第二章 敵の甘言と誘惑を論破せよ

一.不穏分子に警戒せよ

 はんじょうに火が放たれた。明け方近くの空の薄闇を、赤々とした炎が舐める。

 火を放ったのは、自ら志願したじょうようの男たちだ。その中には、船乗りの頭目であるりょせいゆうもいた。彼は、あの大柄な男装の美女、りょすいの兄だ。

 彼らは樊城のあちこちに炎をばら撒くと、煙に巻かれないよう素早く漢江上の船に逃れ、襄陽へと漕ぎ出しながら、襄樊両城の間を結ぶ浮き橋にも火を掛けた。

 漢江の水面は炎を映して赤く揺らめいた。破壊の炎の情景は異様で恐ろしく、同時に、幻想的で美しかった。

 北風に乗って煙が渡ってくる。襄陽の城壁の北隅にたたずんだちょうばんねんは少しだけ咳をした。

 浮き橋の南端は打ち壊され、炎は襄陽まで及ばない。樊城側に繋留されていた船は全て避難して、襄陽の膝元に所狭しと並んでいる。

 ちょうじゅんがひそやかに告げた。

「今、四千五百だ。俺たちちょうぐんと、襄陽に常駐する衛兵、光化やそうようで破れて逃れてきた兵、そして近隣から集まった老兵を合わせて、四千五百」

「少ねえな。襄陽の戦力になるはずだった軍勢の中にも、戦死したやつや捕虜になったやつ、襄陽から避難しちまったやつもいるもんな。大哥あにきぐんは?」

「もうまもなく全軍が合流するだろう。魏すい自身の本隊が殿しんがりを務める格好でまだ戻っていないが、それ以外は大半が帰参している」

「魏家軍の兵力って、四千くらいだっけ?」

「ああ。無事に全軍が襄陽に入れば、襄陽の兵力は九千近くになるわけだ」

 城壁の警備は、襄陽常駐の衛兵を筆頭責任者に据え、趙家軍が当番を決めて人数を補うこととして一応の体制が整った。ここに魏家軍も加わって守りを固める方針だ。城壁上には灯火が並び、投石機、弩、砲弾、、火薬、かめに入った油などの配備が進められている。

 中国の「城」とは、城壁に囲まれた「まち」そのものを指す。城壁とは単なる壁ではなく、騎兵が二騎で並走できるほどの厚みと堅固さと、民家の屋根に倍するほどの高さを持つ建造物だ。

 城壁は黄土を突き固めて築かれる。さらさらと軽く風に舞う黄土は、水を混ぜ、叩いて空気を抜きながら乾燥させると、天然の岩よりも割れにくく頑丈になるのだ。

 基礎部は人の背丈の倍ほども深く大地を掘り下げ、突き固めてある。ゆえに、多少の衝撃や重量が加えられたくらいでは、城壁はびくともしない。また、城壁の下に隧道を掘って地下から城内に忍び込む戦術もあるにはあるが、全く以てたやすいことではない。

 趙萬年は城壁の北隅に立って、ずいぶん長い間、炎を数えている。

 樊城と浮き橋を焼く大きな炎がある。漢江の向こうの山々にぽつぽつと見える小さな炎は、敵軍のさいに違いない。それらは時折、移動する。また、増えもする。

 趙淳は、周回およそ十里(約五.六公里キロメートル)の城壁を駆け回って、警備状況の確認や指示に忙しい。王才は武器や攻具の運搬に駆り出されている。趙こうの姿が見えないのは、ひそかに城外へ出て敵情を探っているのだろう。

ばん、疲れたか? 休めるのなら、今のうちに休んでおけよ」

「何言ってんだ、大哥あにき。休めるわけねえよ。皆、働いてんだろ。大哥あにきこそ、ちっとも休んでねえじゃん」

「俺は、せめて魏帥が到着するまでは気を抜けねえ。為さねばならん仕事は、ごまんとある。今は……」

 言い差したところで、趙淳は語を切った。何かの報告だろう、趙淳の名を呼びながら男が二人、向こうから駆けてくる。

「申し上げます! はくれつ将軍の御耳に入れておきたいことがございます! 私どもは襄陽常駐軍の士官なのですが」

「ああ、確か、西隅の鼓楼の守備を担当している……すまん、名をもう一度」

「私はせんりょうけん、こちらはしょうと申します。おっしゃる通り、私どもは常日頃から西隅の警備を担っておりますれば、異常にも一早く気付いて御覧に入れます。しかし、今は西隅の件ではございません」

「何だ?」

「魏帥の御命が危ういのです!」

「どういうことだ? 魏帥の撤退戦は確かに危険を伴う仕事だが、しかし、既におおよそ完遂しているはずだ。こんな刻限に、戦況を引っ繰り返すほどの騎兵の大軍でも押し寄せてくるとでもいうのか?」

