七.本音を語れ

 一月二十七日、金軍の洞子が三十台ほど、襄陽の東南方面に現れた。

「金賊がまた来たぞ! 警戒態勢に入れ!」

 先日まで寨が築かれようとしていた場所よりずっと襄陽に近い地点にまで、洞子の行列はやって来た。濠から約百歩(約百五十六メートル)の距離を退いたあたりだ。弩や投石機の射程から外れているものの、様子がつぶさに観察できる程度には近い。

 洞子は、襄陽から見て右、手前、左に壁を築く格好で整列した。その陣形で迫ってくるかと思いきや、金軍はそこから動く気配がない。洞子と洞子の間にはれんが張られ、中の様子をすっかり隠してしまった。

 洞子と皮簾で隠された内側に、延べ数万人の金軍兵士が入れ代わり立ち代わり群がって、何かを始めた。見張りの騎兵こそいるものの、城壁から様子をうかがう襄陽軍をそっちのけにして、ひたすら何かをしている。

「正体のわからない動きをされると、気味が悪いな」

 城壁上では、そんな会話が幾度もささやき交わされた。

 しかし、昼が過ぎる頃になると、金軍のくわだてが城壁上からも見え始めた。洞子と皮簾の内側に巨大な土山がのぞき出したのだ。

 趙萬年は、その土山の正体を知っていた。

きょいんの策だ。孫子の本に出てくる。でも、城壁と同じ高さの土山なんて、そうそうすぐに造れるもんじゃねえだろ。しかも、濠からだいぶ離れたところから始めるんじゃ、かなり時間がかかるに決まってる」

 ところが、しばらくすると金軍の覆いが動いた。その形のまま丸ごと前進したのだ。内側の土山が襄陽に向かって伸び始めていた。先日、襄陽軍が塹壕を掘った作業進度と比較すると、目を疑うほど猛烈に速い。

 日のあるうちに数度、覆いの位置をずらしながら、金軍の土山は前進してきた。それを城壁上で監視しながら、趙萬年たちは次第に口数が少なくなっていった。

 襄陽軍は夜間にも引き続き金軍の様子をうかがい、奇襲をかける隙を探った。金軍は赤々と灯火をともし、多数の騎兵を配置して、隙を作らない。覆いの内側では一晩中、数千人が作業を続けていた。

 そして翌日である。昼頃には、土山の先端は、起点と濠のちょうど中間あたりまで届いていた。

 趙萬年は、王才たち趙家軍兵士と共に城壁上に詰めていた。土山の監視を任されたのだが、じっと睨むばかりでは気が急いてたまらないからと、鉄製の刃の付いていない模擬試合用の槍を持ち出し、組を作って順繰りに打ち合っている。

 このところ王才に負け越していた趙萬年は久しぶりに一本を奪い、にやりとして額の汗を拭いた。それから、どんどん迫ってくる土山を見やって顔をしかめた。

「化け物みたいだ」

「クソ金軍の兵の多さと仕事の速さのことか?」

「いや、うじゃうじゃしてやがるのも気持ち悪いけど、オレが化け物って言いたいのは、あの土山そのものだよ。本で読んで想像した以上に実物は不気味だ」

「あれを放置してたら、最後には城壁に取り付きにくるんだろ? 濠も越えるつもりなのか?」

「そうだろうな。距堙の策が始まったときには、まさか濠まで埋めることはできねえだろうって高をくくってたけど、たぶんやりやがるよ」

「濠を埋め立てるときは洞子で防御できねえぞ。俺たちからすれば、でも弾でもて放題だ」

「箭や弾が尽きるほど中てまくるそばから、ヌカ金の連中は仲間の死体をのう代わりにして濠を埋めていくんじゃねえか?」

「それ、本物の化け物が出来上がるやつだ」

 槍の稽古をしていた兵士たちが、ふと動きを止めて姿勢を正した。挨拶の声が上がり、趙萬年は城壁に趙淳が現れたことを知る。

 趙淳の表情があまりに陰鬱で、趙萬年は眉をひそめた。

大哥あにき、どうかしたのか? 体の具合、悪いんじゃねえ?」

「何ともない。土山の様子を見に来た。奇襲をかけるなら、やはり明日の晩だな。濠のぎりぎりまで迫ってくれたほうが襲撃しやすい。土山の破壊には手間がかかっちまうが、やむを得ん」

