するかっちゅう姿だった。総司令も甲冑を外すことがあるのかと、道僧は間の抜けたことを思った。

 最初に我に返り、姿勢を正して頭を垂れたのは、多保真だった。

「撒速様、御機嫌麗しゅう」

 うなずいた撒速は、道僧と徳寿を順繰りに見た。道僧は慌てて礼をしようとしたが、撒速が手振りでそれを止めた。

「かしこまらずともよい。医術を為す者が傷病者のそばで気を掻き乱すのはよろしくないだろう」

「はっ。かたじけなき御言葉」

「かしこまらずともよいと言うておろう。堅苦しいところは父譲りか、道僧よ」

 道僧は一瞬、目眩めまいがした。

「私は、父と似ておりましょうか?」

「吾也は昔からまじめな男だ。厳しすぎるほどにな。息子に対してはくあらぬか?」

 返す言葉をとっには見付けられず、道僧は目を伏せた。

 完顔家は金の王族だ。撒速は今上皇帝の叔父に当たる。彼より十一歳年下の皇帝が太子だった頃には家庭教師を務めており、成人し即位して後は諫言をも為す側近として、五十の坂を越えた現在もなお政治の第一線に立っている。

 年齢だけを見るならば、撒速は大規模な行軍の総司令を務めるには老いすぎている。が、実際に撒速の偉丈夫ぶりを目にした者はおのずと、その威厳と力強さに惹き付けられ、絶対の信頼と忠誠を胸にいだくはずだ。

 徳寿が秀麗な顔に戸惑いを浮かべて撒速に問うた。

「撒速様、なぜこちらにいらっしゃるのですか? 本陣で宴が開かれているのでは?」

「左様、宴は開かれておる。しかしながら、儂がそこに張り付いておらねばならぬ理由はない」

「ええと、理由はございますでしょう? 金軍に属する者は皆、将帥から士官、兵卒に至るまで、撒速様を御慕い申し上げておりますれば」

「堅いことを申すな。軍議ならばいざ知らず、今宵は酒の席だ。儂がしゃしゃり出ては窮屈に感じる者も少なからずおろう。来る戦に備えて英気を養うべく、皆、心の赴くままに楽しめばよい。儂は不要なのだよ」

「そのようなおっしゃり方をなさらないでください。不要だなどと……」

 撒速は徳寿の困り顔をじっと見つめ、そして気持ちのよい大声で笑い出した。徳寿が面食らい、目を丸くする。

「総司令というものは不自由でな、戦闘の最中には本陣に座してそのまま動けぬ。今宵は、そんな儂の息抜きよ。ようやく隙を突いて抜け出してきたのだ、大目に見てくれ。しかし徳寿、蒲察家の若殿よ、おぬしはちと素直すぎるぞ。前線には出たか?」

「いえ、一兵を率いたこともございません」

「さもありなん。だが、それでよい。戦場で命を散らす役目は、儂のような老いぼれが負うべきだ。おぬしらのように若く優秀な者たちは生き残り、将来に渡って我らが大いなる金国を支えよ」

「ですが、撒速様、僕は奥の陣に引き籠って待つばかりなんて耐えられません。金は今、りょうの末裔や西せいとの間に衝突が起こり、昨今のモンゴル族の急速な台頭に脅かされております。ここへ来てさらに、近隣では最も強国である宋が四十年来の和議をにしました」

「戦わねばならぬ情勢だと思うておるわけか」

 徳寿は意外な言葉を舌に載せた。

「戦いたくはございません。ですが、僕は前線に出とうございます」

「ほう」

「戦わずして勝ちたいのです。女真族の金と漢族の宋、同じ大地に根を下ろした者として、なぜ共栄できないのでしょうか? 僕は宋の漢族と話をしたい。彼らに道理を説いてみたいのです」