「いえ、問題は金賊ではありません。襄陽に入城なさるときこそが危険なのです。魏帥は殿しんがりを務め切って御疲れでありましょう。入城すれば、安心もなさるでしょう。その隙を突こうとする者がおります。魏帥の敵は城内に潜んでいるのです」

 そんなな、と趙萬年は口走った。宣良顕と章時可は顔をしかめてかぶりを振った。

 趙淳は眉間のしわを深くし、ある男の名を口にした。

りょそんか」

「伯洌将軍も御存じでしたか」

「魏家軍では常に別働で、遊撃を務める男だな。出来の悪い弟分だと魏帥からは紹介を受けているが、そんなかわいげのあるものではないと、もっぱらの噂だ」

「呂渭孫は非常に暴力的な男です。魏帥は二年ほど前から襄陽付近の国境地帯で金賊と戦っておられますから、私どもも魏家軍とは馴染みが深いのです。だから存じています。呂渭孫は、隙を見て魏帥を排除しようと考えています」

 趙萬年は思わず声を上げた。

「魏帥を排除って、そんなことして何になるってんだ?」

 趙淳が、場に似つかわしくもないが、噴き出した。宣良顕がぎょっとした顔をし、章時可がぽかんと口を開ける。

 趙萬年は、とんでもない事態をも笑い飛ばしてのける趙淳をよく知っている。

「また大哥あにきの笑い上戸が始まった」

「すまんすまん。俺は幸せ者だと思ってな。弟分は出来がよくて俺に忠実で、俺を殺して趙家軍を乗っ取ろうなんて不届きな算段は、露ほども腹に抱えちゃいねえらしい」

「はあ? 趙家軍を乗っ取るって、そんなこと誰にもできるはずねえじゃん。趙家軍の三千人は、大哥あにきが大将だからこそ付いていくんだ」

「そう、それは魏家軍も同じ事情のはずだ。ところが、呂渭孫は理解しちゃいねえ。軍を率いて上げたいさおの数で言やあ、呂渭孫は魏帥に次ぐ第二位だ。第一位の魏帥を倒せば、繰り上がって自分が大将になれると考えている」

「くだらねえ。信じらんねえよ」

 吐き捨てた趙萬年に、趙淳はもう一度だけくっきりと歯を見せる笑い方をしてから、真顔になってふところに手を突っ込んだ。太い革紐で首から提げた小袋を取り出す。

「俺がここに何を入れているか、阿萬も知っているよな?」

「印章だろ。けいがく都統の印章とけい西せい北路招撫使の印章を、絶対になくさないように、文人官僚みてえにきらきらした紐で腰に吊るすんじゃなくて、首から提げて身に付けてる」

「書類に押すわけでもねえ、形ばかりの判子だが、こいつがなけりゃ役人の前で俺が趙家軍の趙淳であることを証明できねえ。俺が何者であるか証明できなけりゃ、官有倉の食糧や武器を差配することができず、おまえらを食わせていくことができない」

「印章を持ってるからオレたちは官軍で、そうでなけりゃ、茶賊と同じようなただの武装勢力、賊軍だ。オレだってそのくらいわかってるよ。それで? その印章がどうしたんだよ?」

「魏帥のぶんを預かっている。つまり、こうりょう副都統の印章をだ。魏帥がしんに赴く前に預かった。魏帥は呂渭孫を襄陽の留守役としたが、腹心のはずの弟分ではなく、下手をすりゃあ勢力争いの敵になりうる俺に印章を託したんだ」

「それ、魏帥にも、呂渭孫が危ういやつだってわかってるってことだよな? 万が一のことがあったら、呂渭孫に魏家軍を継がせるんじゃなくて、趙家軍にまとめちまうほうがましだと思ってんのか?」

 趙淳はうなずかなかった。うなずいてよい立場ではない。ただ、趙萬年の言葉を否定しなかった。それが趙淳の本心だ。

 ふと、城壁の下から声がする。

大哥あにき! 魏帥たち、もうほんのすぐそこまで来てるってよ!」

 王才だ。城壁南隅の持ち場から、城内を突っ切ってここまで知らせに走ってきたらしい。喜色を浮かべた王才とは裏腹に、趙萬年は、首筋の産毛が逆立つような予兆を覚えた。

「なあ、大哥あにき。オレは魏帥を守りたい」

「無論だ。せんしょう、呂渭孫の屯所まで阿萬を案内してくれ。阿萬はげんちょくを連れて向かえ。呂渭孫がこの状況で本当に暴発するほど愚かな男だとは思いたくねえが、期待も油断も禁物だ」

「わかった。おい、元直! 今、剣は持ってるよな?」

 呼ばれた王才は、趙萬年の剣幕に圧倒されて目を見張った。

「急に何だよ? そりゃ、いつでも剣は身に付けてるけど。城内で剣を振り回せってのか?」

「そうなるかもしれねえから覚悟しろ! 気い抜いてると、死なせちゃならねえ人が死ぬぞ!」

 叫ぶや否や、趙萬年は城壁の石段を一足飛びに駆け下りた。

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