「奇襲に成功してゲス金の見張りを追い払うのが先だもんな。でも、あの土山、意外と壊しやすいんじゃねえかって、砲弾作りが得意な女衆が言ってた。見た感じ、土だけ固めて山にしてるだろ? あんな作り方で急ごしらえすると、すぐ割れるんだって」

 襄陽軍の砲弾は石弾ではなく、水を含ませた土をねて丸め、天日に干したり火であぶったりして乾かした代用弾だ。材料となる土に動物の毛や麻の繊維を混ぜ込むことで強度が格段に増すのだと、趙萬年は先程聞いて初めて知ったところだった。

 趙淳は幾度かうなずき、確認するように何事かをつぶやいてから、趙萬年たちをぐるりと見やった。

「槍の稽古中だったんだろう? 俺が来た程度で打ち合いを中断しなくてもいい」

 趙萬年は、手にした槍の石突で、地面をとんと打ち鳴らした。

「中断するって! だって、大哥あにき、ただごとじゃねえ顔してる。悪いことでも起こったんじゃねえかとか、また大哥あにきがいきなり倒れちまうんじゃないかとかって、皆すげえ不安になって思わず手を止めたんだ」

「あのとき倒れたのは睡眠不足がたたっただけだ。病気でも何でもない。おまえたち、おおだぞ」

 今度は王才が怒った顔で大きな声を出した。

「大袈裟なんかじゃねえよ! 敵を追っ払った後とはいえ、自分の軍のそうすいが敵陣のど真ん中で倒れたんだぞ。あのとき俺たちがどれだけ恐ろしい思いをしたか、大哥あにきには想像できねえのかよ? できねえってんなら、今の大哥あにきは本気でどうかしてるよ!」

 王才は日頃、趙淳に対して生意気な振る舞いをすることはまずない。趙淳の判断だからきっと正しいはずだと、どんなときも黙って趙淳に付いていく。

 だが、今、王才は趙淳に対して怒り、険しい口調の言葉を叩き付けている。まっすぐな目で睨まれた趙淳は、つと顔を背けた。

「あのときは、本当は俺が出しゃばる必要はなかったな。ほかの誰であれ、指揮を執ることができた」

「違う」

「何が違うんだ、元直?」

大哥あにきがすげえ勢いで引っ張ってくれたから、あんな正面突破の襲撃が成功したんだ。ほかの誰かにできることじゃねえんだよ。確かに仲洌や永英たちも頼り甲斐のある指揮官だけど、大哥あにきは別格で特別で桁違いで、代わりはいない。誰も大哥あにきにはなれねえ」