 道僧は眉をひそめ、徳寿を見つめた。子供じみた線の細さを留める徳寿の横顔は真剣そのもので、まばゆいばかりだ。

 徳寿は美しい。姿かたちは無論のこと、胸の内まで隈無く美しいのだ。

 ゆえに危うい、と道僧は思った。この大地の上にある世界は、徳寿のようには美しくない。

 くぐもった呻き声が聞こえた。徳寿の腕と胸に支えられた捕虜の男、王虎がうっすらと目を開け、ぐらぐらと揺れるまなざしで徳寿を見上げた。

「……天界か? ここは……あなたは……」

 王虎のつぶやきは、道僧の知らない漢語だった。漢族固有の夢幻譚における登場人物の名かもしれない。

 徳寿は王虎に微笑みかけた。必ずあなたを回復させる、と励ます徳寿に、王虎はうなずいて涙を流し、幾分安らいだ顔で再び眠りに落ちた。

 撒速が、口許の形のよい髭を撫でた。

「血気にはやっておるのは、いい年をした者たちばかりなのか。おぬしら若者が望むのは、戦場での猛々しい武名ではなく、異国の者たちとの共存共栄か」

 徳寿は迷いなく首肯し、それを目にした多保真は嬉しそうに微笑んだ。

 道僧に撒速のまなざしが向けられる。道僧は息苦しさを覚えた。

「私は、武名に憧れたことがないとは申しませぬ。戦場で馬を駆り、槍を振るって活躍してみたい、と。しかしながら、それは無知ゆえの浅はかな妄想でした。現実は、これです。父が捕虜に為した非人道的な仕打ち。これこそが戦場の現実です。私は耐えられません」

「敵前で怖じ気づいたのではあるまいな?」

「捕虜の扱いを巡り、私は父に楯突いております。非人道的な所業を拒むことは戦からの逃亡と見なし得る、ゆえに納合道僧は軍紀を乱す反乱者であると御判断なさるなら、どうぞ罰していただきとうございます。つながれようと打たれようと、この件、私は譲れぬのです」

 撒速の、のみで岩を彫って造形したようないかめしい顔立ちには、静かな気迫が満ちている。道僧は押し潰されそうな圧を感じながら、撒速のまなざしに正面からぶつかり続けた。

 よかろう、と撒速が言った。

「おぬしらを同席させるのもまた、よかろう。儂は数日のうちに襄陽軍との対話を設ける。ふさわしき場は、はくこうの中洲だろう」

「白河口、ですか?」

「襄陽の東は、西から流れてきた漢江が大きく南へと折れる水域があり、そこにいくつかの支流が合して、浅瀬や中洲、早瀬が複雑に入り乱れる格好となっている。ここが渡河に適するゆえ、儂はここに軍を進めたい」

「襄陽より西の萬山一帯には既に我が軍が入り、基地の造営を進めています。今後は東ですか。襄陽から十里ほど(約五.六公里キロメートル)の距離にある白河口に布陣すれば、襄陽は慌てて行動を起こすでしょう」

「左様、慌てて飛び出してくればよい。儂は、一度はこれを見逃すこととする。その一度の機会に対話をし、合意に至れば最善。我が金軍は襄陽を接収し、襄陽守将を金国の武官として迎え入れる」

「では、対話の結果、合意に至らなければ?」

「攻め落とすしかあるまい。だが、まずは話して、襄陽守将の人となりを見てからのことだ。その対話の席におぬしらを同行する」

 道僧と徳寿は顔を見合わせた。徳寿は、ぱっと顔を輝かせた。道僧は、ごまかすように笑った。

 多保真が張り詰めた目をして立ち上がった。

「撒速様、わたしが同行することは許可していただけませんか? わたしも道僧や徳寿と同じように、この戦の理不尽さに胸を痛めています。対話の行く末をこの目と耳で確かめとうございます」

「やれやれ、蒲察の御令嬢は年頃になってもなお、負けん気の強い男勝りのままか。よかろう。おぬしもまた金国の将来を担う若い力だ。存分に見聞を広めるとよい」

「ありがとうございます!」

 多保真が道僧に笑顔を向ける。

 なぜ正直に笑い返せないのか。道僧は喘ぐような胸を押さえた。さまよわせた視線が捕虜たちの視線と、そして最も手ひどい傷を負った李遵の視線と絡み合った。無言の問いが聞こえた。

 道僧、おまえの言葉はすべて綺麗事ではないのか。

 その問いに答える言葉を、道僧はいまだ間持ち合わせていない。信ずるべき道が見えない。それはひどく恐ろしいことだった。

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