 周囲の兵士も皆、王才の言葉にうなずいた。趙淳だけが、納得いかないと言わんばかりに顔をしかめ、誰とも目を合わせようとしない。

 趙萬年はいらいらした。言葉を探すより先に体が動く。趙萬年は、近くの兵士の手から稽古用の槍を奪うと、趙淳の手に押し付けた。

大哥あにき、久々に勝負!」

「遊んでいる暇はねえんだ」

「遊びじゃなくて勝負! オレは本気でかかるぞ!」

 宣言すると同時に、鋭い刺突を繰り出す。

 布にくるまれた木製の穂先は、趙淳にかすりもしない。趙淳はごく小さな動きで趙萬年の槍に自身の槍をぶつけ、穂先をらしている。

 趙萬年はすかさず次の一撃を加える。趙淳は半歩引いて槍を構え、趙萬年の攻撃をいなす。

「阿萬、やめろ」

「嫌だ! うじうじしてばっかの最近の大哥あにき、むかつくんだよ!」

 趙萬年はさらに踏み込む。利き腕を狙う連続攻撃。不意に差し挟む胴払い。だが、全く趙淳に当たらない。

 王才が、攻める趙萬年の呼吸の合間に宣言した。

「俺も手伝う!」

 他者のものより重量のある王才の槍が、ぶん、と唸る。趙淳の斜め後ろから痛烈な一撃が放たれた。

 がつん、と槍同士が打ち合わされる。

 趙淳は半身を王才に向け、手にした槍で王才の槍を絡め取っている。王才は力任せに趙淳の槍をねのけようとする。が、趙淳はぴたりと王才を抑え、微塵もぶれない。

 すかさず趙萬年が刺突する。

 渾身の一撃はしかし、趙淳がわずかに身をかわして趙萬年の槍に手を触れた瞬間、勢いを殺される。槍はそのまま動かなくなった。趙淳が槍の柄を脇に挟み、つかみ取っている。

 趙淳が、つかんだ槍を奪い取ろうとする。趙萬年はその力の流れのままに、槍を思い切り突き放した。趙淳が目を見張る。

 徒手となった趙萬年は、趙淳のふところに飛び込んだ。心臓のあるあたりに拳をぶつける。硬くて柔らかい筋肉の反動がある。趙淳が息のかたまりを吐き出す。

「一本取った!」

 趙淳の、王才の槍を抑え込む力が揺らいだ。王才は隙を見逃さなかった。

 気迫一閃、王才は趙淳の槍を打ち払う。王才は素早く槍を返しつつ、趙淳の背中に回り込んだ。唸りを上げる一撃が趙淳の首筋を狙う。

「また一本!」

 槍の穂先は、すんでのところで止まっている。

 趙淳が息をついた。

「おまえたちは何がやりたいんだ?」

 趙萬年は、ごく近い場所で趙淳を見上げた。

「こんな簡単に勝てるとは思わなかった。元直と二人掛かりでも、いつもはもっとずっと手強い。むしろオレたちが負けっぱなしになるのに」

 王才は槍を下ろした。

大哥あにきが苦しんでること、俺にもわかるよ。人がいっぱい死んでる。俺も怖くなるんだ。出陣して帰ってくるたびに、ああ俺はまだ死んでねえんだって不思議になる。人をたくさん殺すことが仕事だから、俺もいつか殺されて死ぬんだって思ってる」

 やめろ、と趙淳があえいだ。何度も喘いだ。

「元直、やめろ、やめてくれ。死に様なんて思い描くのは、やめろ。いや……俺は、本当は死に様まで見届けてやりたかったんだ。皆を戦場に送り出すのが俺の役目なら、せめて一人ひとりの顔を見て、最期の瞬間を目に焼き付けて、忘れずにいてやりたくて」

 王才が槍を捨て、子供のように趙淳の背中に抱き付いた。

「わかってんだよ。俺、ちゃんとわかるんだ。大哥あにきが兵士の名前を呼ぶんじゃなくて何百何千の兵力ってまとめて呼ぶとき、そんなふうに名前と顔のない兵士が一人の人間として死んじまったとき、大哥あにきはすげえ後悔してる。顔に出てんだよ、全部」

 趙淳は両腕をだらりと垂らし、空を仰いで息をついた。

「俺は人殺しだ。この手で罪を為すだけじゃなく、趙家軍や敢勇軍を動かして、何千人もの命を奪ってきた。血も涙もないはずなのにな、そうじゃないらしい。身近な誰かが死ぬたびに、俺も一緒に消えてなくなりてえほど、悲しくて苦しい。俺は矛盾した、げた男だ」

 趙萬年は勢いよく首を左右に振って、趙淳に抱き付いた。

「莫迦じゃねえよ。もし莫迦だとしても、それで全然かまわねえ。血も涙もあって、武芸はめちゃくちゃ強いけど、抜けてたり弱かったりすることもある、矛盾だらけの大哥あにきが、趙家軍の趙伯洌だ。オレたちの大事な伯洌将軍だ!」

 そうだそうだ、と涙声で賛同した趙家軍古参の兵士を皮切りに、皆が次々と趙淳に飛び付いた。兵士たちは趙淳を中心とする押し合いへし合いの団子になって、趙淳に切実な言葉を投げ掛ける。

 おいおいと泣き出した者もいた。趙淳が兵の死を悲しんでいることを知り、戦場で悲しむことが許されるのだとわかって、張り詰めていた糸が切れたのだ。

 趙淳が笑った。

大丈夫だいのおとこがあまり人前で泣くなよ。まあ、今日は大目に見てやるが」

 笑った拍子に、趙淳のそうぼうからも、はらりと涙のしずくが落ちた。趙萬年はそれを目撃したが、気付かなかったふりをした。

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